第2話「旅のはじまり」



 あんな事実を突き付けられて、冷静さを保っていられるわけがなかった。悪霊に取り憑かれたように足が動き出し、気付けば私は家を飛び出していた。家出なんて呼べるような大層なことじゃないけど、ただ現実から逃避したいという思いが私を走らせる。


「はぁ……はぁ……」


 今まで当たり前に思えて違和感を抱かなかった。しかし、私の中に眠る莫大な力が、実は異質なものであると教えられた。その瞬間、私の世界はたちまちにヒビが入っていく。崩れ去るのは時間の問題だ。


「嫌だよ……そんなの……」


 逃げても何にも変わらない。この呪いからは逃げられない。どこに行っても、どんなに抵抗しても、この力は私の中にしつこく根を張る。この身が生き絶えるまで。そんな非情な現実が、私の涙腺を破壊して涙を流させる。


「うぅぅ……」


 私って、強いのは筋力だけなんだ。心はちっとも強くなんかない。どんなに重いものを持ち上げられても、自分の心の忍耐力を上げることはできない。風船が小さな画鋲一本で一瞬にして破裂してしまうように、私の心も二言三言の囁きでボロボロに崩れ去る。


 私は弱い。




「はぁ……あれ? ここは……」


 涙を渇かすのに相当時間を費やしたようだ。私はいつの間にか深い森の中で佇んでいた。靴も履かずに飛び出したため、足は地面の石や木の枝で傷だらけだ。自分がどのような経路でここにたどり着いたのか、頭がいっぱいいっぱいでよく覚えていない。


 ここはキオス島の神殿の森。別に神殿があるわけじゃないけど、シマガミっていう島の守り神みたいな存在が眠る森と言われているとても神聖な場所。まぁ、この島に住んでから何度か遊んだことあるし。


 それに、もこの地に足を踏み入れた。先程伝えられた信じられない事実、ここからすべての始まりだったんだ。あの時、私はここで……




 ザッ ザッ


「ん?」


 人が森を進む音だ。私の他に誰かいるのか。こんな神聖な場所に平気で立ち入るとは、余程の怖いもの知らずか、それともただ単に無頓着なのか。


「あっ」


 ちらっと姿が見えた。私と同じ高校生かな……かなり若い男の子だ。彼は重たい体を引きずるように、小さなリュックを背負ってのそのそと歩いている。何しに来たんだろう。ハイキングにしては軽装だ。


「……」


 私は彼の後をつけた。なぜ彼がこの森にやって来たのかが気になる。それにこの先は崖がある。あんまり登り過ぎたら危ない。




「あれ? どこだろ……あっ!」


 一時的に姿を見失ったけど、しばらく森の出口付近を探してみて見つけた。彼は断崖絶壁から顔をのり出し、崖の底を覗き込んでいる。そんなところにいたら危ないよ。


「……?」


 彼はスマフォを取り出し、何かを入力し始めた。どうしたんだろう。彼は黙々と何かを打ち込んでいる。時折泣き出しそうな悲壮な顔を見せてくるのが気になった。こちらまで泣いてしまいそうだ。


 すると、彼は入力した内容を無意識に口にし始めた。それは明らかに異様なものだった。「自分は生まれるべきじゃなかった」とか「幸せになんてなれない」とか「もう何もかもがどうでもいい」とか。聞いた者の不安を煽るような内容ばかりだ。


「本当にごめんなさい……っと」


 彼は最後にはっきりとそう口にした。彼の最後の呟きが、私の中で組み立てられた想像のピースを完成させた。そして導き出された答えは明確だ。


 彼は遺書を書いていて、崖から飛び降り自殺をするつもりなんだ。


「……!」


 自殺なんてよくない。今すぐ止めさせなきゃ。


 ザザッ

 彼の前に飛び出そうとした時、足が地面の枯れ葉を踏んだ。その瞬間、彼はこちらに顔を向けた。

 その瞳がとてつもなく恐ろしくて、この世に存在するありとあらゆる負の感情を吸い込んだような、どす黒い眼差しを向けてきた。それに怯んだ私は、思わず草木の影に身を隠した。


「……気のせいか」


 私がいることに気付かず、彼は崖っぷちへと歩いていく。私の心臓は鼓動を早める。




 そうだ、必ずしもここで助けに行かなければならないわけではない。人は自由に生きて、いつか死ぬ。どんな生き方をしようと自由だ。死に方や死ぬタイミングだって、選べるのであれば選んでいいはず。

 彼はこの先の人生を諦め、自ら命を絶つ選択をした。彼と何の接点もない私には、その選択を否定する権利はない。


 一陣の風が、私の髪と彼の背中を揺らす。




「あっ……」


 彼はついに前に倒れ、果てしない崖の底へと落下していった。荒れ狂う大海原へと、その身を投げた。




「……!」

 

 バサッ

 私は意を決して草木の影から飛び出した。先程私の心をかき乱していたものなど、記憶の彼方へと葬り去った。私の身に突き付けられた事実、そして今私の目の前に広がる現実。その二つの事象に関係性などなくてもいい。


