かみんぐあうとっ!

春野 土筆

かみんぐあうとっ!

「はぁ~、マジで疲れた~~」

 バイトを終え、重い足を引きずりながら帰宅の途についた午後十時過ぎ。

 鍵を取り出すべくポケットに手を突っ込みながら一人呟いた。

「てか、こんな時間までシフト入れるなよ。あ~、課題もしなきゃ、だりぃ~……」

早く家に入りたいのに、鍵がスムーズにポケットから出てこないことにイライラが募り、次第に愚痴に変わっていく。

「……本当に鍵が見つからん。どこに入れた?」

愚痴に詰まってきても鍵が見つからないので、本気になって探し始める。

 十二月の空気が肌を強く締め付け、指が震える。吐く息もわずかにだが白く曇って溶けていった。

 寒い……。

「っげ、マジでどこにもない。どっかに落としたのか……?」

 体を震わせ探した甲斐もなく、鞄やズボンのポケットのどこにも鍵がなかった。

 しかし、落とした記憶が全くない。朝にこの部屋の鍵を閉めてから今までの自分の行動を一つ一つ振り返っていく。鍵を落とす要素はないように感じるが、知らぬ間に道に落とした可能性もあるか。

 それじゃあ今から引き返して探しに行こう。

 そう思い、今来た道を振り返る。

だが、何せ暗かった。

道路には街灯がちらほらあるだけで、地面を照らしている面積も限られたものだ。こんな冬の夜に暗い夜道を地道に見て行くことに対しての絶望感が、引き返す気持ちにブレーキをかけてくる。

実際問題、電車に落としていたら絶対見つけられないし、道に落としていても見つけることが難しいように感じた。

 ということで、探しに行く案はいったん保留だな。

 じゃあ、どうやって過ごそうか。

 アパートの管理人はおじいちゃんだから管理人室はもう開いていないし、鍵開け業者も閉まっているだろう。

じゃあ、家に入れないのか……。

誰か友達に事情を説明して家に泊めてもらおうか。だけど、急に行けばもの凄く迷惑がかかるだろうし、さすがにできないよな。

最終手段としてネットカフェに行って一夜をやり過ごす方法もある。俺自身はやったことはないが、クラスのオタク達が頻繁に行っているらしいからネットカフェ情報も一応知っているし。

