第40話 違和感

 尚哉がどれ程拒否の言葉を重ねても、秋光と美咲には伝わらず素通りして行くばかりで状況は悪化の一途を辿っていた。『なぜ、俺だったんだ』と自分が選ばれてしまったことに、今更ながら腹立たしさが募った。


「問題はこれからどうするかだが、対応を間違えれば一生悔やんでも悔やみ切れないことになるぞ」


佐伯の言った言葉は、尚哉自身が決して感情に流されてしまわないように、事ある毎に自分へ言い聞かせ心に刻み付けていたものでもあった。


 万が一、対応を間違えて秋光と美咲の目論見に嵌まり抜け出せなくなってしまったら、尚哉は梨奈を失い、誰の子かも分からない子どもから父と呼ばれ、憎んでも余りある美咲には妻として振舞われる。


そう考えただけでも、身体が震えるほどの怒りが沸いた。そこに秋光が加わったら……。尚哉は、自分でも自分がどうなってしまうのか分からなかった。


「佐伯課長は、どうしてそこまで親身になってくれるのですか」


不意に、佐伯は初めから尚哉の話を聞こうとしていたことを思い出し、なぜなのかとその理由が知りたくなった。佐伯は一度尚哉を見た後、料理の入っている皿に箸を付けながら話し始めた。


「最初に樫山専務から話を聞かされた時、違和感を覚えた。新井には結婚を決めて一緒に住んでいる女性がいたはずなのに、どこで、どうして、どうなったら樫山専務の娘と結婚の約束ができるんだ、とな」


以前、佐伯に誘われて居酒屋で一緒ん飲んだ時、既に結婚して家庭を持っている佐伯から、結婚については考えているのかと問われたことがあった。その時には、ベルフラワーで梨奈と一緒に暮らしていた尚哉は、梨奈のことを佐伯へ話し、一緒に暮らしていることを打ち明けていた。


「だがな、人には欲というものがあるだろう。新井に限ってまさかとは思ったが、出世の話に釣られておかしなことになっているのではないかと思ってな。一度、腹を割って話したいと思ったんだ」


尚哉は、佐伯の話を聞きながら心の中に溜まっていた澱が溶け出していくのを感じていた。


「私には無理ですよ。自分の実力に見合わない地位を与えられても十分な働きができるはずもないですし、精神的に負担が大きすぎて潰れてしまうのが落ちです」


それは、尚哉の本心だった。プロジェクトチームの一員として選ばれた当初、アドバイザーからの厳しい指導もあり、尚哉は自分に与えられた役割について度々考えさせられた。その時の経験から、尚哉は自分の身の丈に合わない地位を望もうとは思わなくなっていた。


「新井ならそうだろうな。何しろ、人一倍責任感の強い奴だからな。それで、今までにも面倒な問題に直面しても真正面から受け止めて、必要とあらば何度でも相手方の所まで足を運んで、下請けの連中にも頭を下げて回っていただろう。その甲斐あって、新井が手掛けたものは、後からクレームがついたことが一度もないのだから大したものだ」


佐伯から、尚哉がこれまで積み上げてきたものに対して正当に評価してもらい、認めてもらえたことは尚哉にとって何より嬉しいものだった。だが、同時にそんな佐伯に心配を掛けさせてしまったことを忍びなく思った。


「ご心配をお掛けして、すみませんでした」

「自分のことをちゃんと分かっているなら、それでいい」


包み込むような温もりのある眼差しで言われた言葉に、尚哉は胸が詰まりそれ以上の言葉を続けられなかった。

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