闇の夜の片隅にて

樹 星亜

第1話

「こんなところにいたのか」

 深夜。

 眠らぬ街と評される大都市の片隅で、男は安堵とも苛立ちとも取れるため息を吐いた。

 漆黒の闇に輝くような銀の髪がさらりと揺れ、鋭い瞳がすうっと細められる。

 その厳しい視線の先にいるのは幼い少女だ。

 年の頃は、そう――十歳前後だろうか。

 柔らかにカールした栗色の長い髪と、ふわふわとしたフリルのワンピースが、いかにも良家の子女といった雰囲気で周囲を華やかに彩っている。

「このお姫さまは……まったく」

 しかし、男は薄い唇を歪めて周囲を見やると、軽く頭を振った。

 そこは――そう、少なくとも彼女のような少女がいるべき場所ではなかった。

 漆黒の闇にぼんやりと薄暗いランプがともる路地裏。生ゴミと血と硝煙と麻薬の臭気が女達の振りまく強い香気に混じり合い、人とも動物とも区別の付かない唸り声のようなものが微かに聞こえてくる。

 ほんの数分立っているだけでも強烈な吐き気を催しそうな、そんな場所で、少女はあろうことか酒を飲んでいた。

「……帰らないから、あたし」

 少女を連れ戻そうと男が一歩足を踏み出した瞬間、こちらを振り向く様子も見せなかった少女が突然そう言った。

 しかし男はそれに驚く風でもなく、ただ責めるように眉をひそめる。

「叱られるぞ」

「いいわよ。別に、帰るつもりないんだから関係ないでしょ」

 常人ならば匂いを嗅いだだけでも気絶するという酒を一息にあおって、少女は平然と言い放つ。

 その足下に同じ銘柄の空きボトルが数本転がっているのを見た男は、今度こそはっきりそれとわかるほど盛大なため息を吐いた。

「それだけ飲めば気も済んだだろう。帰るぞ」

「いや! 今度だけは、絶対にいや!」

 その瞬間、少女の身からほんの一瞬、灼熱のオーラが――比喩ではなく――立ち上った。

「なんで平気な顔してるの? 今回の依頼の内容、聞いたでしょ? どんな偉い人の依頼だか知らないけど、いくら大勢の人の命がかかってるからって、あんな中年の変態おやじなんかと一晩過ごせなんて、冗談じゃないわよ!」

「別に問題はないだろう? たかだか人間の一人や二人、お前のその力なら――」

「いやよ! 絶対にいや!」

 頑なに拒否し続ける少女の身体が、よく見ると小刻みに震えている。

 男は小さく息を吐き、少女の顔を覗くようにしゃがみ込んだ。

「どうした? 『紅蓮のエリザ』が、一体なにをそんなに怖がっている?」

 灼熱の炎を自在に操り、千人の男を一瞬で魅了すると恐れられる魔女の血を正統に受け継ぐ少女は、男の優しげな声に、殺人狂を目前にしてさえ見せないような、心細そうな表情を浮かべる。

「……だって。だって、失敗したらどうするの? 今までみたいに簡単に忍び込めるような場所じゃないのよ? 警備も厳重だし、元の姿に戻っている間は、他の術だって使えないのに……」

 伝説の魔女をも凌ぐと謳われた美しい魔の姫が、神によって現在の姿に変えられたのは数百年も前のこと。

 以来、ある一定の条件下で多大な魔力を費やすことでしか本来の姿と能力を取り戻せなくなった少女は、自らに影のように付き従う男を見つめた。

「おばあさまは確かにたくさんの人を虜にしてきたけど、だからってあたしにもそれが出来るって保証はどこにもないのよ? 封印される前にだって使ったことなんかなかったのに、どうしてあたしがやらなきゃいけないの? 今までだって、他の姉さまたちがやってきたじゃない」