でも、結構金かかるよな……。調べてみると、三千円くらいかかるらしい。高校生にとっては大きな出費だ。

「あ~、本当にどうしよう…………」 

「何かお困りごとですか?」

「うおぁっ!」

 突然独り言に入り込んできた声に驚き、顔を声のした方に向ける。

 そこには、大学生くらいだろうか、大人っぽくて目鼻立ちの整った女性が立っていた。

いつからそこにいたのだろう、全然気づかなかった。鍵がないことで頭がいっぱいで周りが見えていなかったんだな。

 俺の驚きっぷりに彼女も驚いたらしく「ひゃぁ」という小さな声を出した。雰囲気とは

裏腹に可愛らしいリアクションだ。

 どこの部屋の人だろうか。初めて見る顔だ。一度会ったら覚えているような人なのだが。

「あっ、驚かせてすみません……。私はこの部屋の美澄、という者です」

 そう言って俺の隣の部屋を指さした。

 あっ、まさかのお隣さん。

 ご近所付き合いがないから、お隣さんさえ知らなかった。

 咄嗟に「俺は、遠坂です」と自己紹介をする。

 美澄さんか。

俺を心配して声をかけてくれた彼女に現在俺が置かれている状況を説明する。

「えっと、鍵を無くして部屋に入れなくて……」

「そうですか、鍵を……。ちゃんとポケットの確認はしましたか?」

「ええ、一応したんですが……」

「どこに落としたとかは分からないんですか?」

「……はい」

 美澄さんは愛らしく人差し指を顎の上にのせ、考える。

「ん~、どうしましょう。この時間ですし、開けてくれる人もいないでしょうからね……。

どこかあてはあるんですか?」

「一応友達はいますが、さすがに迷惑が掛かるので。ネカフェも高いですし……」

「ん~、それなら私の家のベランダから入れないかやってみますか?」

「……えっ、良いんですかっ⁉」

「ええ、私は構いませんよ。ベランダの鍵は開けてますか?」

「あっ、はい。多分開けてたと思います」

「それじゃあ、決まりですね」

 そういうとお隣さんは部屋を開けて、「どうぞ」と俺に入るよう促す。

 躊躇なく部屋に入れてくれるようだ。

……初めて女性の部屋。なんだか、緊張する。

変な期待感が胸をよぎった。

 だが、淡い期待とは裏腹に入ってみれば意外にも何もない質素な部屋だった。四月の頃

の俺の部屋のように、備え付け家具以外は物がある気配がない。

 今増えているっていうミニマリストってやつだろうか。

 閑散とした部屋を見て、彼女がすぐに俺を入れてくれたことも納得ができた。

「それじゃあ、ここから頑張ってみてください。……危ないので、くれぐれも無理はしないでくださいね?」 

「はいっ、大丈夫です!ありがとうございます!」

 何もなかったリビングを抜け、ベランダに出る。

 ……結構仕切り高いな。

 思っていた以上に隣から入るのは難しいのかもしれない。しかし、せっかくお隣さんのご厚意でベランダに上がらせてくれたのだから、挑戦してみる。

 両手で仕切り板を掴み、右足をベランダの手すりにのっける。

 いっち、にっの、さんっ!

 よいしょ!、と勢いよく仕切りを乗り越える。

 あ、あれ、意外とできるじゃ――。

「う、うわぁっ⁉」

「だ、だいじょうぶですかっ?」

 飛び越えた所までは良かったものの、着地に失敗し盛大にベランダに尻もちをついた。

 めっちゃ痛い…………。

 ただ、彼女に心配をかけるわけにはいかない、というかこんなかっこ悪い状況を説明したくない。

「だ、大丈夫です!上手くこっちに行けました!」

 少し無理をしたテンションで美澄さんに報告する。

「それは良かったです!変な声が聞こえたので心配しましたけど……」

 彼女の方からホッとしたような愛らしい声音が響く。

 か、可愛い。

 もっと話していたい……。

 そう思ったが、寒い外に居続けさせるわけにはいかない。

「そ、それじゃあ、今日はありがとうございました!本当に助かりました!」

「いえいえ、本当に良かったです。……今度からは気を付けてくださいね?」

 仕切り越しに彼女にお礼を言って部屋に入る。

「はぁ~、疲れた……」

 制服をハンガーにかけてワイシャツを脱ぐ。

 と、その時。

 ワイシャツの胸ポケットから家の鍵がポトンっと落ちた。

 えー―……、そこーーーー…………。


     ※


 次の日の放課後。

 下校途中の道にお洒落な洋菓子屋さんがあったので、シュークリームを買った。

もちろん、昨日お世話になった彼女へのお礼の品だ。

「今、いるかな……?」

 シュークリーム片手にインターホンを押す。が、何も返事はない。

 美澄さんはまだ大学か仕事だろうか。昨日も夜の十時くらいに帰ってきていたようだし、また隣で物音がしたら訪ねてみよう。

 自分の部屋に戻ろうとすると、管理人さんが怪訝そうな目をこちらに向けていた。

「こ、こんにちは」

「こんにちは。元気かね?」

「あっ、はい。元気です」

「健康は大事じゃから、体調には気を付けるんじゃよ。何せ――」

 それからしばらく管理人さんの健康哲学が続いた。

 長いんだよな、これ……。

 いつものように、長話を覚悟する。

 だが急に思い出したように「そういえば」と前置きをした管理人さんは俺にとんでもないことを告げた。

「何でその部屋にピンポンしとるんじゃ?その部屋にはだれも住んでいないはずじゃが?」

「…………えっ?」

「いや、だからその部屋にはだれも住んでいないんじゃよ」

 呼吸することをナチュラルに忘れていた。

 誰も住んでいないってどういうことだ?

