第37話「死にゆく者」
翌朝、律樹は早朝に目が覚めた。時刻は午前6時に差し掛かる辺り。ふと尿意を感じ、布団から出た。暖房のかかった寝室とは違い、廊下は外の冷気を溜め込んだように肌寒かった。
「ん?」
トイレに向かう途中で、明典が実代の部屋に入るところを目撃した。こんな朝早くに一体何をしているのだろうか。
「母さん、あの人達をこれ以上引き留めるわけにもいかないよ」
「そうだねぇ。せめて死ぬ前にドリプロの演奏が聴きたかったんだけど」
律樹は電撃が走ったような衝撃を受ける。実代が口にした『死ぬ前に』という言葉が、律樹の心に痙攣を引き起こす。彼女の体は老化がかなり進んでおり、既に命の危機を迎えていた。息子は付きっきりで看病している。
「死ぬなんて……そんな縁起でもないこと言わないでよ」
「仕方ないよ。私はもうすぐ寿命を迎えるんだから。せめてもの生涯最後の頼みだったんだけど……確かにこれ以上迷惑をかけられないもんねぇ」
彼女は決死の思いで手紙を送ったのだ。大好きなバンドの演奏を生で聞くという、死ぬ前の最高の贈り物を期待して。
このまま自分が頼みを断り続ければ、彼女は後悔を残したままこの世を去ることになるだろう。大切な仲間を亡くした自分なら、望みを途絶えられて死ぬ悲しみがどれだけ深いものか、想像するに足らない。
「……」
それとも、また『過去の古傷を抉られるから』という自分の身勝手な理由で、一人のファンの希望を踏みにじり、命の灯火が消える様を黙って見届けるというのか。
「お兄ちゃん」
後ろから千保の声がした。振り向くと、彼女の髪はボサボサになっていた。まるで大量に水を浴びて乾いた後のように。
「楽器、取ってきた。ドラムセットとギター」
「は?」
千保の後ろから機材を抱えた清史と詩音、そして光が姿を現した。
「だって、楽器がなかったら演奏できないじゃん?」
光は自慢気にギターを掲げる。律樹が一番に気になったのは、千保のボサボサの髪だ。妹と長年過ごしてきた兄であるからこそ、妹が何をしたかは安易に想像できた。
最初に島を出た時、機材は加藤家に置いてきた。実代に演奏を依頼されることなど聞かされていないからだ。一晩にして家に機材を取りに行き、戻ってきた。
「遺される人達の悲しみは、お兄ちゃんが一番よくわかってるでしょ」
千保は兄にドラムスティックを差し出す。能力を使ったとはいえ、何十kmも離れた島の家へ行き、戻ってきた。酷く冷たい海を越えて。本当に無茶が好きなお人好しの馬鹿妹だ。
「俺も、律樹さんには後悔してほしくないです。お願いします。実代さんの願いを聞いてあげてください」
清史も真剣な眼差しで律樹を見つめる。詩音も今にも泣きそうな目で兄を見つめる。ここにいる全員が、律樹の背中を押している。
光が律樹に微笑みかける。
「リッキー、行こう。実代さんに最高の夢を見せてあげようよ」
律樹は千保からドラムスティックを受け取った。彼の頬に伝った感謝の雫が、光を放って落ちていく。
「……あぁ」
朝も完全に明け、一同は庭へと移動した。清史と千保、詩音の三人は、明典と共に庭に積もった雪を掻き出す。そこへ楽器を運び、律樹と光が位置につく。
「お兄ちゃん、光さん、頑張れ~!」
「頑張ってください!」
「ファイトっす」
清史達は実代と共に縁側に座る。清史もドリームプロダクションの生演奏を聴くのが初めてだ。初にしてこんな至近距離で生パフォーマンスを見られるとは、この上ない幸せだろう。
「あ、あんま期待すんなよ……」
律樹はキックペダルを踏み、両端のシンバルを叩いて音を出す。久しぶりの演奏の前に緊張気味だ。
「なんか今のリッキー、ドラムセット触りたての頃みたい。可愛い~♪」
「うっせぇ」
光はギターのチューニングをしながら、隣の律樹をからかう。楽器も心も準備は整った。
