第5話 迷い猫をプロデュース⑤ お風呂を借りよう

 *



「ダメダメダメーッ! お風呂に入るなんて私聞いてない!」


 瑠依は力の限り叫んだ。

 家……屋敷中に轟くほど大きな声だった。


「あなたね。いい加減になさい。これ以上わがままを言わないで。人様の家に来たら身ぎれいにする。当然でしょ?」


 ここはフォマルハウト家のバスルーム。

 可憐な少女二人が今から入浴をするようだ。


 一人は黒髪でくせっ毛。

 ろくにかしたこともなさそうな枝毛だらけの頭。


 小柄で痩せていて、肩なんかも震わせて、自信のなさが全身からみなぎっている。つまりは瑠依だった。


 もう一人は可憐な少女。

 年の頃は小学生……10歳くらいだろうか。

 瑠依とは対照的に、ツヤツヤな黒髪が印象的な、子供なのに綺麗という言葉がピッタリな美少女だった。


「じゃあ髪だけは洗わない! 水にも濡らさない! 絶対絶対ダメなんだから!」


「そのうっすらホコリ・・・を纏っている髪が一番不潔だというのに。むしろその髪には何か秘密が? ――お見せなさい!」


「ぎゃあああああ!」



 *



 30分ほど前、タケオの家――フォマルハウトの屋敷へとやってきた瑠依は、その内装の豪華さにポカンと口を開け、呆けた顔をした。


 玄関を開けたら大きなロビーがあった。

 天井が高い。首が痛くなるほどだ。

 目の前には二階へ続く階段。

 壁際には額縁に入った絵画。

 おとぎ話のお城みたい、と瑠依は思った。


「何突っ立ってんだ。こっちだ。来い」


「ちょちょちょ、ここ本当にタケオくんの家!? もももも、もしかして超大金持ちなの!?」


「俺じゃない。親が金持ちなだけだ。というかこんくらいでビビるな」


 それは無理な話だった。

 瑠依が祖母と暮らしていた家は築何十年の木造平屋建てで、毎年冬になると「隙間風が寒いねえ」と祖母が言うので、瑠依が頑張って補修に補修を重ねていた家だった。


 叔母に引き取られてからはお察し。

 そもそも人間が寝起きするような場所ではない……。


「すすすす、凄い綺麗! こ、ここがタケオくんのお部屋!?」


 通されたのは、ロビーよりもさらに豪華な部屋だった。

 天井がすり鉢状にすぼまっており、渡された梁の隙間から煌々と灯りが降ってくる。


 大きなテーブルの上には、まるで今摘んできたばかりのような、瑞々しい果実が盛られた皿があり、部屋の隅には壁のような大きな薄型テレビがあった。


「お前な、いくら俺でもいきなり女の子を自分の部屋に連れ込むかよ。普通に考えてリビングだろ」


「りびんぐ……?」


「居間、あるいは茶の間だよ」


「ああ」


 瑠依の知る居間とは似ても似つかないので気づかなかった。

 タケオは瑠依の落書きだらけの鞄をテーブルの上に放り投げると、「茶でも淹れてやる」と言ってキッチンの方へと向かう。と――


「タケオくん?」


 ジリっと、タケオが後ずさりして戻ってきていた。

 どうしたんだろう、と思い、タケオの背中越しにキッチンを覗き見る。

 すると――


「ヒッ!」


 瑠依は小さく悲鳴を上げた。

 そこには小学生くらいの女の子が立っていた。

 その手には鋭い包丁が握られていた。


「お兄様、おかえりなさいませ……」


「お、おう、ただいま愛理あいり。来てたんだな……」


 愛理と呼ばれた少女は、プランと脱力した手――包丁を握っている――をスーッと胸元まで持ち上げると、ガシっと両手で握りしめ、「ふんぬ!」と突進してきた。


「うおおおおッ!」


 タケオは素晴らしい反射神経で愛理の両肩に手を置き、突進を受け止める。

 瑠依は唖然としながら、兄妹? のやりとりを見つめていた。


「どういうことですかお兄様! その女はどこの誰なのです!? 私というものがありながら、私達の愛の巣に、見ず知らずの野良猫を招き入れるなど……!」


「ま、待て待て! これには深い事情があるんだよ! ってか愛の巣ってなんだ!?」


「私とお兄様が毎夜愛を育む寝屋のことです!」


 瑠依は内心で「きゃーっ!」と叫んでいた。

 兄と妹の禁じられた恋! ドロドロしてるけど嫌いじゃないわ!


 と、そこまで考えたところで瑠依は正気を取り戻す。

 いけない。つまり知らない女とは自分のことで、妹さんを誤解させてしまった?