 命の重みは、今の私が一番理解しているんだ。




 私は力を解放した。私の右目は赤く輝く。




 ガッ

 私は地を蹴って崖から飛び降りた。遠くに落下していく彼の姿が見える。私と彼の体重を考慮しても、海水に落ちる前に彼の体に手が届く可能性は低い。しかし、私にはこの力がある。


 グググッ

 地面を蹴った私の右足に、膨張した血管が浮き出る。凄まじい反発性とスピードが生み出され、私の体はロケットのように彼の元へと飛んでいく。私は必死に手を伸ばした。




 ガシッ

 彼の腕に手が届いた。気を失っているのか、彼の体は人形のようにぴくりとも動かない。私は落下で生まれる突風の中、彼の体を引き寄せ、背中にしがみついた。男の子の体は流石に大き過ぎる。抱き留めるのが困難だ。


「うぅっ……」


 もうすぐそこに海面が迫っている。このスピードのまま海に叩き付けられたら、一溜りもない。彼の体を守らないと。


 グググッ

 私は再び全身の筋肉を膨張させる。体を強ばらせて、少しでも叩き付けられる衝撃を和らげるんだ。彼の体を上にして、私は背中から海に落下する。




 バァァァァァン!!!

 銃声にも似たものすごい水音が、耳をつんざく。体を強化していたとはいえ、30メートル程の高さから猛スピードで落下したのだから、痛みはとてつもない。私の体を泡が包み込む。


「……!」


 彼の姿がない。水中に飛び込んだ衝撃で、彼の体を離してしまった。周りをぐるりと見渡して探す。


「ぐっ! ぶふぉっ……だ、誰……か……助……あっ!」


 見つけた。彼は海面に顔を出して助けを求めている。しかし、水中から足を引っ張る何かと戦っているかのように、出たり沈んだりを繰り返している。パニック状態になっているんだ。このままでは溺れるのは時間の問題だ。


「助……がっ……」


 その言葉を最後に、彼は水中へと消えていった。あれだけ慌てていれば、体は瞬く間に水中に引き込まれる。




「……はぁ」


 私はため息を溢しながらも、水中へ潜って彼の元へと泳いだ。




















 俺は飛び降りた瞬間、意識を手放していた。しかし、水中に飛び込んだ衝撃で、手放した意識が呼び戻され、同時に体が沈んでいく恐怖に襲われる。我を忘れて水中で暴れた。だが俺の体は虚しく水中へと引きずり込まれる。


「……!」


 その時、彼女が現れた。桃色に輝く髪を揺らめかせ、魚のような素早い動きで俺の手を掴む。体内の酸素がなくなっていき、意識が朦朧とする水の中、彼女は俺の手を引きながら泳ぐ。何の前触れもなく現れ、溺れる俺を助けてくれた。


 燦然と泳ぐ彼女の姿は、まるで人魚のようだった。


「……」


 そして、俺はまた気を失った。











「あっ!」


 次に意識を取り戻したのは、ベッドの上だった。周りを見渡すと、どこかの家の一室みたいだ。すぐそばに彼女の姿があった。俺を助けてくれた桃色の髪の女だ。


「起きた? 体は大丈夫?」

「え、あ、あぁ……」


 彼女の優しげな瞳から全てを察した。彼女は溺れた俺を陸まで引き上げて、この部屋まで運んできたんだ。頭が金属片が挟まってるみたいにズキズキと痛む。先程まで溺れていたせいか、体もいつもより重く感じる。


「よかった。びっくりしたよ。本当に崖から飛び降りちゃうんだから」


 どうやら俺が崖から飛び降りるところを目撃したらしい。それで咄嗟に助けに行ったってか。勇気あるな。俺のことなんか放っておけばいいのに。結局自殺は失敗に終わったようだ。


「本当によかった」

「⋅……」


 少し衝撃を受けた。彼女は俺が無事だったことに安心していた。こんな世界に害でしかない存在の俺が生きていることに、何の反感も抱いていない。安心して笑顔になっている。なんで俺のために……。


 そもそも、どこから自殺しようとした人間を助ける勇気が湧いてくるのか。なぜ彼女は必死に俺を助けてくれたのか。彼女は一体何者だ。


「お前……何なんだ」

「あ、そうだ、まだ名前言ってなかったよね」


 いや、別に名前が聞きたかったわけではない。だが、彼女は自慢の笑顔を崩さずに名乗った。




「私、加藤千保かとう ちほ。あなたは?」




 これが俺と彼女の出会いだった。彼女との出会いから全てが始まり、俺の人生は再開した。彼女がくれた温もりのおかげで、生きていてよかった、幸せだ、そう思えるようになった。

 彼女と過ごした時間が、一緒に楽しんだ夏が、俺の命を吹き返してくれたんだ。まさか、この出会いが俺の人生を大きく変えるなんて思わなかった。


 彼女との出会いが、俺の人生の……旅のはじまりだった。




「……俺は、長谷川清史はせがわ きよし

「ふふっ、よろしくね♪」


 可愛い。彼女の笑顔を見て、素直にそう思った。


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