「あの二人がいないから出来損ないの演奏になっちゃうかもですけど……」
「十分です。ありがとうございます」
期待の眼差しを向ける実代。律樹はドラム、光はギター。バンドと呼ぶには少々寂しい光景だ。しかし、楽器が二種類しかなくとも、恩師の死という絶望を乗り越えた二人が奏でる音に限界はない。
「リッキー」
「あぁ」
光は律樹に視線を送る。
「それでは聴いてください。ドリームプロダクションで、『グッドナイト』」
実代は目を閉じながら、静かに演奏を聴いた。ギターとドラムだけで奏でられる不十分なメロディーでも、彼女の心には四人の勇姿が映し出されていた。
歌声も実に見事だった。結月の跡を継ぎ、光がマイクを握った。律樹も後ろからハモりを入れ、彼女の歌声を引き立たせる。二人の声が耳に入る度に、人生を歩むための道が形成されていくような、激励の意が感じられた。
彼らの音楽は若者だけではない。この世界に生きる全ての者に、希望に満ちた夢を与えている。
6分半の曲が終わり、沈黙が辺りを包み込む。あまりの出来映えに圧倒され、しばらく誰も意味を成す言葉を発することができなかった。
「あぁ……」
そしてこの瞬間、実代は世界で一番の幸せ者になったような充足感に浸った。演奏はあっという間に終わってしまった。しかし、永遠とも感じられる幸せな時間を、実代は心の底から堪能することができた。
「これよ……私がずっと見たかったもの……」
実代の瞳から大粒の涙が流れた。自分が死ぬ運命にあるとわかった時から、ずっと求めてきたことが叶った。
どんなことを経験しても悔いは残ったままだ。世界最高のミュージシャンである彼らの音楽を、目の前で披露してもらうという贈り物をもらわなければ。
「こんな動けない体になっても、あなた達の音楽が私の生きる希望になってくれた。本当にありがとう……最高に楽しい夢の時間でした」
「こちらこそありがとうございます」
実代はシワだらけの腕で涙を拭う。後ろから明典が背中をさする。清史達も微笑ましい表情で眺めた。
演奏した律樹と光も、達成感で心が満たされた。この世に留まる寸前の彼女の人生を、そっと彩る手助けをすることができた。
「リッキー、ずっと弾いてなかったのに上手いじゃん」
「別に。大したことねぇよ」
「何よ、スンッとしちゃって!」
「いでででで!」
光が腹いせに律樹の頬をつねる。
「すごかった! 流石伝説のバンド、ドリームプロダクションだね!」
「二人ともすごくカッコよかったですよ!」
「はい。よかったです」
清史達も二人の栄光を讃え、厚い握手を送る。自分のしたことにここまで感謝を示してくれるとは。過去の高揚した心が甦ってきた律樹。
きっと11年前までの自分も、こうして誰かに応援されながら、ドラムを叩き鳴らしていたのだろう。結月と季俊がいなくなり、この世に絶望してから、自分の人生に希望を見出だせなくなっていた。
しかし、それは大きな間違いだった。自分にはまだ仲間がいたのだ。出来損ないの人間である自分を支えてくれる仲間が。千保が、詩音が、清史が、そして光が、たくさんの温かい仲間がそばにいてくれた。
「……なぁ、光」
「ん?」
バンドを始めてよかったと思ったことは、今までも何度もある。しかし、確実に一番強く思ったのが、今この瞬間だ。こんな素晴らしい人生を与えてくれた運命に、心から感謝した。
「ありがとな」
「フフッ、どういたしまして♪」
完全に過去の絶望を克服した律樹。輝かしい希望の光と共に、これからも前向きに生きていくことを決意した。
止んでいた雪が、再び降り出した。楽しい時間が終わり、一同は早速本題へと移行した。
「では約束通り、宝玉の在処をお教えしましょう」
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