顔を見るが、俺の事をからかっている様子はないし、からかう理由もない。

 でも、俺は昨日……。

「お前さん、……何かのかい?」

「あ、あの……」

 動揺を隠せず、何を言っていいのか分からなくなる。

「まぁ一回、管理人室に行こう」

「は、はい――――」

 管理人さんに連れられて管理人室に行くと、熱いお茶を出してきてくれた。

パニックになった心に平穏が訪れる。

「ありがとうございます、落ち着きました」

「そうか、それは良かった」

 管理人さんはよいしょ、と俺の前に座り、自分もお茶に手を付ける。

 ふぅ~、と一服した後、管理人さんはもう一度さっきの事を尋ねてきた。

「やっぱり、何か見たんじゃな?」

「…………。」

 俺は思わず黙ってしまう。

 はぁ、と管理人さんはため息をついて話を続ける。

「実はの、君の隣の部屋には去年まで美澄ちゅう若い娘さんがすんどった。そう、君より少しだけ年上のな。だけどの……」

 そこで言葉を切る。

 管理人さんが何を言おうとしているのか分かり、思わず生唾を飲み込んだ。

「去年の十二月に亡くなったんじゃよ。交通事故じゃった」

「…………。」

「あの時は大変での、彼女のご両親が訪ねてきてその日のうちに部屋を引き払ったんじゃ。この部屋に来て哀しみを思い出したくないちゅうて……」

「…………そう、だったんですか」

「それ以来の、彼女の部屋には何人か住んだんじゃが、夜中に呻き声が聞こえたり、外で住人とは違う女性が部屋に入っていくのを見たりしての」

「…………」

「じゃから、もしかしたら、と思っての」

「…………あの、実は――――――」

 俺は昨日経験した出来事を管理人さんに全て伝えた。

 昨日の状況と共に美澄さんの美しい顔も鮮明に蘇ってくる。

「そういうことが昨日の……」

 管理人さんは驚きながら俺の話を聞き、興味深そうに耳を傾ける。俺が全てを話し終えると管理人さんは目を瞑って、うんうん、と頷いていた。

 不思議そうに見つめる俺の視線に気づいてか、管理人さんが説明してくれた。

「ああ、いやの、あの娘らしいと思っての。あの娘は困っている人がいれば助ける優しい子じゃった。わしも荷物持ちとかでよく手伝ってもらったんじゃ……」

 管理人さんは遠い目をしながら思い出に浸っているようだった。亡くなってからは化けて出る噂しか聞かなかった彼女の優しいエピソードを聞けて嬉しそうだ。

 俺も昨日助けてくれたあの人に思いを馳せる。

 管理人さんが言っている女性と昨日俺が見た女性は特徴も一致しているし、名前も一致している。

それに俺の隣は空き部屋らしいことからも、幽霊話の信憑性がぐっと高くなる。

俺自身、幽霊の存在を信じるか信じないかと言われれば懐疑的な方だが、今回の出来事はそんな俺のスタンスを軽く超越する衝撃があった。

対策を立てた方が良いのか、それとも。

俺はどうしたらいいのだろうか……。

一緒に考えてもらおうと管理人さんを見つめると、管理人さんはそのまま腕を組んで居眠りを始めていた。

……年だな。

 話が一段落したので、静かにお礼を言って俺は管理人室を後にした。

 

     ※


 そして、その夜の十時すぎ。

 管理人さんとの話も忘れてバラエティー番組をみて一人で笑っていると。

 鼻歌のような音が隣の部屋から聞こえてきた。

 誰も住んではいないはずの隣の部屋から。

「で、出たぁっ⁉」

 情けなく大声で叫んでしまう。

 怖い、怖すぎる。

 ここで急に壁をすり抜けて俺を襲ってくるとかないよな?

 嘆きの〇ートルばりの登場が目に浮かんだ。

 一気に不安で視界が揺れ、一人しかいないはずの室内で誰かに見られているような感覚に襲われる。

どうしよう、どうしよう。

動揺した俺は思い切って夕方に買ってきたシュークリームを持って、隣の部屋の扉の前に立った。

 ――もうこうなれば、俺が正体を確かめてやる。幽霊でも妖怪でも不審者でも出てこ……不審者は嫌だな、うん。

 インターホンを人差し指で思いっきり押す。ピンポーンという澄み切った音が鳴り響いているのが聞こえた。

 すると。

「はーい、ちょっと待ってくださいね~」

 という昨日も聞いた可愛い声色が返ってきた。

 く、くる!

 幽霊かもしれない人が……!

 動悸が図らずも速くなる。

 手には汗がにじみ出る。

「は~い、今行きます」

 また扉の向こうから声が聞こえ、玄関に明かりが灯った。

 扉から一、二歩下がると同時にキィ――っと扉が開く。

 そして、扉の向こうには――――。

「はーい、どちら様でしょうか?」

 昨日となんら変わらない美澄さんがエプロン姿で立っていた。

 昨日とはうって変わり、今日は何だか家庭的な感じだ。ニットのセーターの上の膨らみで色っぽさが加速している。

「あ、遠坂君。どうしたんですか?」

 急に訪ねてきておいて見とれている俺に彼女は用件を尋ねる。

「や、え、えっと。こ、これ美澄さんに買ってきたんです。昨日のお礼です。食べてくださいっ」

 ばっ、と手に持っていたシュークリームをテンパり気味に彼女に向かって突き出す。

 彼女は少し困惑気味だ。

「昨日のお礼?」

「は、はい」

「そんな気を使わなくてよかったのに、――ありがとう」

 確認してから彼女は俺に微笑み、シュークリームを受け取ってくれる。

 うっ、可愛い。

 幽霊ってこんなんなのか?

