第21話 指輪

 本年12月25日23時35分。


『梨奈はどうしているだろう。俺が帰ると信じて待っているのだろうか。それとも、諦めて待つことを止めてしまっていたら……』


尚哉は道路を挟んだ道端に立って、マンションベルフラワーの建物を見上げていた。梨奈と暮らす7階の角部屋の窓から明かりが漏れていた。


『あそこに梨奈がいる』


そう思った途端、尚哉の心が梨奈の下へ飛んで行ってしまった。だが、足は一歩も踏み出せなかった。


今、梨奈に会ったら尚哉は美咲のいるイリスへは戻れなくなる。それが分かっているからこそ、その場から動けなかった。


 スーツの上着のポケットへ手を入れて、綺麗に包装された小箱を取り出した。中には顧客の希望を取り入れたデザインを起こし、そのデザインを基に職人が一点一点手作りでアクセサリーを作ってくれることで人気のジュエリーショップアークで、梨奈のために用意した指輪が収められていた。


 本来の予定では、お盆休みの旅行で梨奈と結婚について話し合うつもりだった。しかし、直前に起こった出来事は災難という言葉で片付けてしまうには、余りにも衝撃的過ぎて心の動揺を梨奈に悟られないように振舞うだけで精一杯だった。


 美咲のクラス会があった日、美咲を置き去りにして部屋を出た後、そこが美咲を迎えに来たホテルの客室の一室だったと知った尚哉は、ふらふらになりながら何とか自分の車を運転してベルフラワーの自宅へと辿り着いた。


自宅の玄関で靴を脱ぎ捨てると、真っ直ぐ浴室へ向かった。まだ残る眠気を払い、はっきりしない頭を鮮明にさせるために水のコックを捻りシャワーを頭から浴びた。


 暫くそのままでいると徐々にぼんやりしていた思考が明瞭になり、自分の身に何が起こったのか正確に把握することができた。


だが、現実にあったことだとはとても信じられなかった。しかし、身体に残る美咲の感触が、あれは夢でも幻でもなく実際にあったことなのだと訴えていた。


まるで体中を這い回るようなその感触の気持ち悪さに耐えられず、尚哉は記憶と共に消し去ろうと狂ったように全身を洗い続けた。腕がだるく持ち上げることが困難になるほど何度も何度も擦ったが、記憶に刷り込まれたものまでは洗い流すことができなかった。


 何もなかったことにはできないのだと認めるしかなかった尚哉は、込み上げる怒りを抑え記憶を遡った。そして、気が付いた。


美咲は、初めから今夜尚哉との既成事実を作るつもりで準備を済ませ、尚哉を待ち構えていたのだ。事前にホテルの部屋を用意した上で、尚哉を酔い潰すことが無理なら眠らせる計画を立て、睡眠を誘発する薬剤も持って来ていたのだろう。


そんなこととは露知らず、美咲に誘われたバーで席を外し美咲に対して尚哉は隙を作ってしまっていた。だが、大企業の重役のお嬢様があんな行動に出ると誰が予測できただろう。


 尚哉は、秋光から発せられた業務命令の言葉に反発を覚えながらも従い、美咲を迎えに行ってしまった自分の行動をどんなに悔やんでみても悔やみ切れなかった。


 しかし、幸いにもお盆休み明けから十月の初め頃まで、海外の支社へ研修に行く予定になっていた尚哉は、美咲を置き去りにしてから一度も接触することなく本社から離れることができた。

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