第5話 餌のいらない仔猫。
俺は手元にある書面を改めてよく見た。それでも信じられない言葉が書いてある。流石に俺も、この展開は読めなかった。目元をこすり、再度確認するが、理解に苦しむ。
「た、タニアちゃん、これって、タニアちゃんも納得してるの?」
「えぇ。私も納得の上でこちらへ伺った。そう取っていただいて、構いませんわ」
「いやいやいや、タニアちゃん。確か、君の弟さん。まだ小さかったような気がするんだけれど」
確か、俺が最後に閣下の屋敷にお邪魔したとき、やっと歩き始めたって認識だったんだが。
「えぇ。今年で十一になりますわ」
「そうなんだ。大きく、なったね――ってそこなんだって」
文に記された内容は『タニアマリール・シーサイドと、レイウッド・シーヒルズの婚姻を認める』とだけある。最初は、何かの間違いかと思った。けれどその文面の下には、子爵閣下のサインと印章。連名で、俺たちの家の寄親である、ブルーマウント伯爵閣下のサインと印章が押されているんだ。
このことで、これが嘘偽りのない書状だということが理解できる。いや、理解しなければならない。書状にある『婚姻を認める』という意味は、俺に、『タニア嬢と婚姻を結べ』という命令書だ。上位の貴族二人に勧められたからには、断ることはできないのも事実。夜会のときのタニアちゃんの言葉。おそらくはあのとき既に、彼女は全てわかっていたのだろう。
タニアちゃんには確か、兄も姉もいない。弟が一人いるだけ。シーヒルズ子爵閣下と婦人がまだ若いため、しばらくは現役でいられるはずだが、彼女の弟の成人を待って、継がせるということなのだろうか?
いや、本当に読めなかったよ。だって俺、タニア、いや、タニアちゃんのことは、年の離れた妹のように思っていたんだ。あの小さなタニアちゃんが、これほど美しくなっていたのは俺も驚いた。だからって、俺の認識はそうそう変わらない。
確かタニアちゃんは、俺より七歳下だったはずだ。俺が今年二十九だから、二十二歳ということになる。貴族社会の女性には、適齢期という概念がある。早い人は十六歳あたりで婚約することがあると聞く。学園を卒業する十八歳あたりから、夜会に出席し始めて、二十歳までにはお相手を決めると言われていた。
状況から考えるに、タニアちゃんは適齢期を過ぎている。俺はてっきり、貴族の誰かと婚約を済ませているものかと思っていたんだ。……あでも、よくよく考えてみたら、矛盾する行動があった。彼女は夜会に出席したんだ。あのとき確か、誰にもエスコートされていなかったはず。誤解を与えるような行動は、出来るはずもないのだから。
「……困惑なさっているのでしょうか?」
「いや、そのだね。うん、わかりました。このお話、お受けいたしますとお伝えください」
「ありがとうございます。準備を終えて、来月、お会いできることを楽しみにしていますわ」
「ら、来月? これまた早いな」
来月といって、あと七日しかない。急であることは同じだ。
「では、私は失礼いたしますね。レイ先生」
「あ、うん。見送るよ」
今度は俺が右手を差し伸べる。タニアちゃんは目を細めて手を差し出してくる。まるで子供のころ、巫山戯てしていたように、膝に力を入れて踵を軸にして、俺に引っ張られて立ち上がる。その表情は、まるであのころのようだった。
御者席に座るジョルノールは俺を見て、物凄く申し訳なさそうな表情をしている。あの人は、タニアちゃん想いで正直な人だったからな。屋敷の敷地内にある正門から、タニアちゃんの乗った馬車が出ていくのを見送る。俺は後ろに控えたアルフへ声を低くして語りかける。
「俺の書斎に来てくれるか?」
「かしこまりました」
俺の領にも、他の領からの調査の者が入っているから、ここで変なことを口走るのはまずい。俺は書斎に着くなり、椅子に座って机に突っ伏す。同時に、大きなため息をついた。
「――はぁああああっ。……なぁ、アルフ」
「何でございましょう?」
アルフは熱めの茶を淹れてくれた。匂いでわかる。俺が疲れているときに、鋭気を養えるよう、強壮効果のある薬湯の入ったものだ。
