第8話
仕舞いの話
萩の花の盛りも過ぎて、急に朝晩の冷えるようになり、冬の到来を予告している様なある日、徳寿院で知念は朝のお勤めが終わり寸の間縁側で日向ぼっこをしていた。太陽の光が瞼の上からもキラキラと差し先程迄体を固くしていた冷えがゆらゆらと解けていく様だった。
「あぁ、お日様の光はなんて有難いのだろう。」知念は、目を閉じて顔を上に向ける。
今ホッとして温かな柔らかい気持ちになったものが吹き飛ぶ様に、先日眞島屋で対決したあの禍々しい蝦蟇の姿と、血迷って鬼の形相になった慈海の顔が目に浮かび慌てて目を開けた。
たらりとこめかみから冷や汗が流れる。まだ手に持っていた数珠を力を込めて握ると、和尚様が呼んでいる声が聞こえた。
「はい、ただいま。」そう応えて知念は、一度合掌をして居住まいを正し、頭を振って何かを振り切る様に足速に奥の座敷に向かった。
廊下に膝をついて、
「ただいま参りました。」と頭を下げた知念に和尚様が、手招きをして、
「おいで」と言った。
座敷には、つい先日会ったばかりなのに何故か懐かしいお二人が、慈愛に満ちた眼差しで和尚様と一緒に知念を迎え入れた。
「近江屋様、先日はありがとうございました。」
膝を揃えて頭を深く下げた知念に、近江屋の御隠居様は、
「ご苦労様でしたね。今、和尚様から話を聞きましたよ。もう体に障りは無いてすか。」と知念を労う。
知念は、持っていた数珠をぎゅっと握りしめてから
「ありがとうございます。昨日より朝のお勤めも出来る様になりました。」と懸命に笑顔を作った。
その顔を見て和尚様は、
「知念や、今日は近江屋さんがおまえの話を聞いてくださるそうじゃ。御隠居様か心太かどちらに話を聞いてもろうたら良いか、今話しておったのだが、我々では決めかねてな、お前の気持ちを聞いてからにしようと思うのじゃがどうかな。」と和尚様は知念に向かって優しく話しかけた。
知念が、どう言う意味か分かりかねて目を泳がせて、御隠居様と心太の顔を交互に見ると、
「おいらに話を聞かせてくれたら、この間の眞島屋さんでの恐ろしい出来事を忘れる事が出来ると思うんだ。そうしたら夜よく眠れる様になる。でもすっかり忘れちまってしまうのは嫌だと思うなら、御隠居様に話すのが良い。おいらもいつも御隠居様に話を聞いてもらう。すると不思議に心に掛かった靄が、するりと消えて気が楽になる。でも何があったかを忘れる訳じゃねえ。だから時々夢に見たりして震えることもあるんだ。だから、おいらか御隠居様かどっちが良いか考えてみてくれ。」と心太は、知念が何を選ぶのかを説明した。
「まぁ、やっぱし後から忘れたいと思ったらおいらを呼んでくれりゃあいいけど、なるべく時が経たないうちの方が、忘れるにのは都合がいいんだ。」と知念に笑いかけながら言う。
「知念や、どちらでもお前の思うままで良いぞ。」
知念は眉間にわずかに力を込めてしばし考えから
「和尚様、先日の出来事が不意に瞼の裏に映るって恐ろしくて震えることが、よくございます。特にあの時の慈海様お顔が浮かぶ度に、何もかも忘れてしまいたいと思います。しかし、」と暫く声を詰まらせて、
「しかし、忘れてしまっては先に進む事は叶いません。この先あの様なことに遭遇する事は無いやも知れませんが、何かあった時にあの経験が役立つ事も有るでしょう。」そう震える声で言いながら下げていた頭を上げると、和尚様の目を見て
「私は、忘れる事を選びません。」ときっぱりと言った。
小さな体の知念から大きな強い気が、感じられ心太は目を見張る。
和尚様は、やはりなと思いながら柔和な顔を保ちながら、
「そうか、よう言うた。おまえが言う様に、我らを頼ってどの様な方々が相談に見えるか分からぬからな、あの経験がおまえを助ける時も来よう。」と頷き
「では、御隠居様申し訳ありませんが、知念の話を聞いてやってくださいませ。」と頭を下げた。
奥座敷に御隠居様と知念を残し、和尚様は本堂へ、心太は何か手伝いは無いかと庭へ降りると、池の縁に白狐が立っていた。
「どうだい、あの小坊主大丈夫かい。」
「あぁ、まだ子供なのにおいらなんかよりしっかりしたもんさ。」と心太が言うと。
「おまえもまだ子供だろ。」と白狐はニヤリと笑って
「さっき眞島屋のお稲荷様に会ってきたよ。あっちは、もう心配要らないってさ。」
と報告をすると心太は、心底ほっとした顔をした。
「あはは、おまえは本当にお人好しだね。」と白狐が笑うので、
「なに、お前もな」と言ってからかった。
「人の心は恐ろしいな。心持ち次第で人を助ける事だって有るのに、本人さえ忘れている先にまで怨みを残す事があるなんてな。」
心太は、池をぼんやりと見ながらつぶやく。
「あんたがそうならない様に気をつけるしかないさ。他の誰かにそうしろと言ったって、自分の心持ちさえ思うようにはならないんだ、どうこうさせようなんて出来やしないさ。」
しょんぼりとした心太を励ます様に、白狐はばしりと心太の肩を叩き、
「たださ、誰かの行いを見て自分の行いを正そうと思う事はあるさね。私があんたを見てそう思ったみたいにね。」
白い顔をほんのり赤くして、
「あぁ、やだやだ余計なことを云っちまったよ。」と手をバタバタ振りながら、「じゃあ」と足早に出て行ってしまった。
その後ろ姿を、心太はぽかんと見ていたが、白狐の言っていた事が頭に染みてくると破顔して、もう居なくなってしまった白狐の影に「お前もな。」と呟いた。
飛脚屋心太 四の巻 眞島屋の石 小花 鹿Q 4 @shikaku4
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