第1章「キオス島」

第3話「不思議な少女と」



 清史はじっと千保を見つめた。千保も清史の瞳を真っ直ぐ見つめ返す。しばらくの間沈黙が支配する。


「……えっと、大丈夫?」

「え、あっ……いや、大丈夫だ///」


 清史は沈黙に耐えられず、頬を赤く染めながら顔を反らす。思わず彼女の整った顔立ちに見惚れてしまったのだ。初めての感覚だった。母親以外の異性との交流が全くなかったため、必然と異性の顔を見て魅力的と思うこともなかった。


“結構可愛い……///”


 彼女の姿を改めて眺める。果汁を染み込ませたように桃色に輝くロングヘアー、優しげな微笑みを忘れない小さな顔、すらりと細い腕や腹、その体を包み込む薄手のシャツ、ショートパンツからそそり出るしなやかな足。彼女の姿を形成する要素全てが満遍なく魅力を引き出し、彼女の可愛らしさを生み出していた。


「あれ? 顔が赤いよ? やっぱりまだ体調悪いんじゃない?」

「いや、違っ……だ、大丈夫だから!///」


 女性と会話すること自体が不馴れな清史。赤みがかった頬を隠し切れずにいた。千保の顔を覗き込む可愛らしい仕草に、これまた心を掴まれる。胸の高鳴りを聞かれまいと、布団を被って寝入る。そんなことをしても、『大丈夫』という言葉の信憑性がなくなるだけであろうに。


「……ふふっ、君、面白いね♪」


 清史は布団越しに千保の笑い声を聞いた。彼女の挙動には心を狂わされる。溺死寸前から救い出してくれた理由もそうだが、わざわざ名前を名乗ったことも、『よろしくね』という言葉の意味も、さっぱり意味不明だ。


「……」


 助けたからといって、彼女に一体何の利益がある。自分ごときが何の役に立てると言うのか。『よろしく』だなんて、これから会うことを約束しているみたいで歯がゆい。彼女とは何の接点もないし、これから行動を共にする理由もないはずだ。

 清史は心の中で相変わらずの屁理屈を羅列し、彼女との交わりを絶とうとした。


「ねぇ、お腹空いてるでしょ? 何か作ってあげる」


 そう言うと、千保は椅子から立ち上がり、部屋のドアへと駆けていった。ドアノブを握った直後、何かを思い出したように立ち止まる。


「あ、そういえば冷蔵庫何もないんだっけ。材料買ってくるから待ってて」

「え?」


 清史は思わず声を溢した。


「それまでゆっくり休んでね。おやすみ♪」


 ガチャッ

 千保は清史に微笑みかけ、ドアを閉じた。彼女がいなくなった後、清史はベッドから起き上がり、枕元に置いてあったメガネをかける。そして誰もいない部屋を見つめる。

 最初から最後まで彼女は謎だった。素性の知らない者を救い、家に入れて料理を振る舞おうとする。どんな思考回路があれば、そんな考えに至るのだろうか。


「何なんだ……」


 清史はベッドを離れ、歩きながら部屋を見渡す。本棚の上に写真があり、机の上には高校の教科書が並べられている。壁には千保の学校制服であろう紺色のセーラー服が立て掛けられている。ベッドのそばにはネコやクマ、イルカなどの動物のぬいぐるみが横たわっている。いかにも女の子らしい。


 それに、ほんのりと甘い香りがした。清史の感覚ではうまく例えることができないが、フルーツとも芳香剤とも違う。彼女の香りだろうか。


「……」


 ここは彼女の自室らしい。よくもまぁ男を気軽に自分の部屋で寝かせられるものだ。改めて彼女のメンタルを不審に思う。清史はしばらくの間、千保の部屋をうろうろと歩き回る。


「ん?」


 ぬいぐるみの下に何か挟まっているのを見つけた。清史はそれを興味本位で引っ張り出した。


「!?///」


 清史の頬が再び赤く染まる。挟まっていたのは女性用の下着だった。桃色のレースショーツだ。恐らく千保のものだろう。清史の腕が震え、染み出た冷や汗がプルプルと揺れる。


“何でこんなもん床に落ちてんだよ……ちゃんとしまっとけよ……///”




 ガチャッ


「千保……いるか?」

「え!?」


 何の前触れもなく部屋のドアが開いた。姿を現したのは、黒髪の若い成人男性だった。清史は思わず声を上げた。今入られると、色々な意味で非常にまずい。


「もう……リッキー、女の子の部屋に入るときはノックしなきゃでしょ」

「だからその呼び方やめろって」


 男の背後から白髪の女性が顔を出した。男のことをリッキーと呼ぶ。男よりも少々若いように見えた。この人達は一体誰だろうか。


「いいじゃない、昔馴染みでしょ」

「今はそうやって浮かれてる場合じゃねぇだろ」

「あっ、そうそう、千保ちゃん!」

「相変わらず呑気だな、お前」


 清史の前で訳のわからない無駄話を繰り広げる二人。存在を認知されない清史は反応に困る。


「なぁ千保……って、誰だお前!?」

「あら」


 ようやく千保の部屋に見知らぬ男が居座っていることに気付いた二人。気付くのが遅すぎる。千保の名を口にしている様子から、彼女の知り合いに間違いなかった。彼女の家族だろうか。


