第36話 父親の責任

 お互いに瞬きをすることも忘れ、一瞬たりとも視線を逸らさず剣呑な雰囲気が漂い始めると、美咲が焦った様子で尚哉へ話し掛けてきた。


「尚哉さん。あなたは大事なことを見落としているわ。私と結婚することで、あなたはお父様という後ろ楯を得ることができるのよ。そうなれば、将来の重役の椅子だって夢ではなくなるわ。それを棒に振るような、馬鹿な真似はしないでしょ」


話しているうちに徐々に落ち着いた美咲は、最後には貞淑な仮面を脱ぎ捨ていつもの美咲に戻っていた。


 尚哉は美咲の話を聞いて、美咲の中では出世という餌に食い付いた尚哉が美咲との結婚を了承し、美咲の子どもを父親として受け入れるという筋書きが出来上がっていることを理解した。


しかし、会社を辞めることも視野に入るようになっていた尚哉にとって、出世の話を持ち出されても心に響くものはなく、逆に押し付けられる子どもに対する責任の重さが気になった。


「美咲さん。私には、子どもに対する責任と出世を天秤に掛けるようなことはできません」

「それならば、君はあくまでも美咲との結婚を拒み、子どもに対する父親としての責任も負うつもりはないと言うのかね」


美咲に応じた尚哉へ、秋光が問い詰める口調で言葉を投げ掛けた。その表情は険しく、尚哉は思わず気圧されそうになり、そこで初めて握り締めていた手のひらが緊張で汗ばんでいることに気が付いた。


だが、ここで丸め込まれてしまっては取り返しのつかないことになると自分を戒め、握り締めた両手に力を加えてさらにきつく握り、言葉を違えないように注意しながら口を開いた。


「もう何度も申し上げているように、私には既に心に決めた女性がいます。それに、誰の子なのかはっきりしない子どもの父親になる気は毛頭ありません」


尚哉は事実だけを言葉にして告げた。一番欲しいと思っている証拠を手に入れられないのであれば、今回のような場での会話を録音したものを積み上げていく以外に方法がない。いざとなった時、少しでも証拠品としての質を落とさないようにするためには、嘘を吐いて尚哉の望む言葉を引き出すようなやり方は避けるべきだと尚哉は考えていた。


「あなたの子よ。父親は尚哉さんよ」


尚哉へぶつけるように、美咲が子どもの父親は尚哉だと声を荒らげた。その美咲の態度に、秋光の尚哉を見る目に鋭さが加わった。その時、尚哉の警戒心が、そろそろ引き揚げ時だと告げた。


 このまま話を続けたとしても、美咲の子どもが尚哉の子かどうかの無益な言い争いになるだけだということが容易に想像がついた尚哉は、自分の警戒心の忠告に従い話を切り上げるための言葉を重ねた。


「美咲さんが言われたような、愛し合ったという記憶が私には一切ないということは先程も申し上げた通りです。美咲さんにどのような事情がおありなのかは存じ上げませんが、一度、樫山専務も交えてお子さんの本当の父親と話し合われては如何でしょうか。私は、これで引き取らせていただきます」


早口にならないように気を付けて言い終えた後、尚哉は一度頭を下げ立ち上がった。


「尚哉さん。あなたの子なのよ」


部屋から出ようとした尚哉の背中を、美咲の放った言葉が追い掛けて来た。しかし、尚哉は振り返らず、そのまま部屋を出て水鏡から離れた。


 水鏡の建物が見えなくなるまで歩き続け、完全に見えなくなったところで足を止めて大きく息を吐き出した。その途端、どっと疲れが押し寄せた。


自分が思っていた以上に、秋光と美咲を相手に自分の主張を押し通すという行為が精神的に大きな負担となっていた。特に、美咲を相手に怒りを面に出さず、表面上は冷静に見えるように振舞うごとに尚哉の神経は少しずつ磨り減っていた。


 目の前の外灯に照らされた夜道が、ことさらに暗く感じられた。

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