第35話 貞淑な仮面
尚哉を案内して来た仲居に、食事は話が済んでからにすると伝えて下がらせた秋光は、自分の正面の席に座る尚哉を見据えて徐に話し掛けてきた。
「詫びの言葉はないのかね」
「お詫びですか」
秋光からの呼び出しが掛かってからここに来るまでの間に、秋光が口にしそうな事柄をあれこれと予想していた尚哉だったが、こういう状況は予想外だったため演技でも何でもなく本当に面食らっていた。
「私はがちがちの石頭ではなく、君の話を聞く耳くらいは持っているつもりだ。君が正式に詫びを入れて手順を踏むのであれば、これまでの君の行いは不問としよう」
秋光から君の行いは不問とすると言われ美咲へ視線を向けると、美咲は今までに見たことがない慈愛に満ちた微笑みを浮かべて尚哉へ向かって小さく頷いた。美咲のその動作を見て、尚哉は秋光が尚哉に対し美咲の妊娠についての責任を取るように迫っているのだと悟った。
しかし、尚哉には美咲との結婚を望む気持ちは微塵もなく、万に一つ、美咲の子どもが尚哉の子だったとしても自分に責任があるとは到底思えなかった。
「私には何について言われているのか、まるで分からないのですが……」
「君は美咲に手を付けて、子どもまで作っておきながら素知らぬ振りをするつもりなのかね」
「尚哉さん。お父様は私とあなたの結婚を反対しているわけではないの。ただ、式を挙げる前に子どもを作ってしまったものだから、あなたに一言謝ってほしいと言っているだけなの。お父様のお気持ちは、分かってくれるでしょ」
尚哉の態度に気色ばんで尚哉を詰った秋光を押し留め、美咲が貞淑なお嬢様を装い尚哉を諭すように口を差し挟んできた。
そんな美咲の態度に、尚哉は反吐が出そうになった。それを何とか堪え、達樹に助言されたことをできるだけ感情を込めないように言葉にした。
「私と美咲さんの子どもとは、何の関わりもありません。ですから、謝れと言われても承服致し兼ねます」
「何を言うの。あの時のあなたは、真剣に私を求めて私たちは心から愛し合ったでしょ。忘れてしまったと言うの」
今にも泣き出しそうな様子で尚哉に詰め寄る美咲に、尚哉はあの行為のどこをとったら愛し合ったと言えるんだと怒鳴り付けたい衝動に駆られ、言葉が喉元まで迫上がってきた。しかし、それを言うわけにはいかずグッと飲み込み、代わりにこの場で伝えるべき言葉を紡ぎ出した。
「私には、そんな記憶は一切ありません。美咲さんは、私を他の誰かと取り違えているのではありませんか」
達樹に助言された通り、美咲の嘘を利用して美咲との間に起こった忌まわしい出来事の全てをなかったことにし、美咲の子どもについても身に覚えのないことだと言った尚哉を、美咲が目を見開いて見ていた。
「君は、美咲が嘘を吐いていると言いたいのかね」
言葉を失った美咲に代わって秋光が声のトーンを落とし、威圧するように言葉を発した。
以前の秋光の上辺だけを見て敬っていた尚哉ならば、そんな秋光の態度に畏縮して言いたいことも飲み込んでいたかも知れない。だが、今の尚哉には秋光を畏怖する気持ちが全くなくなっていた。
尚哉は臆することなく秋光の姿を視界に収め、その目を真っ直ぐに捉えて言うべきことを伝えた。
「私は、事実を申し上げているだけです」
秋光はスッと目を細め、尚哉の腹の中を探るように尚哉を見ていた。
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