「ジョルノールさんの、あの申し訳なさそうな顔。……この話、裏があると思わないか?」
「それでも、わたくしたちは受けざるを得ないかと」
「……そうなんだよなぁ。あのタニアちゃんは美しく育ったと思うよ」
「えぇ。そうでございますね」
「アルフお前、わかってるだろう?」
「お館様にとって、タニア様は年の離れた妹のように思っていた。それ故に、異性として意識し辛いことでしょうか? それとも、美しすぎるのも困りものだとか。もう少し落ち着きのある女性がお好みだとか。胸部のふくよか過ぎる女性は、少々苦手だとか――そういうことでしょうかね? そうそう、あとは彼女の本質でしたか?」
「……全部わかっていらっしゃる」
「えぇ。長年、お館様の執事を任されておりますからねぇ……」
「頭痛いだろう?」
「少々」
何らかのトラブルに、巻き込まれるのが確定しているからだ。
「俺もだよ。どうしようか」
「良い提案がございます」
「何だ?」
「仕事をして、忘れましょう」
「何気に酷いな」
「汗かいて、お酒飲んで、忘れましょう。わたくしもお付き合いいたします」
「お前が飲みたいだけじゃないか」
「そうとも言いますね」
アルフは俺の背中を叩いて慰めてくれる。別にまだ、被害を受けたわけじゃ、ないんだけどね。学園をおそらく主席で卒業したはずの、聡明なタニアちゃん。家格もうちよりは上のシーサイド子爵家。あれだけの美貌を持つ彼女が、適齢期を過ぎても尚、嫁入りどころか婚約もしていない事実に、懸念を抱いても仕方のないこと。
「わたくしも少し調べてみます。お館様は、どっしりと構えてください。けっして気取られぬように」
「あぁ。わかってる。頼んだ」
「では、行ってまいります」
アルフは音もなく走り去る。期限は一週間しかないからな。俺では流石に無理だが、彼ならやれることはある。彼は執事といいながら、諜報活動にも長けている。時化の状況や他の領の情勢。俺の『魚臭い』の発信源など。俺には勿体ない執事なんだよ。毎年、俺が王都から帰ったあと、数日いなくなることがあった。おそらくは、俺の裏側を調べてくれていたんだろうね。
そんなこんなで、アルフが出てから三日が経った――
彼は自分がいなくても大丈夫なように、家人に俺への対応を済ませていたらしい。おかげで俺が作業から帰るなり、何不自由なく寝るまで過ごせる。ただ一つ足りないのは、たまにある小言くらいだろうか? いや別に、寂しいとか思ったりしないからな?
王都にいるときだって、一人みたいなものだったし。そりゃ、姉さまが俺に少し構い過ぎるくらいはあったよ。甥っ子の二人も可愛いし――そうなんだよ。姉さまに子供が生まれたんだ。ヴェンドナー伯爵家待望の男の子。それも双子で、これがまたすっごく可愛らしいんだ。
来年も楽しみにしてたんだけどな。まぁ、それはさておき。アルフが戻ってこない。タニアちゃんが戻ってくる予定の日まで、あと四日。俺は俺で、領内の仕事をしないわけにはいかない。アルフとの約束だから、俺はいつものように仕事に出ようとした。
いくら領主だからといって、俺はいつも正面玄関から出入りをするわけじゃない。俺もアルフも、ここの家人たちもそうだ。館の裏口にある、この扉から出入りをしている。俺が扉を開けようと手を伸ばしたそのとき、外から扉が開いた。ここを外から開けられるのは、この鍵を持っている者だけ――ということは。
「お、お館様。遅くなって、申し訳ござ、いません」
アルフが戻って来ていた。彼の身体からは、お湯を沸かしているときのように、湯気が上がっているようにも見える。いくらこのシーヒルズ領が年中温暖な場所にあるとはいえ、今の時期は冷え込むことだってある。今日はそんな日。北からの風も強く、今年一番の冷え込みだ。
「アルフ、よく戻ってくれた」
「いえ。任務ですから。それよりもお館様。ご報告がございますので」
「あぁ、わかった。食堂でいいな?」
「はい」
「誰か、温かいお茶をアルフに」
俺がそう言うと、館の中が若干慌ただしく動いているように感じた。
