第26話 仕事

 その場の重くなった空気を払うように、達雄が立ち上がり部屋から出て行った。すぐに戻って来た達雄はクーラーボックスを手にし、それを達樹へ渡して元の席へ戻った。


達樹がクーラーボックスの蓋を開け、中を確かめるとたくさんの缶ビールが保冷剤と共に入れられていた。それを見た達樹が座卓の上に並べられていた空になった缶を部屋の外へ出し、クーラーボックスの中から新しい缶ビールを数本取り出して代わりに並べ、そこから達雄が一本手に取り栓を開けて尚哉へ差し向けてきた。


その様子に、尚哉は達雄が尚哉の心情を察して飲ませてくれようとしているのだと知り、小さく『ありがとうございます』とお礼を言い、達雄の好意に甘えてグラスを差し出した。


「この際、会社を辞めるか。お前は、俺と一緒に司法試験を通っているんだし、会社を辞めても困ることはないだろ。何なら、今から弁護士を目指すという手もあるしな」


唐突に響いた達樹の言葉に達樹の方へ振り返ると、達樹は缶ビールを手に持ち自分のグラスへ注いでいた。


 尚哉は子どもの頃から父親の跡を継いで弁護士になると決めていた達樹の影響を受けて、大学では法学部に籍を置き弁護士を目指していた。その後、ロースクールのある大学院まで進んだのだが、達樹のように確固たる信念を持っていたわけではなかった尚哉は、このまま弁護士になったとして自分に務まるのだろうかと迷っていた。


 尚哉たちを指導していた教授の勧めもあり、達樹と一緒に司法試験を受けた尚哉だったが、その一方で四葉環境の就職試験も受けていた。


結果は、両方から合格通知が届き嬉しいものではあったが、尚哉は二つの合格通知を前にして、弁護士を目指す踏ん切りがつかず迷いに迷っていた。そんな尚哉の背中を父が押してくれたこともあり、尚哉は四葉環境へ就職することに決めたのだった。


 達樹はそんな経緯を良く知っていたため、気楽な感じで会社を辞めることを提案したのだと尚哉は直ぐに気が付いた。


「この先の状況次第では、そういうことも真剣に考えることが必要になるだろうが、それはもう少し先の方がいいだろう」

「それは、どういうことでしょうか」


気楽な感じの達樹とは反対に重い口調で話に加わった達雄に、尚哉は疑問を覚え問い掛けた。


「専務が、尚哉君を選んだと言った理由が全てとは思えないからね。本当の目的が分からないまま会社を辞めて弁護士を目指したとしても、余計に執着される怖れがある」

「確かに、専務の娘の行動は常軌を逸しているな」


尚哉の問いに応えた達雄へ、達樹が先程までとは違い真面目に返した二人の話を聞いて苦いものが込み上げ、ビールを口にした尚哉の頭の中に『万事休す』という言葉が浮かんだ。その場に沈黙が下りた。


 ずっと美咲との結婚を拒み続けてきたはずだった。それが、気が付けば秋光と美咲の思う壺に嵌まり込んでしまっていた。尚哉は遣り切れない思いにグラスを空にし、さらに手酌でビールを注ぎ入れて飲み干した。そうしなければ、愚痴が止め処なく零れ出てしまいそうだった。


そんな尚哉へ、達樹は何も言わずクーラーボックスから新しい缶ビールを取り出してそっと差し伸べ、達雄は無言を通していた。


「いっそのこと、何もなかったことにするか」


沈黙を縫うように、静かに重く響くような口調で達樹が解決策を口にした。


「それは……。無理だろ……」


達樹の言う通り、本当に何もなかったことにできるのであれば尚哉にとっては願ってもないことだったが、現実には美咲が子どもの父親として尚哉を名指ししているため、そんなことは無理だということは分かり切った話だった。


「何も、あった事をなかったことにしようという話ではないんだ」


話を推し進めようとする達樹へ目をやると、腹に一物あるような笑みを浮かべていた。

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