第37話 求める者

「美咲。必ず、新井に結婚を承諾させるんだ。分かったな」

「分かっています」


美咲の言葉を無視して部屋を出て行ってしまった尚哉を呆然と見送っていた美咲だったが、父の非情とも言える命令に我に返り返事を返した。


尚哉が美咲を拒むことなど考えたこともなく、美咲にとっては有り得ない話だった。


 一方、秋光は迷いも見せずに席を立ってしまった尚哉の態度に、美咲の子どもの父親が尚哉以外の誰かという可能性を捨て去った。


 これまで野望を遂げるために、誰にも知られずに着々と準備を進めてきた秋光がプロジェクトチームを創設した真の目的は、自分のブレーンを育て上げることにあった。


社内のエリート集団でもあるプロジェクトチームのメンバーが秋光を崇拝し、支えてくれるようになれば秋光の足元は盤石なものとなり、社長の座に就いたその先もその座は座り心地のよいものとなるはずだった。


 だが、秋光には決定的なものが欠けていた。社長の秋光を表の顔とするならば、その裏の顔を務める人物がなかなか見つからなかった。


 秋光の考える懐刀とも言えるその人物の理想の姿は、頭が切れ、誰ものがその存在を無視することができず、常に動向を気に掛け、そして決して秋光を裏切らない者だった。


尚哉は梨奈と暮らし始めたことで心の拠り所を持つことができ、今ではプロジェクトチームの一員として選ばれた当初の追い立てられるような焦りはすっかり消え失せていた。また、尚哉にとって守るべき存在である梨奈を得たことで気持ちに余裕ができ、包容力を身に着けるまでになっていた。


今の尚哉は本来の容姿に加え、その身から滲み出る包容力が魅力に磨きを掛け、男女を問わず多くの者がその視界の片隅に尚哉の姿を収めるようになっていた。


その尚哉の姿は、秋光の目には自身が求める者の理想の姿が具現化したものとして映っていた。


 翌日から秋光は険しい目付きで尚哉を見るようになったが、美咲の話題を持ち出すことはなくなり沈黙を守っていた。


反対に、美咲からは毎日電話が入るようになり、これ以上美咲と何かを話す気になれなかった尚哉は、最初の一日は完全に美咲から電話を無視して過ごしていた。だが、次の日も掛かってきた電話に、これ以上無視し続けて痺れを切らした美咲に会社まで会いに来られ、子どもの父親は尚哉なのだと声高に話されては、美咲との結婚か会社を退職するか選ばざるを得ない羽目に陥りかねないと考え直して電話を受けることにした。


 美咲の電話の内容は父親である秋光の持つ力に始まり、元銀行の頭取であった祖父の影響力や自分が生まれ育った家の有する力と財力などについてだった。それらを得々と語り、美咲と結婚することでそれらの力を尚哉が借りることも可能になると繰り返し言われた。


 しかし、数日続いた美咲からの電話では、結婚を望む相手である尚哉に対して『好き』という言葉も、『愛している』という言葉も一度も聞かされず、お互いの利益のために取引を成立させる契約として結婚しようと言っているようにしか尚哉には受け取れなかった。


そんな愛情の欠片もない結婚生活と今の梨奈との幸せな毎日とを引き換えにするなどできるはずもなく、尚哉は美咲の説得を拒み続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る