第17話 誘惑

 直ぐ近くで美咲の声が聞こえ、振り向いた尚哉は左腕に重みを感じた。


「ずいぶん遅かったのね。待ちくたびれてしまったわ」


美咲の姿を認めた尚哉の左腕を抱き込み、胸を押し当てながら鼻に抜けるような甘えた話し方で美咲は尚哉を睨むような仕草をした。


「すみません。予想していた以上に、車の流れが悪かったものですから……」


尚哉は、期待を裏切られたことに心の中で舌打ちしながら口先だけの詫びの言葉を告げた。


「ねえ、知ってた。この上に夜景の見える素敵なバーがあるの。行きましょ」

「もう遅いですし、車で来ていますからご自宅までお送りしますよ」


尚哉の詫びの言葉を無視し、左腕に身体を預けて歩き出そうとした美咲からさり気なく身体を離し、送ると言った尚哉に美咲はあからさまに態度を変えた。


「帰ることは認めないわ。付き合いなさい。これは命令よ」


有無を言わせない美咲の姿は父である秋光を思い起こさせ、尚哉は半ば諦めの心境で美咲に連れられてホテルのバーへ行った。


「……や。……おや。……なおや。……尚哉」

『……りな』


深い眠りについていた尚哉を梨奈が呼んでいた。僅かに浮上した意識を、強い睡魔が刈り取ろうとする。


「……尚哉……」


悲しそうな梨奈の呼び掛けに、再び眠りの中に引き摺り込まれそうになっていた尚哉は、睡魔に抗い瞼を持ち上げて梨奈を探した。見つけた梨奈は尚哉から少し距離を置いた所に立ち、見る見るうちにその瞳から涙を溢れ出させた。


『梨奈。どうした』


慌てた尚哉は梨奈へ声を掛けようとしたが、喉に声が張り付き言葉を発することができなかった。


その間も梨奈の涙は流れ続け、はらはらと零れ落ちていた。そんな梨奈の姿など今まで一度も見たことがなかった尚哉は、急いで抱き留めなければと身体を動かそうとした。しかし、その場に縫い止められたように指一本動かせなかった。


『俺は、いったいどうしたんだ……』


梨奈へ問うように目を向けたが、梨奈は忽然と消え失せていた。


 得体の知れない不安が胸の内に沸き上がり、とにかく自分の状態を確かめなければと、よく回らない頭で考え始めた時、耳元で荒い息遣いが繰り返され耳たぶを熱い吐息が掠めた感覚があった。


不安に混乱が交じり合い自分の身体に意識を向けると、下腹部の上に何かが乗っている重みと腰を両脇から押さえ付けられている感じがした。しかも、どうしたことか身体の中心に熱が集まり、屹立しているものが柔らかなものに隙間なく覆われて擦れているようだった。


混乱に拍車が掛かり尚哉は回転の鈍い頭を無理矢理働かせ、なぜこんな状況に自分が陥っているのか直前の自分の行動を思い出そうとした。


 美咲に連れられてホテルのバーへ行くと、夜景が良く見える美咲のお気に入りらしいボックス席へ座らせられた。隣に座った美咲が当然のようにしなだれ掛かってきたのを見た尚哉は、一刻も早く美咲を送り届けなければと、美咲が興醒めするように美咲の身体を押し返し席を立ってトイレへ向かった。


戻って来た尚哉は美咲と向かい合うように席へ着き、アルコールを勧めた美咲に車の運転があるからと断りを入れ、テーブルに置かれていたウーロン茶を飲みながら美咲の話しに相槌を打っていた。


それから幾らもしないうちに、突然、強烈な眠気に襲われ意識が途切れた。


 その後、どうなったのかを思い出そうと懸命に頭を働かせていると、尚哉の胸を撫で上げる感触が剥き出しの素肌に直接伝わり、その湿った感触に悪寒が走り体がビクッと震えた。


その時、尚哉の名前を呼ぶ美咲の声が聞こえた。その声に夢と現実の狭間にいた尚哉は一気に覚醒した。


 目を開けて見てみると、肌を晒した美咲が尚哉の上へ乗っていた。それを認識した途端、身体に力が漲り、尚哉は美咲を乱暴に払い除けた。


美咲は呆然として尚哉を見ていたが、尚哉には美咲に構っていられるだけの余裕はなく、ふらつく身体に喝を入れ、床に散乱していた衣服を拾い集めて身繕いを始めた。


「ここを出て行くことはできないわ。2人の夜を存分に楽しみましょう」


思うように動かない手足にイラつきながら、何とか身支度を終えた尚哉の耳に美咲の声が届き視線だけを向けると、バスローブを身に纏った美咲が出口へと続く場所に立っていた。


一分一秒でも早くこの場から立ち去らなければと焦りながら、よろよろと出口を目指して歩き出した尚哉へ媚びるような笑みを浮かべて、見せ付けるようにバスローブを留めてあった紐をゆっくりと解き美咲は尚哉を誘った。


そんな美咲の様子に、沸々と怒りが沸いた。


「どけっ」


怒りの感情をぶつけるように美咲を怒鳴りつけた尚哉に、美咲は気圧され後退りながら道を開けた。


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