「ままま、待ってください! わ、私はその、タケオくんとはそういう関係者ありませんー!」


 この子すごく怖いけどがんばる。

 瑠依は身振り手振りで刃傷沙汰に及びそうになっている兄妹の間に割って入った。


 言われた愛理は「もう既に名前を呼び合う仲に!? キーッ!」と爆発しかけたが、改めて瑠依をマジマジと見つめ、ポロっと包丁を取り落す。


「うおお、危なッ!」


 カツーン、とタケオの足元に包丁が突き刺さる。

 愛理は瑠依のつま先から頭の天辺までを観察し「ほっ」と安堵の息をついた。


「ご無礼の程を平にご容赦ください。私少々勘違いをしていたようです」


「え、あ、はい……」


 突然物分りが良くなった愛理に、瑠依もまた居住まいを正してかしこまる。

 よかった。きちんと話せばわかってくれるヒトだった……。


「私から愛しいお兄様を奪う泥棒猫の類かと思いましたが、野良猫……いえ、捨て猫の類でしたか。お兄様のいつもの病気の発作のようで安心いたしました」


 愛理は「ほほ」っと少女らしからぬ雅さで笑った。

 言われている瑠依はまるで意味がわからず「え、タケオくん病気なの?」と首を傾げる。


「うちのお兄様は先天的な宿痾しゅくあに侵されています。心から困っているものを放っておけず、世話を焼いてしまうという一種の病気なのです。あなたのその見窄らしい有様から察しますに、家や学校で虐待やイジメを受けているのでしょう?」


 ドキっと瑠依の心臓が跳ね上がった。

 その有様こそが何よりの肯定だとでも言うように、愛理はニヤっと笑う。


「ならばあなたは拾われてきた猫も同じ。恋のライバルになどなり得ません」


「な、なるほど……」


 瑠依はあっさり納得してしまった。

 そう、自分はタケオに救われただけ。

 恋を語る資格などあるはずがないのだ。


「はあ、まあなんだ、そのとおりだ……」


 タケオはフローリングに突き刺さった包丁を引っこ抜き、キッチンのスタンドに戻す。そうしてから「てか病気ってなんだよ。失礼すぎだろ」と抗議した。


「あとな愛理。来るなら来るで連絡をくれ。一応ここは俺の家だぞ」


「私にやましいことがないのなら、突然の来訪でも問題ないでしょう。それとも部屋のベッドの下などに、何か見られたら困るようなものがあるのですか?」


「あるわけないだろ、そんなもん」


「本当に?」


「ないない」


「ではクローゼットの方ですか?」


「はあッ!? ち、ちげーし! なんもねーから!」


「わかりやすいですねー」


 会話の内容はともかく、兄妹って仲がいいんだなあ、と一人っ子の瑠依は二人が羨ましくなった。と――


「まあ、今日はちょうどよかったよ。そいつの世話、頼めるか?」


「……ええ、そうですね。準備して参ります」


 そう言って愛理はリビングを出ていく。

 二人きりになった途端、瑠依は「は〜」っと息を吐き出した。

 

「ビックリしたぁ。タケオくん、妹さんいたんだね」


「ああ、まあ、腹違いではあるがな」


「え?」


 瑠依はギョッとしてタケオを見る。

 タケオはケトルにお湯を入れ、IHコンロの上に置いた。


「本当の妹さんじゃないの?」


「いや、父親は同じ。母親が違うだけ」


「そ、そうなんだ……」


 だからさっきタケオは、来るなら連絡をしろ、とか、俺の家だぞ、という言い方をしたのか。


「ちなみにさっきも言ったが、俺の母親はもう死んでる……らしい」


「らしい?」


「記憶がないんだ。俺ごと事故に巻き込まれたらしくて。母親はそのときに死んだんだと」


「…………」


 瑠依は顔を伏せた。

 それはタケオに同情したのもあるが、自分が恥ずかしかったからだ。


 瑠依は先程まで自分が一番不幸だと思っていた。

 祖母が死んで、引き取られた叔母に冷遇され、学校でイジメられる……。


 でも世の中にはもっと辛い想いを引きずっているヒトもいる。

 タケオもそんな一人なのに、瑠依を助けてくれた。

 なんて凄いヒトだろう、と瑠依は思った。


「お兄様、準備が整いました」


 リビングに再び愛理が現れる。

 その手には、折りたたまれたバスタオルとフェイスタオルを二組ずつ持っていた。


「ああ、ありがとう。じゃ、行って来い」


「え、行くってどこに?」


 瑠依に答えたのは愛理だった。


「何って湯浴みです。あなたのその汚い格好をどうにかしませんとね」


「え……えっ!?」


 瑠依の顔からさあああ、っと血の気が引いた。

 そして冒頭のやりとりへと続くのだった。

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