第4話 死化粧
既に死後硬直が始まっている女房に、白装束を着せる。
それは思いの外、汗が滲むほどの重労働だった。
男は息を切らせながら女房の帯を締め、左前に合わせた前襟を少しきつめに閉じた。
「……ふぅ、」
息を一つ吐き、自身の袖口から手拭いを取り出して、滴る汗を拭う。
荒れた息を整えつつ男は、湯灌に使った水桶を抱えて立ち上がった。
「……」
水を捨てるべく廊下に出て、玄関先に視線を投げると、佐吉が未だに深く額をたたきに押し付け土下座をしているのが見えた。
その姿は、まるで潰れた蛙のようだった。
目を細め、男は水桶を抱えたまま、玄関へと歩み寄った。
「おい、」
「…はい、」
「お前はいつまでそうしているつもりだ。」
「…新村様から手伝いのお許しをいただけるまで」
顔を上げた佐吉の頬も目も、真っ赤に染まっていた。頭を下げすぎて顔に血が上ったのだろう。だが、赤く染まろうとも、その精悍な顔付きが濁ることも曇ることもなく、しかも赤く充血した黒目がちの瞳は、渦巻く怒りを隠すこともせず鋭く光っていた。
「……ふふ、」
途端に濃い敗北感が胸に去来して、男は伏し目がちに小さく笑った。
だが、そんな男の心情を汲めない佐吉は怪訝そうに眉をひそめる。
「新村様、何が、」
「佐吉、上がれ。」
「え、」
「あれに死化粧を施してくれぬか。」
「…え、い、いいんですか、」
懇願していたわりには受領されると戸惑う佐吉に、男はこっそりと嘲笑を漏らす。
「構わん。蝋燭の灯りしかないが、あれを美しくしてやってくれ。」
「は、はい!ありがとうございます!」
再び頭を下げる佐吉は、声を震わせ、何度かずずっと鼻をすすった。
男はそれをなんの感慨もなく見下ろした。
※ ※ ※
蝋燭の揺れる灯りの下で、佐吉の筆が女房の顔を撫でる度に、女房は少しずつその顔に色を甦らせる。
男はそれを少し離れたところでただぼんやり眺めていた。
「……」
やがて佐吉が細い筆で紅を拾う。
蝋燭の炎は、その色を男に知らせない。
だがきっと、男が最初に女房に差したあの赤い紅ではないだろうと、男は思った。
「おい。」
「…はい、」
「それは、どんな色なんだ。」
「この紅ですか?これは少し明るい朱色です。寒く澄んだ朝の朝焼けに近い色で、御内儀様のお好きな色です。」
「……。そうか。」
頷きながら、男は落とした視線を上げることができなかった。
男は、女房の好きな色など知らなかった。まして冬の朝焼けなど、女房と共に見た記憶さえもなかった。
「……」
不意に男はゆっくりと立ち上がり、部屋を出ようとした。その様子に気がついたのか、佐吉が筆を止める。
男は目の端で佐吉のその様を見た。
「佐吉、しばしこの場を任せてもよいか?」
「え、あ、はい。もちろん。」
佐吉は女房から一瞬視線を外して男を見遣ったが、すぐまた女房と向き合い、了承した。
この場に佐吉を残すことが佐吉の望みであることは、男は重々承知していた。
だが、この光景を術なくただ見続けることには、男は少し疲れていた。
「では、頼んだぞ。」
そして男は刀を握ったまま部屋を出て、足早に廊下を進み、静かに玄関の戸を開けた。
外はすっかり日が落ちて、だが屋内よりも明るい満月が男のもとにも降り注ぐ。
ぼんやり暗い空を見上げ、男は胸の中の重く濁った息を全て吐き出そうと試みた。
だが冷たくもない風にただなぶられるだけで、一向にすっきりとはしない。
「……」
今も、男の頭に浮かぶ女房が、その笑顔をどこに向けていたのかわからずに、男は女房に想いを馳せることさえできなかった。
「ははは、」
乾いた笑いが込み上げてくる。
同時に涙が頬を伝ったが、男は未だそれに気がつけなかった。
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