第16話「少女と魚」



 眩しい。重たい目蓋まぶたを開くと、カーテンの隙間から漏れる光が、俺の安眠を妨害していた。顔をひっくり返し、壁に掛けられた時計を確認する。時刻は7時26分か。えっと……確か7時半頃に起きようって話になってたっけ。


「ふぁぁ……ん?」


 体を起こした途端、目に飛び込んだのは千保の可愛い寝顔だった。そうだ、四人で一部屋だから、千保とも同じ部屋で寝たんだった。


 律樹さんはまだ寝てるな……よし、今がチャンスだ。千保には悪いが、朝イチに少々寝顔を堪能させてもらうことにしよう。


「千保……///」


 あぁ……何度見てもしなやかな首筋と、ちらりと覗かせる胸元がエロい。これは並大抵の色気じゃねぇぞ。AV女優の素質を感じる。




「清史」

「うぉわっ!?」


 背後に律樹さんの鬼の形相が迫っていた。いやいや、いつの間に起きたんだよ! 数秒前まで布団被ってぐっすりだったろ!?


「清史、お前は永遠に寝てろ」

「す、すいません!!!」


 寝顔を眺めるのも許さないのか。ほんと、このシスコン兄貴は妹に危機が迫ると、どんな状況でも駆けつけるんだな。当たり前のように瞬間移動されると怖いわ。


「んん……どうしたの……キヨ君……」


 千保が眠気を引きずりながら起きた。騒ぎ過ぎたようだ。寝ぼけてる姿も悪くないな。


「おい、千保から離れろ」

「すいません」

「お兄ちゃん、キヨ君を叱らないで」






 俺達はそそくさと着替えを済ませ、宿を発つ準備をする。布団と浴衣を畳み、部屋の隅に置く。


「忘れ物はねぇか?」

「なーい」


 今日も途方もない宝玉探しが始まる。




「ん?」


 俺は部屋の入り口から何者かの視線を感じた。顔を向けると、襖から少女が顔を覗かせていた。


「あっ!」


 俺はその少女の顔にとてつもない見覚えがあった。昨日町で見かけたあの子だ。ナキウオの生き捌きをしていたところに現れ、「ナキウオが可哀想」だの「動物殺し」だの叫んでいた少女だ。


「……!」


 少女は気付かれると、すぐに廊下へ逃げた。何だよ、そんなに俺の目付きは怖いか。俺は彼女を追いかけた。何か悩んでいるような悲しい目が見えたからだ。




 廊下に出ると、彼女は奥の一室に身を隠した。あそこは確か、夜中に女将さんが仕事をしていた部屋だ。俺は更に彼女を追いかけ、その部屋に入った。


「おい!」

「わ、お、お客様!?」


 そこには少女だけでなく、女将さんもいた。ここは女将さんの自室のようだ。


「え、えっと……」


 それより部屋に入った途端、目に飛び込んだ光景に唖然とした。彼女達の背後に、シートに覆われた大きな何かが置かれていた。


「お、お客様、お帰りですか! ではお会計を……」

「あの、後ろのそれ……何ですか?」

「な、何でもないです!」


 あからさまに動揺する女将さん。彼女の慌て様が、決して他人には知られてはいけないものだと分かりやすく伝えてくれている。


「本当に何でもないんです! 怪しいものではありません!」


 女将さん……怪しいものは『怪しいものではありません』という言葉を付け加えると、その度に怪しさが増すものなんですよ。


「……」


 俺は少女の手元に視線を移動させた。彼女が持っていたのは魚の餌だった。少女は俺の視線に気が付くと、咄嗟に餌の袋を背中に隠した。




「キィィィィィ」

「……あ」


 シートの中から声が聞こえた。馬鹿な俺でも何となく中身がわかった気がする。




   * * * * * * *




「あの子の名前は上杉未玖留うえすぎ みくる。私の娘です」


 女将はナキウオに餌を与える未玖留を、清史達に紹介する。未玖留は美味しそうに餌を食べるナキウオを、微笑ましく眺めていた。ナキウオも悠々と水槽の中を泳いでいた。


「そして私が母親の響花きょうかです。娘が町でご迷惑をおかけしたみたいですね。大変申し訳ございません」


 響花は丁寧に頭を下げる。女将と町で叫んでいた少女は親子だった。幸い警察沙汰にはならなかったが、未玖留の起こした騒ぎは一般人の目からは異常に見えた。


「あの、昨晩この部屋にいたのは……」

「見てたんですね。ナキウオに餌を与えていました。海水魚を育てるとなると、一匹でも定期的に多くの餌を与えなければいけないんです」


 先程から響花がひた隠しにしようとしていたのは、宿で密かにナキウオを飼育していたことだった。なぜ知られてはいけないのかは、既に清史達も知っていた。


「ナキウオを飼ってるって……」

「はい。ナキウオほどの希少種となると、飼育や繁殖に特別な免許を取得する必要があります。ですがこのナキウオは、未玖留が私的に拾ってきたものでして……」


 清史達は昨日養殖場で知った。特別な免許無しでのナキウオの飼育や繁殖、捕獲は禁止されている。しかし、無免許でナキウオを育てている響花達は、当然罪に問われる。


「どうしてナキウオを飼ってるんですか?」

「……話は長くなりますが、よろしいですか?」


 響花は語り始めた。魚に心を囚われてしまった少女の話を。








 響花は夫と共に宿を経営していた。しかし、突然夫が海難事故で命を落とし、響花一人で宿を切り盛りしなければならなくなった。未玖留がまだ5歳だった頃だ。


 未玖留は動物や昆虫と触れ合うのが好きだった。暇を見つけては外に出かけ、森で野生のウサギやタヌキを撫でたり、海岸でカニやエビをつついたりした。父親を亡くした悲しみを、命と触れ合うことで紛らわした。




