第2話 森の泉
――ここは、とある国の聖域にほど近い「クレアフィールドの森」。
桜華、月夜、陽南海の三人は、この森へ果実をもぎに来た帰り、周囲を背の高い茂みに囲まれた小さな泉に立ち寄っていた。
「きゃあっ!」
「ちょっと、陽南海!やめなさいよ・・・冷たい!」
「なに言ってんの、水浴びでしょ!――きゃははっ!」
「や……陽南海ちゃん、やめ――きゃっ!」
「月夜!」
陽南海の攻撃から逃れようと身をそらした月夜は、体のバランスを崩し、そのまま泉に倒れ込む。
「お、お姉ちゃん!」
慌てて二人が駆け寄ると、月夜は水底に座り込んだまま、ゆっくりと上半身を起こした。
「けほけほっ……びっくりしたぁ・・もう!陽南海ちゃんたら。だからやめてって言ったのに」
「ご、ごめんなさい……」
「ちょっと、大丈夫なの?月夜」
「うん。でも……ずぶ濡れになっちゃったね」
月夜は濡れてぴったりと体に張り付く白いブラウスを指でつまみながら言う。
「まったく、水浴びだなんて。暑いから足を冷やすだけだ、って言ったでしょ、陽南海」
「だってぇ……」
既に全身ずぶ濡れになっている陽南海が口をとがらせる。
桜華はフッと肩をすくめた。
「……仕方ないわね。これだけ濡れちゃったんだから、いっそのこと本当に水浴びしていきましょうか」
「え!やったあ!」
陽南海が大喜びで服を脱ぎ出す。――実を言うと、さっきから服が水を吸って、重くて仕方なかったのだ。
「こら!ここで脱いでどうすんの!ちゃんとどこか日当たりのいい枝にかけておきなさい。あがる頃には乾いてるだろうから」
「はあい」
無邪気にそう言うと、陽南海は手早く服を脱ぎ、桜華と月夜の分も受け取って泉のほとりに駆けていく。
桜華はあきれながら肩をすくめた。
「まったく、あの子は……」
くすくすと月夜が笑う。
「いいじゃない、お姉ちゃん。陽南海ちゃんが明るいおかげで、みんなずいぶん救われてるんだから」
「その分こっちの気苦労も耐えないけどね」
そう言って、桜華は水辺でぶんぶんと手を振る陽南海に手を挙げた。
「早くいらっしゃい、陽南海!」
「うん!今行く!」
ガサガサッ。
森の木の葉が音を立てる。
草の影から三姉妹をのぞく瞳が二つ――キッドである。
「ちぇっ。何だよ、あいつら気楽そうに……こっちは、いつ危険な目に遭うかとヒヤヒヤしながら見張ってんのに……」
せっかく気持ちよくうたた寝していたところをたたき起こされ、キッドはどうやらご機嫌が斜めのようだ。
その上、どこを探しても聖の姿は見えず、彼はどうにも暇を持て余していた。
「聖、どこ行ったんだろうなぁ……後でもう一回勝負してくれるって約束したのに……」
そう言って、彼はもう既に五~六時間近くトランプゲームの相手をさせている。
「あ。もしかしたらあいつら、聖にだけ仕事させて自分たちは遊んでんじゃ……きっとそうだ。聖の奴、人がいいからな――よし。オレが代わりに少しこらしめてやる」
聖はキッドがうたた寝を始めるとすぐに、トランプ疲れから、何も食べず何も喋らずにベッドに倒れ込んでいた。
実際、代わりに仕事をさせられているのは彼女たちの方なのである。
「んーと……どうやってこらしめてやろうかなぁ……。――ん?……わっ!」
つっと視線を泉に戻したキッドは、慌てて視線をそらした。
泉ではちょうど陽南海が服を脱ぎ始めたところであった。
「な、な、何やってんだよ、あいつら……こんな泉でマジに水浴びしてく気かよ……」
ドッキ、ドッキ、ドッキ。
心臓がハンマーのように鳴り響いている。ほんの一瞬だけ見えた陽南海の裸身が目の前をちらちらした。
ブンブンブン!
