第2話
眞島屋のお社
眞島屋で心太が昏倒してから、二日経った夕暮れ時、街は何事も無かった様に近江屋の店前も、忙しなく人が往来している。
一雨降れば少しは涼しくなるのにと、空模様を仰ぎ見ながら
「もう大丈夫なのかい。」と女将さんに心配させているのは、背中に四角の中に五と染め抜いた近江屋の法被を着た引き締まった身体のまだ初々しい面差しの心太だ。
「ヘイ、お恥ずかしい話なんですが、全く何ともねぇんです。それにおいらはどうも眞島屋さんに入ったことさえ覚えてねぇんです。」
とガリガリと頭を掻いて照れ臭そうに返事をした。
「それなら構わないけどね。あんまり無理をしなさんなよ。」
「ヘイ、ありがとうございやす。」と頭を下げて
「行ってまいりやす」と若々しい声を張ってから、駆けて行った。
その後ろ姿に目をやりながら女将さんが、
「心太も大きくなったもんだねぇ」と感心して呟くと
「本当にネェ」と応える様に声がした。
ハッと周りを見渡しても誰がいるわけでも無い。
「おお嫌だ」と夏の熱い日差しを浴びながら、ブルリと背を震わせて店の奥に
「誰か塩撒いて置いておくれ」と声を掛けた。
女将さんも、実母である近江屋のご隠居様の血を継いで霊的なものは見えないのだが、何故だか時折音は拾う事があるみたいだ。
「ふふふ」と女将さんには見えなかった白狐が笑って、クルリと輪を描いて消えていく。その様を見た者も気配も感ずる者も居なかった。
心太の元気そうな姿を見て安心した白狐は、駆けて行った後を追わずに、眞島屋に何があるのか確かめに行ってみようと思い立つ。
あらよっと馬喰町の表通りに現れた白狐は、先ずは真島屋の店構えを通りの向かい側の天水桶にもたれて眺めた。
「なんだか嫌な感じだね。」と呟く。薄く灰色の霞がかかっている様に見えるのだ。表から入る気を失った白狐は、娘姿ですたすたと路地に入りぐるりと裏にまわる。裏玄関なのか板塀と変わらぬ色をした小さな引き戸があったが、ピタリと閉まっていた。
こちらは、特に変わった感じがしない。するりと板塀を擦り抜けると、目の前に小さな庵のような建物が現れた。
店前の喧騒が届かない眞島屋の隠居所だ。坪庭が在って店とはそこで区切られいる。その坪庭の片隅に小さなお稲荷様が祀られている。毎日水などが小まめに替えられ、辺りも掃き清められ雑草等も無く手の行き届いている清浄な空気がお社を包んでいる。
今は百日紅の白い花が盛んに咲いていた。
そのお社を目にした白狐が、
「これは良いところに」とにんまりと笑って、スイと小さくなるとお社の中を覗き込んだ。
「誰?」
「お初にお目にかかります。私は、先日此処の奥座敷でご厄介になった心太と縁がございます、白狐に御座います。」と深々とお辞儀をする。
「あら、自由に歩き回ったり出来るんですね⁈」と赤袴を履いた小狐が社の中から不思議そうな顔を半分くらい出して聞いた。
「ごめんくださいまし。私はお稲荷様では無くて、妖怪になっちまった狐ですから。」と力無く笑ってから、
「お尋ねしてよろしいでしょうか。」と白狐は膝を揃えて深々とこうべを垂れた。
白狐は、この間の顛末を近江屋で心太がご隠居様に話しているのを聞き耳を立てて知った。
心太が倒れた次の日、様子を見に御隠居様が心太の寝所まで顔を出すと、心太は慌てて寝巻きをやたらと掻き合わせて、夜具の上に正座をして畏まり
「御隠居様、こんなむさ苦しいおいら達の寝所なぞに来られちゃ駄目ですよ。」と汗を噴き出してへどもどしたが、
「何言ってるんだい、此処は全部私の家だよ。何処に行ったって構いやしないさ。」とちょっと叱る様な顔つきで言うので、
「はぁさいですね。」小さくなる。
「それより、もうなんとも無いのかい。」と心配顔で、御隠居様が尋ねるので、
「へぇ、もうなんとも無いんですが、女将さんが今日一日は寝てなきゃ駄目だって、そいでサボる様で申し訳ないんですが、寝ている次第で。」と頭をゴシゴシと掻いて応える。
ホッと息を吐いて、
「良かったね。」とご隠居様が言ったので、ふと気になっていたことを思い出し
「何故御隠居様は、眞島屋さんに駆けつけて来て下すったんですかい。」
と心太が問うと、
「店の方で慌たゞしい声がするのでおとめにね、何があったのか聞かせに行ったのさ。そうしたらおまえが昏倒したっていう話だったものだからね。だから行ったんだよ。」
「はぁ、で何故?」
「分からない子だね。そういう時は、誰でも無く私が迎えに行かなきゃ始まらない…いや、私に必ず行くようにと徳寿院の和尚様から言付かっていたからね。でもこんな事は初めてだから半信半疑だったけれど、急いで行って本当に良かったよ。理由?知らないよ和尚様に聞いておくれ。」
そんな会話だった。
白狐はこ小さなお稲荷様に事の顛末をご存知でしょうかと尋ねてから、どうして昏倒なんかしたんでしょうと率直に聞いた。
ふぅっと息を吐いて軽く首を傾げてから、小さなお稲荷様は、
「此処には、悪いものが居ますからね。心太とやらは鬼見なのですね。」と言って母屋を覗くようにしてから、
「貴女も入っては駄目ですよ。」と肩をすくめて小声で言った。
それから額を寄せて教えてくれたのは、今の眞島屋は元々二軒だったところを、買い取って体裁よく改築して店にした。そうなる前の店の方の家に呪詛をしていた者がいて、母屋の寝所がある辺りの土の下に呪いを掛けた石が埋まっているという。そうとも知らずこの家を直したので、この家の母屋は悪い気が溜まりやすいのだ。
此処の主人は人柄も良く商売を広げて此処へ越して来たと言うのに、徐々に気持ちが邪になって行き、商売敵の足を引っ張り得意先を横取りし始めた。
其れをいなした女将さんは主人の逆鱗に触れ、店の事には口を出せなくなり寝所も別の部屋へ移された。
「まぁこれは幸いかもしれませんが」と小さなお稲荷様は肩をすくめて言う。
商売は益々繁盛していったが、店の者が具合が悪くなったり、主人と上手くいかなくなったりして長く居つくものが減ってしまった。通いの番頭さんや手代さん以外は、口入れ屋から取っ替えかひっかえ雇うようになってしまったのだ。
飛脚屋は、信用が大事だと言うのにと年老いた両親は、坪庭を挟んだ離れの隠居所でハラハラと見守るしかなったのだという。
そんな話を聞いた白狐は、
「未来は無いねぇ。」と呟く。
お稲荷様をご隠居達がどんなに大事にしても、呪詛の石と結託してしまった主人の心は中々元には戻りそうも無いのだ。
「私の力不足で…」と消え入るような声で俯くお稲荷様を励ますように、
「ちょいと私に預けてみませんか?」と白狐が言う。
ハッと顔を上げたお稲荷様は、何故?と声に出さずに言うと、白狐は、ニヤリと笑って
「袖すり合うも他生の縁って事ですかね。」
と言って小さなお稲荷様を安心させる様にニマリと笑ってから、
「それでは、またお伺い致します。」と言ってポンっと弧を描いてから消えた。
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