 もうちょっと表情も暗くて、人に対して怨念を抱いているようなイメージがあるけれど。彼女の表情はそんなステレオタイプ的な幽霊が全く当てはまっていなかった。

 やっぱり人間じゃ?

 住んでいないというのは、何かの手違いで管理人さんに連絡が行き届いていなかっただけだと推測すると、ある程度合点がいくし、自然だ。

 彼女に対する警戒心も薄れ始める。

 すると、突然。

「もし良かったら、今から部屋に来ないですか?あなたともっと話して見たくて」

 美澄さんは豊かな胸に手を当てながら、いきなり俺を部屋に呼んでくれた。

「ぜ、ぜひっ、お邪魔します!」

 いきなりのお呼ばれに驚いたものの、条件反射というべき速さで彼女の問いかけに応じる。

 俺の即答を見て、美澄さんはくすっと笑った。

「それでは、どうぞ入ってください」

 昨日も女性の部屋に入ることに緊張したが、今回はその比ではない。用事もなしに普通にこの部屋に来ていることに鼓動も高まる。

 テーブルに座るように促され、座って彼女がキッチンからくるのを待った。すぐに彼女は、こんなものしか出せないけど……、と俺にお茶を出してくれる。

「ありがとうございます!」

「こんなものでごめんなさい」

 ハの字になった眉をして笑顔を見せてくれる。

 俺と向かい合うように美澄さんは俺の前の椅子に座り、俺がお茶を飲んでいる姿を愛おしそうに眺めていた。

 まるで実家で母に見られているような錯覚を覚える。

 さすがにずっと見られるのは耐えられない……。

「あ、あのっ、美澄さんもシュークリーム食べてください!俺だけお茶飲んでてもなんか悪いですし……」

「ふふっ、ありがとう、遠坂君。じゃあ、お言葉に甘えてシュークリーム出してこようかな」

 そういうと美澄さんはキッチンへ行き、俺が渡したシュークリームを皿に移してこちらに持ってきた。

 やっぱり足もあるんだよな。

 ロングスカートからチラチラ見える足を確認し、改めてこの人が幽霊ではなく人間であるというのを強く感じる。いただきまーす、とシュークリームを頬張る彼女を眺めつつ、やはり管理人さんの勘違いで俺はこの人を幽霊と思ってしまっていたんだろうなー、と思った。

 今までのは妄想であったことを再認識し、勝手に一人でビビっていた自分を馬鹿らしく感じる。

 緊張の糸が切れ、力が抜けた俺は「はぁ~~~~」と盛大に安堵のため息をついた。

「っん、どうしました?」

 少しクリームを鼻につけながらシュークリームを頬張っていた美澄さんは(か、可愛いっ)、俺のため息を聞きつけ食べるのをやめてこちらに視線を移した。

「えっ、あっ、いやっ、変な勘違いをしてたなって」

「勘違い?それも変なのって、どんなのですか」

「えっ、いやっ、その……」

思わず、「しまった」と思った。

さすがに本人の前で「あなたが幽霊だと思ってました」みたいな馬鹿げたことは言えない。ここは、誤魔化すしか……。

どう言おうか悩んでいると、「何を、勘違いしてたんですかっ?」と食い気味に美澄さんが身を乗り出してきた。……目の前に豊かな双丘が迫り、こちらも仰け反ってしまう。

甘いもの好きなのか、シュークリームを食べ始めてからご機嫌そうな美澄さんは「お姉さんに隠し事ですか~?」と笑顔で詰め寄ってくる。鼻にクリームついてますよっ!