「ん?」


 そして10年前のある日、未玖留はいつものように砂浜に遊びに来た。そこへ魚が打ち上げられているのを見つけた。ミズシロ島ではありふれたナキウオだ。


「大変!」


 すぐさま駆けつけ、生死を確かめた。海水魚が陸上で生きられる訳がない。すぐさま水中に戻さなくては。


「……あれ?」


 しかし、ナキウオは苦しむ様子もなく、平然と呼吸をしていた。未玖留は信じられなかった。魚が陸上動物のように海から出て生きている。


「すごい……」

「キィィィィィ」


 ナキウオは未玖留に挨拶するように鳴いた。だがこんな奇妙な光景を、他の人々の目に映ればどう思われるだろうか。人目につかないうちに、早く海に返してやるべきではないか。未玖留はナキウオを抱き上げ、海へと運んだ。


「……」


 ふと未玖留の足が止まった。このまま海に返せば、ナキウオはどうなるのか。しばらくは自由に海を泳いでいられるが、いつか漁師に捕獲されてしまう。そして、料理のためにその命を……


「キィィィィィ」


 再びナキウオが鳴いた。未玖留に懐いているようだ。猫のように彼女の胸に頭をうずくめる。可愛らしい仕草を見ると、冷たい海水に戻す気など消えてしまった。


「大丈夫だよ……私が守ってあげるからね……」




 未玖留はナキウオを家に持ち帰り、母親へ説得を試みた。


「ママ、この子飼ってあげよ」

「ダメよ未玖留。それは許可をもらった人じゃないと育てられないの。海に戻してあげなさい」

「嫌だよ! 海に戻ったら誰かに捕まっちゃうもん! 捕まって殺されて食べらちゃうんだよ!」


 響花は未玖留の提案を受け入れなかった。しかし、未玖留は引き下がらずに何度も願った。


「じゃあ役場に渡しに行きましょ」

「それでも食べられちゃうよ!」


 役場に引き渡しても同じだ。いずれ食用として殺されてしまう。それを可哀想に思った未玖留は、頑なに無理を言って飼育することを願った。しかし、二人は免許を持っていない。ナキウオを私的に飼育することは犯罪である。


「未玖留、私達人間はそうやって生きていくの。生き物の命をいただいて生きてるの。それは仕方のないことなのよ」


 響花は宿の経営をしているため、客のために料理を提供するのも日常茶飯事だ。食という概念に囲まれた人生を送っているため、命に対する敬意は人並みに持ち合わせている。


「だったら……」


 しかし、未玖留が理解するには複雑過ぎた。


「私は食べない! 動物を殺して作った料理なんて食べたくない! 動物が可哀想だよ!」

「未玖留……」

「命をいただくなんて、そんなの間違ってる! 命は食べられるためにあるんじゃない!」








「というわけです。それからこの子、本当に動物性の食品などは一切口にしなくなって……米や小麦などの穀物や野菜しか食べないんです」

「それからって、10年間ずっとですか!?」

「ヴィーガンってやつだな」


 響花の話が終わった。未玖留はナキウオを買い始めてから10年間、一切動物性の食品を口にすることなく、完全菜食の生活を続けてきたようだ。本当に動物を殺して作った料理を拒んできた。

 未玖留の考えも理解できないわけではないが、納得だけはどうしてもできなかった。律樹と光は反対気味だ。


「親なら今すぐやめさせるべきですよ。こんな成長に大事な時期に……」

「私だってこんなことはさせたくありません。でも……」


 響花はナキウオとじゃれ合う未玖留を見た。彼女は母親の言い分を全く聞かないらしい。彼女のナキウオを抱く腕が異様に細い。栄養が偏り、成長が不安定な証拠だった。


「……」


 清史の目にも明らかだった。今すぐ完全菜食生活をやめさせるべきだと。




「未玖留ちゃん」


 すると、千保が笑顔を浮かべながら、未玖留に歩み寄った。


「この子、名前は何て言うの?」

「キーちゃん」

「キーちゃん……いい名前だね♪」

「うん! すごく可愛いんだよ!」


 千保と未玖留は笑い合った。


「お姉さん、キーちゃんと遊んであげて」

「うん、一緒に遊ぼう」

「キィィィィィ」


 千保が頭を撫でると、ナキウオも可愛らしく鳴いた。偏った食生活を続ける未玖留も、ナキウオのそばでは笑顔を忘れることはなかった。ナキウオは彼女にとって最高の友達なのだろう。


 その様子を見た清史は、食用にされる魚がいたたまれなく思えた。人間が生きるためには、多少の生き物の犠牲は仕方のないこと。果たして本当にそうなのだろうか。


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