第20話 約束

 沙織に問われるままに、梨奈は尚哉との事を話して聞かせた。沙織は梨奈の話を初めはからかったり冷やかしたりしながら聞いていたが、話が進んでいくと表情が曇り始めた。


「梨奈には悪いけど、私は尚哉さんとのお付き合いには賛成できないな」

「どうして」

「梨奈の事を悪く言うつもりはないんだけど……。尚哉さんって、要するに将来有望がエリートなんだよね」


話を聞き終えた沙織が予想外の反応を示し、理由が分からず聞き返した梨奈は、沙織が何を言いたいのか見当が付かず頷くだけで話の続きを待った。


「気を悪くしないでほしいんだけど……。尚哉さんのような人なら、本人の意思に関係なく周りが放っておかないんじゃないかなあ。中には、尚哉さんの後ろ楯になって自分の娘を押し付けようとする人もいると思うんだよね。そうなったら、梨奈は資産家のお嬢様というわけでもなく、権力者の娘でもないんでしょ。太刀打ちできると思う」

「そんなこと、現実にあるのかなあ……」


沙織が言いづらそうにしながら話した内容は、尚哉が政略結婚するかも知れないというものだった。


 確かに、梨奈の父は地元の市役所に勤める公務員で、母は地元のカルチャースクールの料理教室で講師をしている管理栄養士だったが、梨奈は心の中で沙織はテレビのドラマや映画などの物語に影響されすぎなのではないかと思いながら軽く反論を試みた。


「実際に尚哉さんがどうするかは分からないけど、尚哉さんのようなエリートなら上を目指すものでしょ。でも、上に行けば行くほど座れる椅子の数は減るよね。そうなったら、自分だけの力じゃ限度ってものがあるだろうし、そしたら、誰かに引き上げてもらうしかないんじゃないかなあ……」


 その時の梨奈と尚哉は、ただ会うだけでも難しく、尚哉との関係がその先どうなるか見通すこともできなかったため、尚哉との将来を想像しようとさえ思えなかった梨奈は沙織の話を聞き流していた。


 十一時を知らせるメロディが部屋の中で鳴り響き、余韻が薄れて今日が終わろうとしていた。


『尚哉は、帰って来ない……』


確信めいた思いが梨奈の頭の片隅にあった。だが、今日が終わるその時までは尚哉が帰って来ると信じていたかった。


そんな梨奈の思いをあざ笑うように振り払っても振り払ってもあの時の沙織との会話が頭の中でリピートされ、その度に鋭さが増して梨奈の心に突き刺さった。


 尚哉との連絡が取れないまま帰って来なくなっても、今日の日の約束があったから耐えてこられた。今日を迎えれば、独りぼっちの辛い時間も終わると信じ込んでいた。尚哉さえいてくれれば、どんな問題が起こっていても2人で一緒に乗り越えられると思っていた。


 尚哉のいない部屋の中を見渡すと、尚哉との思い出で溢れていた。今はもう空っぽの面影がすっかりなくなった部屋の中には、尚哉と相談しながら一つまた一つと揃えていったものがあちらこちらに置かれていた。


それらは尚哉がいた時と少しも変わらずそこにあって、ただ尚哉の姿だけが欠けていた。


『お願い。尚哉、帰って来て。お願いだから……』


からくり時計の時計の小窓が開くカタッという音が響き渡った。


『ああ。今日が終わってしまう……。尚哉……』


今日の終わりを告げるメロディが奏でられる。


『尚哉……。どうして……』


パタンと小窓が閉じる音がした。意識を集中して玄関の音を拾おうと梨奈は息を詰めた。しかし、静まり返ったまま物音一つせず、尚哉が帰って来る気配はなかった。


 梨奈は弾かれたようにソファから立ち上がると、キッチンへ行き真新しいゴミ袋を手に取った。


そして、テーブルの上に並べられていた今日の日のために用意したご馳走を次々にその中へ放り込んでいった。花瓶に生けてあったバラの花も捨てた。それから、冷蔵庫の扉を開けケーキも取り出してろうそくと共にゴミ袋の中へ押し込んだ。


 ポタリとゴミ袋を掴んでいた左手の甲に雫が落ちた。ポタッ、ポタポタと後を追うように続けて数滴の雫が零れ落ちた。ゴミ袋を掴んでいた左手が小刻みに震え唇を噛み締めた。


 日増しに大きくなる不安も、尚哉との約束を信じて気付かない振りをしてやり過ごしてきた。だが、今日は終わってしまった。一度零れてしまった涙は堰を切ったように後から後から流れ出て、左手の甲を伝いフローリングの床に染みを作り出していく。


「うっ……。くっ……。うう……」


噛み締めた唇から堪え切れない嗚咽が漏れ、梨奈は寝室へと駆け込みベッドの中へ潜り込んだ。


「尚哉……。尚や……。なおや……」


今まで押さえ付けていたものが噴出し、壊れた人形のように梨奈は尚哉の名前を繰り返して泣き続けた。

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