第29話 小箱の思い

 秋光が用意したマンションイリスへ行くことが決まっていた日の前夜、それでも尚哉は、梨奈に何もかも話した上で『俺が帰るまで、待っていてほしい』と頼むつもりだった。


しかし、梨奈の顔を見てしまったら言葉を上手く紡ぎ出すことができなくなり、何一つ話せず、待っていてほしいとも言えないままイリスへ行くことになってしまった。


 まだ明かりの灯るベルフラワーの自宅の窓から目を離し、手の中にある小箱へ視線を落とした。


 今日、12月25日は尚哉と梨奈にとって大事な記念日だった。2人で一緒に過ごし、クリスマスケーキに二本のろうそくを立て、2人が付き合い始めてから丸二年経ったお祝いをしようと約束していた。


そして、尚哉は予定が狂い今年の夏にできなかった梨奈へのプロポーズを今日の記念日に合わせてした後、小箱の中に収められている指輪を渡そうと梨奈には内緒で計画を立てていた。だが、それも不測の事態が起こり、できなくなってしまい梨奈との約束も破ってしまった。


 もう一度、自宅の窓へ視線を移した。梨奈に会いたかった。会って抱き締めてもう二度と離れたくなかった。しかし、今はまだそうするわけにはいかなかった。それでも、せめて小箱の中の指輪だけでも梨奈へ届け、尚哉が愛しているのは梨奈だけだと伝えたいと思った。


 道路を横切りベルフラワーの建物の玄関を通り抜け、メールボックスが並んでいる場所へ向かい、二人の部屋のメールボックスの扉を開けてその中へ小箱を置いた。それから、二年前の昨日と同じように名刺を取り出して、裏面に『愛する梨奈へ』と綴りそっと小箱の上へ載せた。


 そして、元通りに扉を閉め、立ち去り難い思いを振り切り尚哉は建物の外へ出てそのまま歩き出した。


 本年12月26日。梨奈が目を覚ますとすっかり夜が明け、窓から陽の光が差し込んでいた。いつの間にか、泣きながら泣き疲れて眠ってしまっていた。まるで、溜まりに溜まっていたものを根こそぎ押し流そうとでもするかのように、涙が留まることを忘れて流れ続けた。


 梨奈は今日、帰って来た尚哉とじっくり話し合いたくて会社から休みを貰っていた。


 尚哉は梨奈と付き合い始めた時から、暇を見つけては一日に何通ものメールやラインを送ってくれていた。それは、一緒に暮らし始めてからも変わることなく、恋人同士になって二年が過ぎようとしていた、尚哉が帰らなくなった日まで続いていた。


そんな尚哉だったから、これまでに無断で外泊したことなど一度もなく、梨奈の中から無断外泊という言葉自体抜け落ちていた。それが、梨奈からの電話やメールも繋がらなくなり、何か問題が起こっていることは間違いないと梨奈は確信していた。


だからこそ、帰って来た尚哉とそれがどんな内容であれ、とことん話し合いたかった。だが、尚哉は帰って来なかった。


 これまでにも何日も尚哉に会えなかったことはあったが、尚哉がこまめに入れてくれる連絡のお蔭で、いつだって尚哉を感じることができた。それなのに、ある日突然、ぷっつりと途絶えてしまい梨奈は寂しくてたまらなかった。

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