ここに戻ってくる際も、休み無しで身体強化の魔術を使っていたのだろう。普段は綺麗にまとめてあるアルフの髪も、少々乱れている。それでも、俺への報告が先だと思ったのだろう。いつもは身だしなみに口うるさい彼も、今は気にしないように振る舞っている。彼が持つ、あらゆる伝を頼りに、情報を仕入れてきた。結果、アルフの話はこうだった。
シーサイド子爵領のふもとの町でも、タニアちゃんが嫁ぐという噂は聞くことはなかった。ただ予想通り、どこかの貴族の者と、婚約をされているはずだという予想のような噂話は、少なからず聞くことができた。ただそれは、子爵家を継ぐ弟さんの年齢が、まだ幼いということも関係するものだっただろう。
シーサイド子爵家執事のジョルノールが持ってきた、あの書面は本物で間違いない。ブルーマウント伯爵家とシーサイド子爵家が、裏で何かを企んでいることも間違いないだろう。俺もアルフも、何が起きても対応できるよう、覚悟はしておかなければならない。。
「お館様は貴族でございます」
「そうだな」
「小さなころから、このような例もあると教えられたはずです」
「あぁ、昔はそういうこともあったと、父さまからも聞いたことがある。それでも、うちはないだろうと聞いてたんだけどなぁ」
「状況から見て、わたくしもそう思っておりました。ですが、お館様は受け入れなければなりません」
「それはわかってる。でもなぁ」
「はい」
「タニアちゃんはそのほら、……あれだぞ?」
「えぇ。お館様から伺っておりましたが、見た目からはわからないものですね……」
確かにタニアちゃんは、美しく育った。アルフの調べでは、
タニアちゃんは、良くも悪くも貴族だ。彼女の弟さんがいなければ、きっと彼女が子爵の女性領主になっていたはずだ。そう、俺が言い切れるほどに彼女は、自己顕示欲が強い。独占欲も強い。特定の人への興味が募り、その支配欲が高くなるとも言えるだろう。
この間の夜会も、つい先日もそうだったが、タニアちゃんは、初めて会ったときからすでに、『餌のいらない仔猫を飼っている』。物凄く頭の良いこともあり、化けの皮が剥がれるようなことはない。ただ、彼女の感情が高ぶったとき、その枷が解き放たれる。俺は何度か見ているんだ。あのときの『馬になりなさい』。あれが良い例なんだよ。真面目におっかないわ。
「まぁ、普段は思いやりがあって、良い子なんだよ」
「えぇ。先日お目にかかった際、とてもお優しい感じが見受けられました。お館様から伺っていた、『あのような』面があるとは、到底思えないほどでござました」
アルフは執事だからこそ、人を見る目に自信を持っている。だが、彼ですら、『彼女に立ち塞がる、可愛らしい子猫』の後ろにある押し込めた、解き放たれることのないその本質までは、予想することは難しいのだろう。
「俺は、婚礼について良く知らない。アルフはどうだ?」
「そうですね。父から多少は聞いております。それでも、完全ではありません故」
「そうだな。俺も、父さまと母さまに聞きに行こうと思う」
「えぇ。お供いたします」
とにかく今は情報が欲しい。俺とアルフは、別邸にいる父さまと母さま。アルフの父マークに話を聞きに行くことにする。
裏口を抜けると、俺の姿に感づいたのだろう。大鷹のノワールが上空から音もなく降りて来た。
『くぅ?』
俺の顔にすり寄るノワール。俺は首元を撫でてやった。
「ごめんなノワール。また後でな」
『くぅ……』
残念そうに聞こえるノワールの声。俺は普段の仕事で領内を巡回する際は、彼に乗って移動をしていたからだ。俺の気持ちを感じ取ってくれたのだろう。少し離れると、羽ばたいて浮き上がる。こちらを一度見ると、山にある自分の住み処へ戻っていった。
アルフが馬車の御者席に座り、戻ってくる。別邸までは、馬車で移動することにしているからだ。別にノワールに乗ってもいいのだが、アルフは彼に乗りたがらない。何でも、高いところが苦手なんだそうだ。人は見かけによらないものだよな。
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