第7話

蝦蟇退治


眞島屋で瓶を受け取った近江屋の御隠居様は、先に徳寿院に戻り本殿の前に瓶を置いた。そして赤蜻蛉が盛んに飛んでいる庭を見ながら、おとめと座敷で和尚達の帰りを待っている。

顔馴染みの寺男が、

「今日もまだ夏の様に暑いですね。」と冷やした麦湯を持って来てくれたので、おとめと二人のんびりと飲んでいる。

と言っても、のんびりとしているのは御隠居様だけで、おとめはなるべく本殿の方を見ないよう心がけて、伸ばした背筋に緊張感が溢れ出ている。

程なくすると、息を切らして青白い顔の心太が戻って来た。

「おかえり、心太ご苦労だったね。」御隠居様は、優しく労って、寺男にもう一杯麦湯をと所望してから、心太に

「さぁ、初めから何があったか端折らずに話してごらん。」と促した。

ごくごくと麦湯で喉を潤すと心太は、いつもの様にご隠居様に事の顛末を最初から淡々と話し始める。おとめは、心太が麦湯を飲んでる間に立ち上がり庭の方へ出て行ってしまった。

心太が静かに話している間、御隠居様は知っている事でも口を挟まずふんふんと最後まで聞き通した。すると心太は徐々に息苦しさから解放されて普段通りに息を吐く事ができる程になり、改めて御隠居様は有難いお方だ思うのだった。


暫くすると、寺に和尚様達が汗を滲ませて帰って来た。

座敷に居た三人に、

「とりあえず終わりましたな」と明るく声を掛けたが和尚達の顔は、暑さによってだけでは無い疲労の色が濃く出ていた。いつもの飄々としておどけた様子が欠けらも見られない。そんな和尚様をついぞ見たことのなかった心太は、一旦奥に行って普段の衣に着替えてくる和尚達を待ちながら、この件に巻き込んだ事を後悔していた。

法要の為の重々しい袈裟を脱ぎいつもの衣になった和尚達と本殿に上がると皆でじっと瓶を見つめる。そうだまだ瓶の始末をせねばならぬのだ。そう皆が思い深いため息をつく。

和尚は無闇に石を外してしまったことを後悔し、慈海は己の弱さに打ちひしがれていた。

そして頭を下げて震える声で慈海は、

「申し訳ございませんでした。」と帰る道すがら繰り言のように言った言葉をまた繰り返した。和尚様は鷹揚に頷き、

「今は、この瓶の始末が先だ。気持ちを切り替えて手伝っておくれ。」と慈海の下げた頭に優しく声を掛ける。

幼さの残る心太は、そんな二人の様子を見ていて更に後悔を深くした。そして湧き出る涙をこらえながら、震える声で

「和尚様、申し訳ございませんでした。軽々しくお頼みする事柄では無かったのですね。」と深く頭を下げ肩を震わせた。

その声にハッと心太の方へ顔を向け和尚様は、ニヤリと笑って、

「まぁ、そうでもないさ。眞島屋さんから、布施を思いがけず沢山頂いたのでな。先日破れた襖とほれそこの雨漏りも直すことが出来そうだ。」と心太を悩ますまいと軽口をたたいて天井を指さした。

ぽかんと口をあけて心太が天井を見上げると、確かに雨漏りによる大きな輪染みが出来ていた。

心太には、心を軽くする有難い言葉だった。


日が傾いてきて紅く染まる庭に目をやった和尚様の勧めで、近江屋の面々は暇を告げて事の顛末は後日聴くことになった。

ご隠居様は帰り際和尚様に、

「私が居た方が良いようならお付き合いさせてもらいますよ。」と何度も言ったのだが、それをおとめは

「何を言っているんですか、そんな事私が許しゃしませんよ。」とガンと認めなかったので、ご隠居様は後ろ髪を引かれる思いで帰ることになったのだが、そのおとめとの掛け合いを見て和尚達は、ニヤリも笑って胸を締め付けるような緊張が少し解けたなと思った。


さて、瓶の方はといえばとりあえず札で大人しくなっているように見えていたが、ご隠居様達が帰ると内側から「コトンコトン」と音がする。どうやら瓶を倒して割ろうとしているのではないかと知念が言い出した。

