第4話 お忍び中に新婚夫婦は




「わたくし、こんなに楽しいのははじめてですわ。アクルガル様」

 午後、お忍びで出かけた城下町の市場の賑やかさに目を輝かせた新妻はうっとりと囁いた。


 昼食の席で、今まで一度も城下に行ったことがないと話したアビ・シムティに「それならこれから出かけましょうか」と提案すると、彼女はまたも感極まった表情でアクルガルを見つめた。


 魔王女は今、たっぷりした襞の外套のフードで顔を隠し、ぴったりとアクルガルの背中に張り付いてきょろきょろと店頭の品々を見渡している。なんてことのない食べ物や服飾品、台所用品まで、城にずっと引き籠っていた王女にとっては珍しく感じるようだ。


「父は過保護なのですわ。嫁に出すまでは決して表には出さないと。あの通り話がかみ合わない方ですから、わたくしはお嫁に行くまでの辛抱だと……」

 そんな愚痴が朱色のくちびるからこぼれ出る。何気ない新妻の話から、アクルガルは少しだけ腑に落ちた気がした。


 監督の厳しい親元を離れるために一刻も早く結婚したくて、降嫁先となり得そうな相手を探した結果、ちょうどいいのが自分だったのではないのか。命の恩人云々は口実なのではないかと。

 後ろ向きなアクルガルにとって、これはなかなか納得のいく理由のように思われた。アビ・シムティのように気高く高貴な姫君が自分のような者に好意を抱くとは思えない。都合の良い相手となるのが自分だったというだけで。


 そんな物思いにぼんやりしながら歩くアクルガル。そんな彼に向かって、行きずりに次々にお祝いの言葉が投げかけられる。

「アクルガル様は人気者でいらっしゃいますのね」

 それだけのことにもアビ・シムティは誇らしそうにアクルガルを見つめる。


 いえ、別に。単に、声をかけられやすいだけで……絡まれやすいだけで……つまりは舐められているだけで……四天王なのに。

 とも口には出せないアクルガルは「俺は城下町出身なので」とだけもごもごとつぶやいた。なにしろ目立ちたくないので、とにかく口数少なくおとなしくしていなければ、と肝に銘じているのだから。


「あら。あれはなんですの?」

 アビ・シムティがひときわ賑わっている露店を指差す。大人の指先より少し大きいくらいの楕円形の木の実がこんもりと盛られている。

「ナツメですね」

「ナツメ? 食べ物ですの?」

「ええ、はい。甘い果物です」

「珍しいのかしら?」

「そうですね、東の国との交易品です。俺の領地ではさほど珍しくもないですが」

「そうなんですの? 食べてみたいわ」

 フードの陰から魔王女が目配せすると、付き従っていたメイドが心得たように店頭に向かった。やがて手のひらいっぱいに赤褐色の実をかかえて戻ってきた。


「どうやって食すのですか?」

「生のまま丸かじりでいけますよ」

 ひとつをつまみ上げ、いちおう服で拭ってからぱくりと口の中に放り込む。しゃりしゃりと歯ごたえのいい音がして甘い果汁が広がる。

「うん、甘いです」

「わたくしにも」

 アビ・シムティはあーんと小さく口を開けた。白い八重歯がちらりとのぞく。


 もちろん硬直するアクルガル。魔王女は意に介さず爪先立って顔を近付けてくる。

 ナツメの実をかかえているメイドが無表情で白いハンカチをアクルガルの手におしつける。

 震える指でナツメをつまみ、ハンカチで丁寧に拭ってから、アクルガルはいっそうぷるぷると震えながら魔王女の口へとナツメを近付けた。


 アビ・シムティは目を伏せながら受け入れる。緑色の瞳にまつげの影が差し、昨夜寝台の上で目にしたような憂いが新妻の面に浮かぶ。

 どきりとなったのもつかのま、今度はやわらかなくちびるの感触が指先に伝わってきて、アクルガルはびくぅと飛び上がった。


「ほんとう、甘いですわ」

 もごもごと口を動かしアビ・シムティはとろけそうに微笑む。

 わけのわからない羞恥心で首まで真っ赤になったアクルガルは「あー」とか「うー」とかそんな声しか出てこない。


 そんなとき。

「将軍! アクルガル将軍! 緊急事態ですぜ、将軍!」

 え、と顔を向ける。伝令らしい兵士が駆け寄ってくる。

「領地で異変あり! 悪霊アサグが活動を始めたと。直ちに戻って対応しろってさ!」

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