第3話 湯灌
夕刻、大工に依頼していた棺が届いた。
棺は、小柄な女房に合わせて小さめに作らせていたが、室内に一人で持ち込むには少々重い。
「さすがにお武家様といえど、お一人で運び込むのは無理と言うものですよ。」
大工の棟梁は、歯のない笑みを浮かべ、棺の片側を無造作に持ち上げた。
その雑な扱いに、棺がガタンと斜めに傾く。男が慌ててそのもう片側を抱えあげた時、
「それ、私が持ちましょう。」
大工の棟梁の肩を叩く者があった。
棺に視線を落としていた男は、その声に眉根を寄せつつ顔を上げる。案の定、そこにいたのは佐吉だった。
「おお、そいつはありがたい。今日は葬式が多くてね、他所にも棺を運ばなくちゃいけなかったから助かるよ。」
棟梁は何の躊躇いもなく、棺の片側を佐吉に譲ると、小走りに次の現場へと向かっていった。その快活な棟梁の後ろ姿を見送りながら、男は小さく舌を打つ。
「余計な真似を。…まだ何か用か、」
「ええまあ。でもとりあえずこれを運んでしまいましょう。往来もありますから。」
男は渋々後ろ手に棺を持ち直し、佐吉を伴って家へと向かった。
玄関を開け、室内に上がり、女房の横たわる一番奥の部屋に着いてもなお、佐吉も、男も、言葉を一言も発することはなかった。
棺は、北側が頭になるよう誘導する。
そして、男と佐吉は、白い顔で眠る女房の枕元に棺をそっと置いた。
「……」
棺の中を白い布で覆いながらも、男は、女房を見下ろすように佇む佐吉の姿を何度も盗み見ていた。
「……」
すると、男の視線など感じる素振りも見せない佐吉が、何かしらを呟き、そっと手を合わせた。
男は慌てて視線を棺に落とし、眉根を寄せて歯噛みする。
佐吉の唇は、確かに「せつ様」と動いた。
「……っ」
せつは、女房の名だった。
「新村様、」
不意に名を呼ばれ、不機嫌な面持ちのまま男は顔を上げる。
佐吉はじっと男の顔を見たまま、感情を噛み殺したような声で問った。
「御内儀様のお口許が赤いようですが、これは、」
「…化粧をしてやろうと私が塗った、紅だ。」
わかっているであろうことを問われ、眉間のしわがいっそう深くなる。だが意に介さない佐吉は語を紡ぐ。
「しかしこれではあまりにお可哀想だ。もしよろしければ、湯灌した後、私に死化粧をお任せいただけませんでしょうか。」
少々震えてはいたものの、よく通る凛とした佐吉の声だった。まるで強い意思と決意が、目にも声にも頑なに込められているようでもあった。
そこが、男は気に入らなかった。
「…駄目だ。お前にそのようなことを頼む道理はない。」
「しかし!」
「棺の運搬ご苦労だった。感謝する。さあ、お引き取り願おうか。」
男は半ば強引に佐吉の背中を押すと、部屋の外へと追いやった。
しかし佐吉はすぐさま踵を返し、深く頭を下げた。
「お願いします!何かしらの手伝いを恵んでくださいませんか!」
「駄目だ。」
「お願いします!お願いします!」
「駄目だ。」
「お願いします!」
「駄目だ!帰れ!」
男は、怒号と共に佐吉の奥襟を掴むと、引きずるように玄関のたたきへと佐吉を突飛ばした。地面に叩き付けられた佐吉は、しかしすぐさまたたきへと手を添えて、額を擦り付けるほど深く土下座した。
「お願いします!せめて通夜の間、蝋燭の番のお供をさせてください!」
佐吉の声は感情の昂りを抑えきれずに震え掠れていた。
男はそんな佐吉を見下ろすだけで、何も言わず、玄関に背を向けて勝手口より外へ出た。
「……」
湯灌のための水を井戸から汲み上げながら、えも言われぬ感情に心をざわつかせた。
「……」
勝手口より戻り、水桶を片手に女房の傍らにゆっくりと座る。
手拭いを固く絞り、まず女房の唇の赤い紅を拭いとった。
すると、何度も洗って擦りきれそうな手拭いの、一部が酷く赤く醜く汚れた。
それをじっと見つめたまま、男は何と名付けてよいかわからないもどかしい感情に、若干の寒気を覚え、少し笑った。
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