「まさか千保ちゃん、目付きの悪い男の子になっちゃったの?」

「んなわけねぇだろ! おい、この家で何してんだ!」


 男は清史に突っ掛かる。家に帰り、突然知らない人間がいたら不審に思うだろう。清史は慌てて説明する。


「えっと……千保が……」

「千保ちゃんの知り合い?」

「あ、いや……そういうわけじゃないけど……」


 ガッ

 男はゴミを拾うような乱暴な手つきで、清史のシャツの襟を掴んだ。


「なら赤の他人ってことだよな」

「え……」


 男は鬼の形相で清史を睨み付ける。清史は心臓を刃物で貫かれたような恐怖に襲われる。


「妹の部屋で何してんだ。どうやって忍び込んだ」

「え……あ、その……」


 清史はうまく言葉を発することができなかった。千保に助けられた経緯を説明しようにも、男から放たれる威圧感がそれをさせまいとする。男は千保を妹と言っている。彼は千保の兄だろうか。


「また千保目当てに近づいてきた奴か。さっさと出てけ」

「ちょっとリッキー、流石にそこまで追い詰めるのは可哀想だよ」

「何だよひかる、こいつを庇うのか?」


 光と呼ばれた女は清史を擁護しようとするが、男は断じて清史を許さない様子だった。清史は完全に言葉を発する気力を失った。


「事情を聞いてあげようよ。なんか理由があるのかもしれないし」

「なぁ、光……」


 男は呆れたような目付きで、女に告げる。




「妹のパンツを握り締める男を信用しろって言うのか?」

「……あ」


 清史は言われて初めて気が付いた。先程見つけた千保の下着を、自分がまだ手に持っていることを。


「ぶふぉっ」


 清史が下着を持っていることに気が付いた女。シュールな光景に思わず吹いてしまった。


「待ってください! これは……」

「言い訳なんざ通用するか! とっとと出てけ!」

「ぐっ……」


 凄まじい力で首元を引っ張られ、玄関の方向へ連れていかれる清史。もはやどんな言い分を用意しても、男には通じなかった。それもそのはず。妹の下着を物色する輩など、信用できる訳がなかった。


「ちょっ、待って!」


 このまま誤解を解かずに追い出されるのは尺に触る。清史は必死に暴れて抵抗した。


“やべぇぞこれ……”






「清史君?」


 台所らしきところを横切った時、彼女の声がした。声のする方へ顔を向けると、千保が冷蔵庫へ買ってきた食材を入れていた。千保も清史の声に気付き、こちらに顔を向けた。


“……あれ?”


「ち、千保……帰ってたのか……」

「お兄ちゃん……」


 男も千保の存在に気が付く。なぜかお互いに緊迫した表情を見せる。二人が兄妹というのは本当だった。


 いや、それよりも、清史には気になることがあった。


“もう帰ってきたのか!?”


 清史は思い返す。千保がこの家を出たのは、部屋を見ていたり、彼女の兄との下着の下りから逆算して考えると、今から2,3分前だ。

 そして、千保の持っている買い物袋の膨らみを見て、かなりの量の食材を買ってきたことが伺える。たとえ店が近くにあったとしても、家との往復と買い物の時間を考えると、2,3分で帰ってこられるとは思えない。


 つまり、帰ってくるのが早すぎるのだ。清史はそんな些細なことが気になった。


「千保……おm、うぉっ!?」


 ガチャッ

 男が再び清史を引っ張り、玄関のドアを開ける。


 バシッ


「痛っ!」


 家の前に投げ捨てられ、地面に敷かれたコンクリートに体をぶつける。


「……二度と妹に近づくな」


 バァン!

 勢いよく玄関のドアが閉じられた。カチッと鍵をかける音も聞こえ、清史は冷たい地面の上で呆然としていた。




「……ハァ」


 清史は深いため息をついた。やはり自分のような厄介者が、誰かに親切にされることなど許されない。むしろ粗末な扱いをされたことに、逆に安心してしまう。


「結局ここでも除け者扱いか」


 清史は諦めて家を離れていった。この島に来て最初に入った森を目指す。歩きながら死ぬか生きるかを考えた。




律樹りつき……」

「お兄ちゃん……」


 玄関の前で佇む男を、光は心配そうに見つめていた。光は千保の肩に手を乗せる。千保も眉をひそめながら兄の後ろ姿を見つめた。


「千保、お前のためだ」


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