「えっと、そのっ、だからっ……」

「早く言ってください」

答えに窮している俺に、身を乗り出して詰め寄ってくる美澄さんの物理的圧迫感がより考えを攪乱させる。

そして。

「…………美澄さんが幽霊なんじゃないか、っていう勘違いです」

 言っちまった……。

 一番非科学的で子どもっぽい答えを美澄さんに言ってしまった。

 これを言った瞬間、虚を突かれたのか、一瞬だけだが美澄さんは口をぽかんとして笑顔でいることさえ忘れてしまっていた。

 美澄さんとはこれからも仲良くしたいと思っていたのに。

こんな事を口走ってしまったことで、変わり者と思われて遠ざけられるかもしれない。次会った時によそよそしい態度を取られるかもしれない。

 これは、盛大にミスってしまった。

今からでもなんとかならないだろうか。

「い、今のはっ、じょ、じょうだ……」

「あははははっ!」

 必死に言い訳をしようとした瞬間、彼女は屈託のない笑顔で笑った。

 結構ツボに入ったのか、口に手を当てて「はははははっ!」と笑い続けている。

 良かった……、冗談だと思ってくれてる。

「い、いや……っ、まさかっ、まさか、ねっ」

 彼女は未だ笑っている。

 そこまでウケるとは。そんなに面白かったのだろうか?

 だがそこで、ひとしきり笑い終えたと言わんばかりに指で目元の涙を拭って呼吸を安定させようと空気を取り込む。それでも「はぁ…はは…はぁ……」と息が荒れている所をみるとまだ笑い足りなそうだ。

 その後、やっと息も落ち着いてきたところで、美澄さんはさっきの言葉の続きを紡いだ。

「まさかっ、まさかっ――――――――こんなに早く気付くなんてね」

 えっ?

 い、今、何て言った?

 早く気付いた、とはどういうことだろうか。俺の聞き間違いだろうか。

「美澄さん、何を言って――」

 美澄さんは笑顔だ。

いつも通りの優しい笑顔だ。

だがそこに、包み込んでるくれるような温かさとかが感じられなかった。まるで、そこに笑顔の仮面が張り付いているように――――無機質な笑顔だった。

「もう気づいてしまったんですね、私の正体に。本当はもう少し楽しんでから、と思ってましたが、仕方ありません」

 美澄さんは先ほどまでの口調とは似ているけれどまったく違う口調で、俺に話しかけてきた。静かなのに、威圧感を感じて動けない。

 や、ヤバい、これは本当にヤバイ………!

彼女の手が伸びてきて俺の頬に触れようとする。触れようとしているその手は半分透けて下のテーブルの木目が浮かび上がっており、彼女が正真正銘の幽霊であることを証明していた。

 今から何をされてしまうんだ?

消されてしまうのか?

俺も幽霊にされてしまうのか⁉

まだやりたいことも夢もいっぱいあるのに、そんなの嫌だ!

何かないのか、何か!体をじたばたさせるが、金縛りにあったように体が動かない。

抵抗も空しく、彼女の指が俺の頬に触れた。

父さん、母さんッッ、助けてッッ‼‼

恐怖で頭がいっぱいだ。

現実から少しでも逃げるために思いっきり目を閉じる。

――だが。

「ぶぐぅっ⁉」

 頬を温かく繊細な両手で挟まれた後に意識が飛ぶような感じもなく、ただ頬を挟まれているだけの時間が続いたので、恐る恐る目を開ける。

「やっと開けましたか」

「えっ?」

 目の前には、慈愛に満ちた優しい瞳の美澄さんがいた。さっきまでの恐ろしい雰囲気も纏っていない。

「ど、どういうことですか、美澄さんっ。あと、ほっぺから手を放してくださいっ!」

そう俺が抵抗すると、素直に手が頬から離れていく。……幽霊も体温あるんだな。

何が起きているか分からない俺をよそに、彼女は悪戯っぽく笑った。

「驚きましたか、私の演技。これでも私、生前は演劇サークルに入ってたんですよ?」

「み、美澄さん?」

「一回悪霊っぽいことをして見たかっただけですっ。本当はもっと親しくなってからカミングアウトしようと思ってたんですけど……。あなたの言った通り、私は幽霊です。……事故に遭って、気づいたら幽霊になってました。そのまま生前住んでいたアパートに戻ったんですけど、すぐに引き払われちゃって。でも仕方なくずっとここにいたんです」

 彼女の話は続く。

「その後、幽霊って見える人には見えるじゃないですか?なので、人に見られるようになってコミュニケーションを取りたいな~と思ったんです。それで、ものを持ったりとか明瞭に見えるような練習をしたりして、やっとここまでできるようになったんですよ。まぁでも、姿を見せられるのは夜限定で人も限られちゃってますけど」