「それは――あの方がお前を次期当主にと定めたからだろう?」

「そんなの頼んでないわ!」

 きっと男を睨み、少女は唇をかみしめる。

「当主なんて、姉さま達の誰かがやればいいじゃない! あたしは当主になりたいなんて一度だって頼んだことないわ!」

「エリザ。あの方は――」

「なによ! あの方、あの方、って、おばあさまのことばっかり! どうせセディはあたしなんかどうなったって良いんでしょ! セディの本当の主はおばあさまだもの、あたしがどこの男に好きにされようが関係ないわよね!」

 その瞬間、男の右手が振り上げられた。

 少女は咄嗟に身を竦める。

 ――しかし、その手は少女の柔らかな髪を優しく梳いただけだった。

「セディ……?」

「お前は勘違いしている」

 男は、他の人間には決して見せることのない優しい微笑みを浮かべ、少女をそっと抱き寄せた。

「あの方が何故、満月の夜を選んだと思っている?」

「そ、それは――満月の夜が一番、封印を解きやすいから……」

「それだけだと思うか?」

「……え?」

 不思議そうに呟いて腕の中で顔を上げた少女の額に、男はそっと口づける。

「満月の夜に解けるのは――お前の封印だけか?」

「……!」

 あっ、と小さく少女が声を上げた。

 それを聞き取って、男は少女の目をまっすぐに見つめる。

「――殺してやるさ」

「! セ――」

「たとえ依頼がどうなろうと構わん。お前に指一本でも触れようとするヤツがいるなら、俺がそいつを殺してやる」

 その声は人の言葉を話しながら、けれど人間のものとは違う闇を秘めていた。

 その瞳が紅と蒼に染まる。

「誓ったろう? あの日、お前が自らの力と引き換えに神の手から俺を救い出してくれた、その時に。俺をこの地に呼び出した、あの方ではなく。俺は、お前だけを護ると。そう、誓ったろう?」

「セディ……」

「もし、あの方が満月の夜を選ばなかったなら、何があっても阻止したさ。平気なわけがないだろう、お前を――どんな相手でも、別の男に差し出すような真似など。だが、満月の夜なら、俺の封印が解けるその日なら。お前は俺が必ず護る。――神獣の名にかけて」

 かつて、ここではない別のどこかから、伝説と謳われし魔女によって呼び出されたその獣は、光り輝く金色の体躯をやがて恋わずらう娘が棲む世界同様に漆黒の闇へと堕とし、それを嘆いた神の手によってその姿を変えられたと言う。

 少女と同じように満月の夜にだけ本来の姿と能力を取り戻すことが出来る男は、そう言って再び少女に口づけた。

 獣であった頃に恋こがれた娘が少女となり、自らが人の姿へと成り果てた後にやっと手に入れた、神も世界も自らの姿さえ棄てさせるほどに愛しい恋人に。

「ん……でも、そうしたら」

 飽きることなく繰り返される口づけの合間に、少女は何とか言葉を紡ぐ。

「せっかく私が元の姿に戻れるのに、依頼で夜が終わっちゃうのよ……?」

 それでもいいの、と続くはずだった少女の言葉をその吐息ごと再び吸い取って、男はにやりと笑った。

「――ヤツを虜に出来さえすれば、あとは俺たちだけの時間だろう?」

「……え」

「たまには使い慣れた部屋とは別の場所もいいと思うぞ?」

 そう言うが早いか少女を抱え上げ、ふわり、と空高く舞い上がった男が向かうのは、彼らの棲む城――人々からは隠された闇の世界。

 そして人の姿が消えたその場所に唯一残されたのは、少女の小さな苦笑ひとつ――。




 数日後。

 某国で無血革命が成功した。

 民衆の意志を受け容れようとしていた王の意向に逆らい、徹底的な武力鎮圧を行うと見られていた軍部の最高司令官が、不思議なことに一切の抵抗を見せず、まるで何かに操られるように無条件降伏したため、その革命はささやかな混乱さえ招かず、世界でも類を見ない静かな革命となった。


 世界中の人々が噂する。

 この世界には、小さくて大きな『護り手』が存在するのだと。

 決して光を浴びることのない彼らは、いまこの時にも、ちいさく蠢く闇の中で息をひそめ、世界の行く末を見守っている――。

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