キッドは思いっきり頭を振る。
そして、ハッと我に返って自分の頭をぽかぽかと殴った。
「バカバカバカ、こんなことやってる場合じゃないだろキッド。オレは、あいつらをこらしめてやんなきゃならないんだから――……あ!」
自分で自分を叱っていたキッドは、ふと、にんまりとした笑みを浮かべた。どうやら何か思いついたらしい。
いかにも楽しそうに瞳をきらめかせると、彼は森の奥へと軽やかに走り去っていった――。
「たっ、たっ、大変だユリウス!ちょっと来て!」
「ん?」
紅茶を飲もうと口まで持っていったカップをおろし、ユリウスは顔を上げた。
「どうしましたキッド?」
真っ赤な顔をして息をきらすキッドに、ユリウスは眉をひそめる。
「あなたは月夜〈マスター〉たちの護衛をしている筈でしょう?さぼってはいけませんね」
即座にサボリと決めつけるユリウスの言葉に、キッドは苛立ちながら叫ぶ。
「何言ってんだよ!その月夜たちが大変だから慌ててるんじゃないか!」
「月夜がどうかしたのか?」
そばに立つ巨木の枝に腰掛けてのんびりと本を読んでいたウィンが慌てて身を起こした。
キッドが口を開く前に、再びユリウスが尋ねる。
「マスターたち、と言いましたね。そこには桜華や陽南海もいるのですか?」
「……陽南海がどうかしたのか?」
どこからかシオンが現れる。
「あいつらは確か、泉の方へ行った筈だが」
「え――知ってたの?」
「場所を教えてくれと言われたからな」
「ふうん、そうなんだ」
キッドはつい、納得したように頷く。
「おい、月夜たちが一体どうしたんだ?早く教えろよ」
と、ウィンがじれったそうに言いながら、枝から飛び降りてきた。
キッドは思い出したようにバタバタと手を振る。
「あ……そうだ!大変なんだ!月夜たちが化け物に!」
「なんだと!」
一同はさっと青ざめる。
ここは聖域にほど近いクレアフィールドの森だ。そこら中に強力な結界の張り巡らされているこの森を自由に徘徊できる化け物と言ったら、最も凶暴で最も魔力の高いロードクラスの化け物しかいない。
「月夜はどこだ!」
ウィンがキッドの襟元を締め上げる勢いで叫んだ。キッドの足が宙に浮く。
「げっ……げほげほっ……く、くるし……息ができな……」
「ウィン……ウィン!落ち着きなさい、キッドを殺す気ですか!」
「あ、ああ」
ユリウスに言われて、ウィンはハッと我に返る。
いきなり手を放されて、キッドは地面でしたたかに尻を打った。
「いっ……いてて……まったく、月夜のこととなると本当に目の色変わるんだから……あー、いてー」
「キッド!」
「わかってるよ、月夜の居場所だろ。シオンが言った通りさ、泉にいるよ」
「泉だな!」
そう言うと、ウィンはダッと駆け出して行く。
「シオン!頼む!」
走りながらウィンが叫んだ。確かに、ロードクラスの化け物なら、いくら剣の使い手のウィンと言えど一人では辛い。
シオンも頷いて駆け出した。
「あ……ウィン!シオン!」
ユリウスが止めようと慌てて呼びかける。しかしその時にはすでに、二人の姿は森の奥へと消えていた。
「……どうしたのユリウス?行かないの?」
「その話……本当なんでしょうね、キッド?」
「……えっ?」
ユリウスは疑わしげな目でキッドを見る。
「あなたは昔から、暇を持て余すと人を困らせて喜ぶクセがありましたからね」
う……す、鋭い。
内心冷や汗をかきながら、キッドはそれでも必死に頷く。
「本当さ!じゃなきゃ、誰がこんなに息きらして走ってくるもんか!……確かに昔はいたずらもしたけど……でも、自慢じゃないけど、自分が疲れるいたずらなんかしたことないぜ」
キッドは心の中で舌を出しながら、それでも真っ直ぐにユリウスを見返す。
その彼の瞳をじっと見つめていたユリウスだったが、やがて決心したように頷き、彼もまた駆け出した。
「ユリウス!」
「あなたはここに残っていなさい!……聖や鈴原さんたちには余計なことを言ってはいけませんよ!わかりましたね!」
「……オッケー。いってらっしゃーい」
ユリウスの姿が葉陰に紛れて見えなくなると、キッドはぺろっと舌を出した。
「さあて……どうなることやら」
「きゃああぁっ!」
ウィンとシオンが泉に駆けつける頃、年若い女の叫び声が森に響きわたった。
「あれは……」
「陽南海!」
いつもはその表情を滅多に変えることのないシオンが、緊張した顔で飛び出す。
「きゃーっ!」
「月夜!?」
続いて上がった声に、ウィンもさっと顔を強ばらせ、飛び出していった。
「陽南海!」
「月夜!」
顔や腕が木の枝でひっかかれるのにも構わず、泉に駆けつけた瞬間……
二人の目に、三つの真っ白い裸体が飛び込んできた。
「あ……」
「え……?」
……数秒の沈黙が周囲に満ちる。
直後。
「きゃああああっっっっ!!」
耳をつんざくような悲鳴が、ユニゾンで森を揺るがした。