 ……ちょっと何を言っているのか、分からない。

 頭の中にはてなマークがいくつも浮かび上がる。

 だが不思議と恐怖感はなかった。

「うーん、やっぱり混乱しますよね。逃げられないだけでも嬉しいですけど……。まぁ、私は幽霊なんです」

「……足ありますよね?」

「幽霊でも足はありますよ?」

「怪奇現象を管理人さんから色々聞いたんですが」

「あー、多分私の練習ですね……。驚かせて何人も退去させてしまいました……」

 美澄さんがシュンとする。

 あー、話が繋がる。繋がってしまう。

そういうことか。

 ここで気になっていたことを尋ねてみる。

「何で昨日俺を助けてくれたんですか?」

「だって、困ってたじゃないですか」

 困ってたからって。

 幽霊ってそんなフランクに現れていいものなのか。

今日も普通に部屋からも出てきたし。

確かに人を助ける優しい人(?)だけど。

「あ、あの、これからもここにいるんですか?」

「……ここが好きなので居たいんですけど、いわく付き物件としてずっと迷惑をかけるわけにもいかないですし。……そろそろ出て行かなきゃ、って思ってたんです」

 美澄さんは少し寂しそうに、そう呟いた。

「そう、ですか……」

 また会えると思っていただけに、気分が重くなる。

 美澄さんも空気を察してか、言葉に窮してしまう。

「え、えっと、じゃあこの辺にしますか……」

 お開きにしようとする美澄さん。

すると彼女の体がだんだん空気に溶けていった。

 シュークリームありがとう、と消えていく彼女を見て咄嗟に自分に問いかける。

 このままお別れでいいのか?

 本当にいいのか?

 いいのか、俺!

「美澄さんっ!」

「は、はいっ⁉」

 俺の急な呼びかけに透明化が一時止まる。

「美澄さんはどこか迷惑がかからない所に行くんですよね?」

「……え、ええ、そうですけど」

「あてはあるんですか?」

「い、いや、今のところはまだ……」

「それじゃあ、……俺の部屋に来ませんかっ‼‼」

「えっ?……え、えええええっっっ⁉」

「俺は迷惑じゃないんで、来ませんかっ‼」

「あのっ、そのっ、ええええぇぇっっ⁉」

 俺は唐突にアタックした。

一瞬ポカンとしていた彼女もすぐにこの状況を理解して。

顔を真っ赤にし、慌てふためき始める。

「わ、私、幽霊なんですよっ?」

「分かってます!」

「な、ならっ…………」

「俺は、気にしないです!………もしかして嫌、ですか……?」

「い、嫌ではっ、ないですけどっ……」

「じゃあ、来てくださいっ‼」

 ダンッ、机に手を突いて再度告白した。

頬が最高潮に熱い。

 でもここで別れてしまえば、一生美澄さんとは会えなくなってしまう。

 恥ずかしさより、会えなくなる方が嫌だった。

 知り合ってまだ一日しか経っていないけれど。

 彼女とずっといたい、そう思ってしまった。

「私、年上ですよ、うるさいですよ、それでもいいんですか?」

「全然構いません!」

「落ち着かないかもしれませんよ?」

「騒がしい方が好きです!」

「えっとそれから、それからっ……………………うぅ」

 どうやら、口実が無くなってきたようだ。

 美澄さんはあたふたしつつ顔をパタパタ仰ぐ。

「部屋は好きに使っていいですから!」

 相手からの反論がないうちに話を進めようとするが。

「やっぱ……嫌ですか?」

「…………って」

「嫌、なんですね……?」

「だ、だから……っ!」

 彼女の煮え切らない態度に戸惑ってしまう。

本当に嫌だと思っていたら、さすがに無理強いは出来ないよな。

「本当に嫌なら……」

俺が言いかけると美澄さんはいつになく大きな声で「私の話を聞いてくださいっ!」と叫んだ。

 彼女のその反応に面食らってしまう。

「だ、だから……だからっ…………嫌じゃないってさっき言ったじゃないですかっ!」

 何で分からないのっ、とでもいうように美澄さんは上目遣いで俺を見つめ、唇を尖らせて反論した。

 そんな彼女を。

俺は息をするように見つめてしまう。

 それに気づいてか、美澄さんは我に返って恥ずかしそうに俯きながらも。

「わ、私、告白とかされたことなかったから……混乱しちゃって…………あ、あの……よろしくお願いします……っ」

 緊張で震えた声で俺の告白を受け入れてくれた。

 その顔は、ひとえに美しくて。

 何物にも喩えがたい尊さをたたえていて。

 彼女がこの世のものではないということを一番納得することが出来た。

 

     ※


 次の日の朝。

 テーブルには、みそ汁と卵焼きが作り置きされていた。

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かみんぐあうとっ! 春野 土筆 @tsu-ku-shi

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