第2話 迷い猫をプロデュース② 魔が差して

 *



「おい、そのままだ。俺を見ろ。間違っても下を見るな。いいか、ゆっくり、ゆっくりと振り返るんだ。体ごとこっちに――」


 このヒトはなにを言ってるんだろう。

 瑠依は少年の言葉に首を傾げた。


 その途端に僅かながら体重が移動し、トトっと、バランスを取るためにその場で足踏みをする。


「ひゅッ――」と、背後の少年から変な声が聞こえた。

 だが気がつけばフェンスの金網の隙間から彼の手が伸びていて、ガシっとかなりの力で制服の肩部分を掴まれていた。


「はッ、はッ、はッ――……ふー、いいか、落ち着け、落ち着けよ?」


「それは、あなただと思うの。ゆっくり深呼吸した方がいいと思う……」


「おまえ――」


 少年の瞳、厚い眼鏡のレンズ越しに、綺麗な切れ長の瞳がスウっと細められる。

 あれ、このヒト……日本人じゃない? よく見れば、目の色が少し赤いような……。


 その時、一際強い風が吹いた。

 校舎の壁に叩きつけられた風は、上昇気流となって瑠依の足元から空へと抜けていった。それはつまり――


「ひッ――」


「あっ」


 瑠依の、制服のスカートが完全に捲れ上がっていた。

 細い脚。貧相な太もも。そして彼女の大切な部分を守る下着……そのお尻の部分。

 全てが全て、背後の少年に丸見えになっていた。


「きゃーッ!」


「バカ、今叫んだら――」


 慌ててその場を飛び退き、スカートを抑えようと思った瑠依だったが、少年の手が万力のように彼女の服を掴み、絶対に離さない。


 羞恥から早く服装を整えたい瑠依は、その場で藻掻いた。

 藻掻いた途端――


「え――?」


 あるはずのものがなかった。

 右足が空を踏む。カクン、と左膝から力が抜けた。


「きゃーッ、なんで、どうしてッ!? なんで私、こんなとこに立ってるの――!」


「ようやく気づいたのかよ!」


 まさに今、瑠依を支えているのは少年の右腕一本だった。

 ギリギリと、掴まれた制服が悲鳴を上げている。


 瑠依は唯一床に接地した左足に力を込めようとするも、何故か上手くいかない。

 完全にバランスを崩して前のめりに――そのままズリ落ちそうになっていた。


「嫌、やだ、し、死にたくない……!」


 先程まで、瑠依は幸せな夢を見ていた。

 死んだはずの祖母に会いに行く夢だ。


 でもそれを叶えるためには、今この場から飛び降りなければならない。

 天国にいる祖母に会うためには、今ある生命を捨てる必要がある。


 それはやっぱり嫌だった。

 死んだ祖母に会いたい気持ちは本物でも、残りの人生を諦めるには、瑠依はまだ若く、幼すぎた。


「大丈夫だ……俺はこの手を離さないし、絶対に助けるから――」


 ポタ、っと足元に何かが落ちた。

 それは真っ赤な血だった。

 背後を見やれば、少年の腕から夥しい血が流れている。


 瑠依を支えるために、より深く、少年は金網の間に腕を差し入れていた。

 風雨に晒された金網は、所々が錆び、赤茶けてささくれている。

 ただでさえ小さな隙間に無理やり腕を突っ込めば、皮膚が傷つき、裂けるのは当然の結果だった。


「おおッ!」


 少年が残る左手も差し出す。

 瑠依を掴むため、金網の間に無理くりねじ込む。

 針のように尖った部位があったのだろう、手首の辺りから肘まで一直線に傷が走る。


「よし掴んだぞ。いいか、まずはそのプラプラしてる右足を床に乗せろ。そしたら俺が引っ張るから、まずその場にゆっくりとしゃがみこめ。いいな?」


「う、うん……!」


 ポロポロと涙を流しながら、瑠依は頷いた。

 少年の右手が瑠依の肩を掴み、左手がスカートの腰の部分を掴む。


 凄い、と瑠依は思った。

 本来なら、自分の体重など綿毛みたいなものなのでは――そう思わせるほど、少年は力強く瑠依をホールドしている。


「くッ――」


 苦悶の声が漏れる。

 少年の出血はかなりのものになっていた。


 力めば力むほど、少年の腕は固く、大きく膨らみ、小さな金網の隙間は、そんな彼の腕をギチギチと締め上げている。


「ご、ごめんなさい、私、どうかしてた……なんでこんな馬鹿なこと――」


「全くだ。お前、こっち来たら覚えてろよ……!」


「ひええ……!」


 少年が食いしばった口から怨嗟を吐いた。

 怖い。でも仕方ない。本当に馬鹿なことをして迷惑をかけているのだから。


「こ、のぉ……!」


 瑠依の身体が引っ張られる。

 ガシャン、とフェンスに背中がくっつく。


 右手が解放され、瑠依はゆっくりその場にしゃがみ込む。

 左手が解放される。瑠依は床にへたり込んだ。


「はああ……た、助かった……!」


「助かったじゃねえよ。お前よくも……痛っ」


 少年の腕は酷い有様だった。

 腕には無数の裂創ができている。

 だというのに少年は、捲くっていた袖をおろし、傷を隠してしまった。


「ダメだよ、ちゃんと洗って消毒しないと――」


「そんなことよりお前、さっさとこっちに来い。一発殴ってやる」


「ひッ――」


 いや、殴られて当然だ。

 なにせ少年は命の恩人。

 瑠依はただの大馬鹿者なのだから。


「あ、あのね、その……」


「何だ、まさか本当に飛び降りたいのか。死にたくはないんだろう」


「それは、そうなんだけど……えへへ」


 瑠依は力なく笑った。

 あまりに自分が情けなくて、笑うしかなかった。


「腰が抜けて、立てない。そっちに戻れないぃ……!」


 びゅうううう、と風がますます強く吹き付け、瑠依はその怪物の咆哮にも似た風音に怯え、フェンスにしがみつくことしかできなかった。


「あそ。じゃあな」


「ごめんなさいぃぃ! 助けてぇ! 見捨てないでぇ!」


 その後少年は、何だかんだと悪態をつきながらも、わざわざフェンスを乗り越えて、瑠依をおんぶして助けてくれるのだった。

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