第16話 業務命令

 プロジェクトチームの創始者でもあり今も総責任者を務める秋光に、それまでは敬意を払い敬ってきた尚哉だったが、その瞬間、秋光を覆っていた虚像がガラガラと音を立てて崩れ幻滅した。


その時、尚哉は秋光が歩む道と自分が目指す道は別物なのだと理解した。


「私は、今日まで父を恥じたことは一度もありません。寧ろ、尊敬し自分の目指すべき姿だと思っています」

「14日は忘れずに美咲を迎えに行きなさい。これは業務命令だ」


秋光と袂を分かつことも厭わない覚悟で放った尚哉の言葉に秋光は渋い顔を見せたが、直ぐに表情を改め自分の主張を曲げることはなかった。


 秋光には胸に秘めた野望があった。秋光の生家は秋光の祖父が興した会社を経営し、二代目となる秋光の父が祖父のあとを継ぎ社長を務めていた。


父親について仕事を教え込まれた秋光の父は経営者としての資質を有し、地元に密着した会社ではあったが秋光の父の才覚で安定した経営が営まれ、秋光は裕福な子供時代を過ごした。


 だが、秋光が中学二年生の時、祖父の年の離れた妹で秋光の父の叔母が、会社をリストラされた夫の再就職先として頼って来たことで全てが狂い出した。


 秋光の父の会社へ叔母の夫を迎え入れてから三年後、叔母の夫は社長である秋光の父を会社から追い出し自分がその座に就いた。


 幸いにも秋光の生家が保有していた資産は手付かずのまま残されていたため秋光一家は生活に困ることはなかったが、手酷い仕打ちを受けた秋光の父は生きる気力を失い口数も少なくなり、動く人形のようになってしまった。


そんな夫との生活に秋光の母は一年で嫌気が差し外へ働きに出始めると、二年後、家を出て勤め先で知り合った男の下へ行ってしまった。そのことを知った秋光の父は、さらに精神的なショックを受け血を吐いて入院生活を余儀なくされた。


 一方で、叔母の夫が引き継いだ会社は優れた経営者を追い出したことで社会的信用を失い、新しい社長となった叔母の夫には経営者としての才がなかったようで、秋光の父が入院した頃にはいつ潰れてもおかしくないと噂されるほど経営が悪化していた。


 それから、暫く経った秋光が大学三年の春、秋光の父の入院先へ会社の重役たちが挙って訪れ、詫びを入れて秋光の父に会社へ戻って来てほしいと懇願したが、その時には既に時機遅く秋光の父の余命は幾ばくも残されておらず、散り行く桜の花を追い掛けるように秋光の父は息を引き取った。


そして、秋光の祖父が興した会社も秋光の父と運命を共にするかのように、父の他界後、間もなくその歴史に幕を閉じた。


 その後、大学を卒業し、四葉環境へ入社した秋光は入社式の日、一段高い場所で訓示を述べる当時の社長の姿に在りし日の祖父や父の姿が重なり、自分の中で燻っていた思いに火が点いたことを感じ取った。


その時、秋光はいつか必ず四葉環境株式会社の社長の座を手に入れて見せると心に固く誓った。そんな秋光にとっては、婚姻も野望を遂げるための手段の一つでしかなかった。


 本年8月14日の夜。尚哉は秋光が指定した都内のホテルへ車を走らせていた。


梨奈は昨日から一週間のお盆休みに入り、昨日のうちに両親の待つ地元へ帰って行った。明日戻って来る予定で、今夜は留守にしていた。


 尚哉と梨奈は、梨奈が戻って来たら翌日から二泊三日の旅行へ出掛ける予定を立てていた。尚哉は自分の中にしっかりと根を張り、欠かすことのできない存在となっている梨奈との関係を揺ぎ無いものとするために、その旅行で環境を変え2人の結婚について梨奈とじっくり話し合おうと計画していた。


 ホテルの駐車場に車を止めて、車内のデジタル時計で時間を確認すると21時20分と表示されていた。


秋光から指定された時間は21時だったが、お嬢様育ちの美咲なら周りにちやほやされることに慣れて他人を待たせることは平気でも待つことは苦手なのではないかと考え、尚哉は到着を待てずに帰ってくれればという淡い期待をし、わざと遅く着くように梨奈と暮らすベルフラワーの自室から出発した。


後日、秋光から時間に遅れたことを詰られたとしても、命令に背いたわけではなければ何とか言い逃れることができるだろうという計算も働いていた。


 しかし、ホテルのエントランスを抜けてフロントへ向かって歩いていた尚哉を美咲が見つけ呼び掛けた。

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