第23話 甘い蜜

「結婚式は、できるだけ早いうちに挙げましょう。お腹が目立つようになってからでは着られるウエディングドレスも限られてしまうし、あなただって最高に綺麗な花嫁をエスコートしてみんなに自慢したいでしょ」


『俺は、美咲と結婚するのか……』


美咲のクラス会のあった8月14日の夜の忌まわしい出来事を根拠に尚哉を子どもの父親だと名指しし、結婚を迫る美咲の言葉を尚哉は呆然として聞いていた。


背中を嫌な汗が伝い落ちた。次の瞬間、突如、心の奥底から熱いものが込み上げて来た。


『そんな馬鹿な真似ができるか。俺が結婚する相手は、梨奈だけだ』


尚哉の意思を完全に無視し尊厳さえも踏み躙っておきながら、あの行為を愛し合ったと平然と言える美咲に対し吐き気がした。百歩譲って、子どもが本当に尚哉の子だったとしてもあんな暴力的な行為でできた子を、父親として受け入れるなど天地がひっくり返ってもできそうになかった。


「披露宴は盛大にしましょう。そうね、招待する人の数は……」


顔を上気させ淀みなく尚哉との結婚披露宴について語る美咲に、尚哉はあの夜の事を問い詰めようとした。その時、尚哉の警戒心が言葉を飲み込ませた。


 今、美咲にあの忌まわしい行為について問い詰めるということは、暗に美咲と肉体関係があった事を認めることになる。まだ尚哉の子だという確証を示されたわけではない、今の段階でそれを口にするのは得策とは言えない。


尚哉は自分の警戒心の警告に従い、美咲を問い詰めることを止めた。その代わり、意識を集中してこの場から立ち去るための言葉を探した。


「美咲さん。私は、あなたと結婚するつもりはありません。あなたの子どもの父親でも有り得ません。それとも、あなたが私に薬を飲ませて眠らせた上で、自ら私の上に跨ったとでも言われるのですか」


上機嫌で披露宴について流れるように話していた美咲が、尚哉の言葉で息を呑み言葉を失ったのを確かめ、尚哉は『仕事があるので、失礼します』と断り席を立った。


 思考が停止した美咲は、レストランの従業員が食後のデザートを運んで来るまで尚哉が座っていた席に視線を留めていた。従業員に声を掛けられ我に返った美咲は、鋏を貸してくれるように頼んだ。


 美咲の生家である樫山家の一族は代々金融関係の仕事に就き、美咲の祖父もまた大手銀行の頭取を勤め上げていた。


都内に二百坪を超える敷地に邸宅を所有する美咲の祖父は資産家でもあり、大手銀行を退行後は投資会社を設立して美咲の父である秋光を役員に据え、自身は責任者として投資会社を運営し、今も尚、資産を増やし続けていた。


 樫山家の跡取り娘でもある美咲が年頃になると、甘い蜜を求めて男たちが群がるようになり、美咲の言動が常識を外れたものであっても誰も彼もが笑顔で受け入れていた。


そんな美咲にとっては、尚哉もまた美咲のこれまでの言動やこれからの言動の全てを無条件で丸ごと受け入れることが当然のことだった。


 レストランの従業員から鋏を借りた美咲は、バッグの中から一枚のスナップ写真を取り出した。そこには一組の若い男女が、お互いを見つめ合い微笑み合う一幅の絵のような様子が写し出されていた。


それは、秋光が人を雇い尚哉について調べさせた調査報告書に添付されていた数枚の写真の中の一枚で、尚哉と梨奈の仲睦まじい姿を収めたものだった。


 美咲は鋏を手にすると、躊躇うことなく尚哉と梨奈の仲を引き裂くようにスナップ写真を切り離した。


「あなたは、もう用済みよ」


鋏をテーブルの上へ置き、切り落とした梨奈が写っているスナップ写真の断片をテーブルの上から拾い上げた美咲は、写真の中の梨奈へ言い放つとそれを握り潰してテーブルの上へ放り出した。


残された尚哉が写るスナップ写真の断片を改めて両手で持ち、尚哉の姿を視界に入れた美咲は満足気に笑みを浮かべた。


「あなたは私の、私だけのもの……」


その尚哉の瞳は慈愛に満ち溢れ、『愛している』と告げていた。

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