体を休めて、日が明けるのを待っている間は無さそうだ。

慈海は、自分の弱さに動揺していてこのままの状態では、返って隙を突かれてしまうだろう。

やはりご隠居様に居て貰えば良かったかと和尚様が唇を噛んだ時、

「では、呼び戻しましょうか」

と耳元で白狐が囁いた。

和尚様は、眉一つ動かさずに

「うむ、いつの間に入って来たのだ。」

そう問うと

「結界の力が弱まっているみたいでしたよ。」

と軽い調子で白狐は言う。

このまま調伏に時が掛かれば、他の魑魅魍魎まで呼び寄せてしまうかもしれない。

和尚様は、慈海に寺の周りの結界を強化すべく札を貼りに行かせて、知念と他の僧達と瓶の始末を今夜をやってしまおうと腹を括った。

「お前もここに居ったら調伏されてしまうかもしれんぞ。」とニンマリと笑って白狐に言うと

「あら嫌だ。それは御免こうむります。」と言ってそそくさと狐の姿に戻り走って寺の外に向う。結界が強まれば出て聞くことも儘ならぬ。

本殿の外の廊下で僧達に読経させながら、本殿の御本尊様の前に二重に結界を張り、その中に瓶を置く。そして陣の中へ知念と和尚様が入り二人で低く読経を上げる。

すると本堂の中に

「ピーチクパーチク蛙の子

蛙じゃないよ烏だよ

烏は黒くてかぁと鳴く

ピーチク鳴くのは誰だえな

少しは静かに出来ねぇか

闇夜の烏が屋根で鳴く

その朝赤児が泣き止んだ

お目々腫らした泣く女

黒いお石が耳ふさぐ

蛙も一緒おねんねさ」

と薄気味悪く、低く子供の歌声が微かに聞こえて来た。

本堂の中は急に闇に沈んだように暗い。

読経に反応したのか、ゴトゴトと苦しむかのように瓶が動き出し、遂にはヒビが入って崩れてしまった。中から現れたのはテラテラと脂汗を流している太った蝦蟇だ。何故か尻尾が生えておりその尾だけに鱗にビッシリと覆われている。

「あはは、あはは」

子供笑い声が本堂に響く。

そして蛇の尻尾を付けた蝦蟇が、シャーッと和尚様を睨んで声を上げるが、和尚様は、気をとられることなく目を瞑って読経を続けている。

暫くすると、和尚様が苦しそうに脂汗を流し始めた。

すると、外で突風でも起こったようなゴゥという音がし本堂が揺れる。

廊下で読経していた者達は、読経を止め若い者は頭を抱えて震え始める。

「無心になるのだ。」と食いしばった歯の奥から声を出して和尚様は言ったが、その声が届かないようで皆は頭を回して外から何がやって来るのかと探し始め、ある者は闇の中に幻覚でも見たのか、ひゃあと仰け反る。

それにつられて他の者も青い顔をして頭を抱えて皆で固まり震えてすすり泣く者も出始めた。

外の様子が気になるが、中から開ければ慈海が貼った札が役に立たなくなる。

外に集まり始めたらしい魑魅魍魎に道を開くわけにはいかない。


そこに唄うような透き通る声で、普段から朝のお務めで読む経が本堂に響き始めた。

知念のまだ声変わりもしていない美しい少年の高い声だ。

慌てふためいていた僧達も、知念の何時もの読経に平常心を取り戻し、目を瞑りただ唯無心に知念の声に合わせて唱え始めた。


和尚様が、動きの止まった妖物に五鈷杵を向け成仏する様に願う。

すると蝦蟇の動きが止まった。シンと静まり返る本堂内に、安堵の溜息が漏れ聞こえた時だった。

聞いたこともない息の漏れる音がすると震える空気と共に蛇と蝦蟇の合わさった妖物が突然大きくなる。

動揺した和尚が目を見張って大きくなった蝦蟇を見上ると目が合いばたりと倒れてしまう。そしてその上を滑るように妖物が這い進んできた。

廊下にいた者たちが慌てて和尚様に駆け寄ろうとするが、蝦蟇に睨まれ身動きが出来ない。

その様子が目に入らないかの様に知念は動ずることもなく、読経を続ける。次第に声が高くなり本堂の壁に反響し天蓋をシャラシャラと振るわせ、音楽が奏でられている様だ。その美しい声に他の僧達も気を取り直して経を唱え始めた。その旋律に合わせているのか、苦しいのか蝦蟇の尻尾がバタリバタリとのたうち床を叩く。しかし結界を二重に施した本殿からは出て行くことが出来ない。

様々な音階の声が合わさり本堂が浮いたような感覚に捉われた時、和尚様がハッと目を覚まして素早く手で印を切る。

そこで蝦蟇の動きが止まり苦しそうに息を吐く音が本殿に響く。

その時和尚様が倒れた際に、手から転げ落ちた五鈷杵を知念が拾い上げ、飛ぶような速さで蝦蟇の印堂の辺りを刺すように突きつけた。

するとどうしたことか、見る見ると小さくなり、蝦蟇は干からびてぺたんこなってしまった。知念はそれをこともなげに、胸元から出した懐紙に包んで護摩焚きの火の中に焚べてしまう。ゴウッと一際大きな火が上がり天井を焼いてしまうかと思われたが、其の火はすぐに元に戻った。

和尚様は、呆気に取られて口をポカリと開けて知念の顔を見ると、知念は何事もなかったのように澄んだ声で経を唱えている。

先ほどまで暗く重たい空気が漂っていた本堂が見事に澄んだ空気に包まれて、月の光が差し込んでいた。

先程まで聞こえなかった虫の音もリンリンと庭から聞こえてくる。

和尚様は盛大に鈴を鳴らして読経を終わらせてから、皆お労いながら「知念がいて助かったのう」と心の中で安堵した。

その時、今まで平然と座っていた知念がパタリと白目を剥いて倒れてしまった。


次の日熱を出してうなされている知念の頭に絞った手ぬぐいをのせながら、和尚様は知念の法力がこれ程であったとはと思い「可哀想にのう」と声に出して言って、知念を総本山に修行に出す段取りを考え始めた。

暫くしてから、修行をし直させて下さいと願い出た慈海と共に知念は総本山に向かうことになるのだが、それはまた後の話である。

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