第38話 飛び火

 日が経つにつれ、自分の思い通りにならない尚哉に美咲は次第に余裕を失くし、苛立ちを隠そうともしなくなった十月の末、尚哉は直属の上司である課長の佐伯から仕事が終わったら付き合うようにと声を掛けられた。


尚哉は口では『分かりました』と返事をしたものの嫌な予感がし、佐伯には申し訳なく思いながらも気付かれないように、そっとスーツの上着のポケットへICレコーダーを忍ばせて佐伯の後を付いて行った。


 佐伯に連れられて行ったところは、高級居酒屋といった風情のある白樺という名の和風の店だった。


店の中にはミニ庭園風のものが作られ、通路の真ん中には石畳が敷かれてその両側を黒い小石が隙間なく埋めていた。客席は長屋形式になっていて襖で仕切られた個室だけで、通路から靴を脱いで上がり框に上がり障子戸を通って中へ入るようになっていた。


畳敷きの部屋の中には座卓が置かれていたが、その下が掘り下げられて足を楽にして座れるようになっていた。


 佐伯のお勧めの焼酎と数種類の料理を注文して、店員がそれらを座卓の上へ並べ障子戸を閉め切って出て行き二人きりになると、焼酎と料理を口にしながら佐伯が話し始めた。


「昨日の夜、樫山専務に料亭の水鏡に呼び出されてな。新井を説得するように言われたんだ」

「説得ですか」


佐伯がいつもとは違う重い口調で話し、その口から秋光の名前が出たことで嫌な予感が的中したことを悟りながら、尚哉は佐伯の話に疑問を覚えて聞き返した。佐伯は軽く頷き焼酎の入ったジョッキへ口を付けた後、尚哉の疑問に応じた。


「樫山専務の言った言葉をそのまま伝えるとだな、新井が樫山専務の娘の美咲さんと恋仲になり、結婚の約束をして子どもまで作っておきながら、いざとなったら及び腰で責任を取ろうともせず逃げ回っている。美咲さんが連日、新井の説得を試みているが一向に色好い返事がもらえず、娘共々、樫山専務もその妻も困り果てている。本来ならば、子供が生まれる前に結婚式を執り行いたいところだが、この際、結婚式は後回しでも構わないから入籍だけでも一日も早くするように、新井に卑怯な態度を改めて誠実な対応をするようにと説得してほしいということだった」


ここのところ、秋光が口を噤み美咲の話を振ってこなかったことで、尚哉は美咲との結婚を諦めてもらえたのではないかと仄かな期待を抱いていた。


それが、あれだけ美咲との結婚を拒否し続け、美咲の子どもとの関わりもきっぱりと否定したにも拘わらず、何も聞いていないような話をしたばかりか美咲の話を脚色し、いつの間にか尚哉が美咲と結婚の約束をしていたことになっていると知り怒りを禁じ得なかった。


 しかし、秋光に対しどれ程の怒りを感じたとしても目の前の佐伯にその怒りをぶつけるわけにはいかず、尚哉は気持ちを鎮めるために自分のジョッキへ手を伸ばして焼酎を口に含んだ。その時、新たな疑問が沸いた。


 尚哉の常識では、結婚についての相談は当事者の親同士が話し合うものと思っていた。だが、佐伯は尚哉の直属の上司ではあっても血の繋がりは一切なかった。


「樫山専務は、なぜ佐伯課長に話を持って行ったのでしょうか。こう言っては何ですが、課長は私の肉親というわけではありませんし……」

「それは、俺も最初は不思議に思った。新井の言う通り、俺は親でも兄弟でもないからな。でも、樫山専務と話しているうちに気が付いた。あれは、体裁を重んじているんだろうな」

「体裁、ですか」


思い掛けない言葉を聞き、尚哉は思わず聞き返していた。


「樫山専務は、元々プライドの高い人でもあるからな。娘の結婚にしても自分から頭を下げてもらって欲しいとは言いたくないんだろう。だから、新井の方から頭を下げに来るように説得しろということだったんだ」

「そうなんですか……」


尚哉は佐伯の話しに頷きながら、水鏡での話し合いの場で秋光が発した第一声は『詫びを入れろ』だったなと思い出していた。

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