第28話 大切な人
眠っている梨奈の顔を見詰め、尚哉が全てを正直に告げた時、その穏やかな顔が苦痛に歪められる様子を思い浮かべ胸が痛んだ。それでも、話さないといけないんだと自分に言い聞かせてみたものの、それを拒もうとするもう一人の自分が尚哉の中にいた。
美咲との間に起こった忌まわしい出来事までなら梨奈も初めは衝撃を受け動揺するだろうが、梨奈が納得するまで話し合えば、それは尚哉が望んだ結果ではないと分かってくれるだろう。しかし、そこに子どもの存在が加わったら……。
子どもの存在を知った梨奈は、どう思い、何を考え、どんな行動をとろうとするのか……。尚哉には、まるで読めなかった。
もしも、梨奈が子どものことを一番に考え尚哉と別れることを選んだとしたら、尚哉はこの先ずっと梨奈のいない時間を過ごし続けることになる。そう考えただけで心が悲鳴を上げていた。
「……尚哉……」
「ただいま」
僅かに問うように尚哉の名前を呼ぶ梨奈の声に、梨奈の顔を見ると寝ぼけ眼で尚哉を見ていた。顔を近付けて帰って来たことを知らせ、梨奈の唇に口づけを落とした。
「お酒臭い……」
眉間に皺を寄せて抗議の声を上げる梨奈が可愛く思え、尚哉はさらに深い口づけを施した。
「おかえりなさい。尚哉」
唇を離した尚哉へ、微笑みながら出迎えの言葉を掛けてくれた梨奈に愛おしさが込み上げ、尚哉はまた唇を合わせながら『失うわけにはいかない。絶対に』と強く思っていた。
シャワーを浴びて来ると梨奈に告げ、寝室から出てドアを閉めた。その途端、美咲の言葉が頭の中に甦った。
『あなたの子よ。尚哉さん』
「違う。でたらめを言うな」
瞬時に、美咲の言葉を打ち消そうと頭の中で反論した。しかし、美咲の言葉が次から次へと繰り返されていく。
『自然の成り行きでしょ』
「そんなものあるはずがないだろ」
『あなたの子よ。尚哉さん』
「違うと言っている」
『結婚式は早めにしましょう』
「煩い。黙れ」
言葉が勝手に口から飛び出し、『子どもと俺は関係ない』と叫びそうになった時、クシャッと音がした。熱くなっていた頭に冷水を浴びせかけられたようなその音に呆然として、音を発した自分の左手を見るときつく握り込まれていた。
解きほぐすように少しずつ指の力を抜いていき、折り曲げていた指を広げて手の中にあったものを見詰めた。クシャクシャに捩れてしまっていたそれは、梨奈が夜食に添えてあったメッセージを書き込んでいたメモ用紙だった。
破れないように注意しながら広げたメモ用紙にはすっかり皺が寄り、元の綺麗だった姿が損なわれてしまっていた。
不意に、皺だらけのメモ用紙に梨奈を失った自分の姿が重なり、『梨奈がいなくなってしまったら、俺は何のために生きて行くのだろう……』という思いにとらわれ、尚哉はもう何も言えなくなってしまっていた。
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