第34話 ICレコーダー

 美咲から妊娠の事実を明かされ達雄と達樹に相談をした三日後、尚哉は秋光から料亭水鏡に呼び出された。


 そこは、秋光の妻の友人夫婦が経営している料亭で秋光は公私に渡ってよく利用していた。格式のある店構えは、普段の尚哉であれば店の前に立っただけで緊張を覚えるものだったが、この日は違っていた。


 呼び出された理由が娘の美咲の妊娠と無関係だとは思えず、水鏡の前に立った尚哉は頭の中で達雄と達樹から助言されたことを繰り返して確認した。それから、スーツの上着のポケットに入れたあったICレコーダーを取り出し、録音状態にしてもう一度スーツの上着のポケットへ忍ばせた。


 美咲に薬を盛られたことにしても、尚哉の意思を無視して忌まわしい行為を強行されたことにしても、尚哉は紛れもなく被害を受けた側の立場であったにも拘わらず、それを証明できる証拠を一つも手に入れられないことに尚哉は苛立ちを募らせていた。


 それでも、秋光が美咲と尚哉との結婚を諦め、美咲が子どもの父親として尚哉を名指しすることを止めてくれるのであれば、これ以上、問題を拗らせないために納得はできなくても、これまでのことに対して口を噤むことも考えていた。


しかし、反対に子どものことを持ち出して、これまで以上に秋光が美咲との結婚を強要し、美咲が子どもを尚哉へ押し付けようとするのであれば黙っているわけにはいかなかった。ただ、その場合でも単なる水掛け論としないためには、尚哉の主張を有利なものとする必要があった。


 そこで、どうしたらいいかと思案した結果、秋光がこれまでにも自分の立場を利用して尚哉へ無理な命令をしていたことを思い出し、また、達樹の言った真っ赤な嘘には綻びが出るという言葉に賭けてみようと思い立ち、行き着いた先がICレコーダーだった。


 ICレコーダーは、尚哉がプロジェクトチームの一員として選ばれた時、アドバイザーとして尚哉についてくれた者から、自分とは関わりが薄い内容のものがプロジェクトチームの会議の題材として取り上げられると、記憶から抜け落ちてしまうことがあるため、その穴を開けないためにも会議の内容を録音しておくことを勧められて手に入れたものだった。


それ以来、尚哉はプロジェクトチームの会議だけに限らず、重要な会議や研修に参加した時にはICレコーダーを使い、その有用性を実感していた馴染みのあるものだった。


 尚哉はそれを使い、これから先に交わされる秋光や美咲との会話を全て録音し、自分に有利となりそうな証拠を一つでも二つでも手に入れなければと思っていた。


 水鏡の暖簾へ目をやり、深く息を吐き出した。それから、秋光にどのような話を持ち出されても大丈夫なように覚悟を決めて足を踏み出し暖簾を潜った。


 店の中へ入り、身分と名前を告げると仲居に部屋まで案内された。そこは、離れのように店の奥に位置する部屋で、他のお客の目に触れることもなく話の内容を聞かれる心配もない場所だった。


 部屋の中へ入ると、床の間を背にして秋光が席に着いていた。そして、座卓の角を挟んで美咲も同席していた。


その様子を見ただけで呼ばれた理由を察した尚哉は、自分が言うべき言葉を心の中で確かめながら出入口に近い席へ腰を下ろした。

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