「――っっ……!!」
そのあまりの大音響に、ウィンもシオンも思わず立ちすくむ。
「きゃあきゃあきゃあっっっ!!」
「いやぁぁぁぁっっ!」
その間にも、悲鳴のコーラスはひっきりなしに響き渡る。
「ウィン!シオン!みんな無事……え?」
そこへ、今度はユリウスが飛び出してきた。
が、彼も目の前に広がる光景に呆然と立ちすくむ。
「あ……桜……華?」
「ユリウス!」
それまでほうけたように立っていた桜華の目に、輝きが戻った。
「月夜!陽南海!」
彼女は咄嗟に胸を腕で覆い、妹たちのところへ近寄って行く。
「二人ともしゃがんで!水の中なら見えないから!……早く!!」
「お、お姉ちゃ……」
「早く!」
「う、うん」
二人はひきつった顔で頷き、水の中にしゃがみ込む。
「……っく……ひっく……」
耐えきれなくなったように、月夜はとうとう泣き出してしまった。その顔は、耳たぶまで真っ赤に染まっている。
彼女の肩を片腕で優しく抱き、慰めるように静かに揺すると、桜華は水辺を振り返って、バカみたいに突っ立っているシオンとウィンを怒鳴りつけた。
「ぼけーっとしてないで、そのマント寄越しなさい!」
「あ……は、はいっ!」
見てはいけないものを見てしまったという罪悪感からか、ウィンはともかくシオンまでもがその言葉に即座にマントを取り、桜華の方へ投げる。
二枚の大きなマントを受け取ると、桜華は再び怖い顔で叫んだ。
「……後ろ向く!」
「はいっ!」
大の男二人が滑稽なくらい慌てて後ろを向く。……きっと、こんな状況でなければ笑えただろう。
そんなことを頭のどこかで考えながら、桜華は妹たちの体をマントで包み込んでやった。
「……月夜、陽南海。大丈夫?」
「う、うん」
陽南海の方は感情の起伏が激しく直情的なせいか、ショックからはすぐに立ち直ったようだ。
姉の着せてくれたマントをきっちりと体に巻き付け、彼女はわき目もふらず一目散にシオンの方へと歩いて行った。
そしてすぐ後ろまで来ると、ちょんちょん、とシオンの肩をつつく。
「陽南……」
振り向いたシオンが最初に見たのは、目の前まで迫ってきている「拳〈ぐー〉」だった。
「シオンのばかぁぁぁ――っっ!!」
またしても耳をつんざくような大音響とともに、その拳がまともに顔面にヒット!
普段の彼なら難なくよけられる筈の攻撃だったが、彼の方でもショックだったのか、それとも罪悪感からわざとよけなかったのか、シオンはあっけなく吹っ飛ばされる。
「ばかっ!ばかっ!――シオンのばかあぁぁっっ!」
倒れ込んだシオンにそう叫び残し、陽南海は森の奥へと駆け出した。
「陽南海!」
桜華が叫ぶ。
「シオン!早く陽南海を追って!あの子、どこ行くかわかんないわ!」
頭を押さえながら起きあがったシオンは、しかし桜華のその言葉が終わらないうちに陽南海を追って駆け出していた。
とりあえずこれで陽南海の方は心配いらないと思ったのか、桜華は月夜の方を振り向く。
「……月夜。月夜、大丈夫?」
「お、お姉ちゃ……ひっく……ふっ、うっ……ふえっ……」
肩を震わせながら見上げる月夜を、桜華は優しく諭した。
「月夜。ショックはわかるけど、いつまでもここにいるわけにはいかないの。マントを体に巻き付けたらあがりなさい。いいわね?」
「……」
月夜は子供のようにいやいやをする。
桜華はため息をついた。
「月夜。いくら何でも夜までいるわけにはいかないでしょう?父さんたちのところへ戻らなきゃ」
「だって……だって……」
「大丈夫、そのマントは厚手だから、透けて見えたりしないわ。それに、ウィンたちだって覗いてたわけじゃないんだから。はっきりとなんか見えてやしないわよ。――ウィン!」
そう言って、桜華はウィンを呼ぶ。
「はっ……はい!」
後ろを向いたまま硬直していたウィンが、妙に上ずった声を出した。
「……あんた、見た?」
ブンブンブン。
ウィンは首がもげるんじゃないかと思うほど思いっきり首を振り、くらぁ~っとよろける。どうやら貧血をおこしたらしい。
「……ほらね?大体、あの男にそんな度胸あるもんですか」
「……」
月夜はやっと泣きやむのをやめた。
そして何か訴えるように桜華を見上げる。
桜華はにっこりと笑った。
「……大丈夫ね?月夜」
「……うん」
その顔にぎこちない笑みを浮かべ、月夜はゆっくりと頷いた。
「よろしい。……さて、あんたを一人で帰すと何かと危険だわね。……いいわ、ちょうどいいからウィンに送ってもらいなさい」
「!ウィ……ウィン……に?」
「そう。この際だから思いつく限りのわがまま言ってみなさい。きっと何でも聞いてくれるから。……いいわね?」
「う……うん。わかった」
月夜が頷くと、桜華は笑ってウィンを呼ぶ。
「ウィン!月夜を送ってやって!この子、一人で帰すとどこ行くかわかんないから!」
「はっ、はいっ!喜んで!」
右手と右足を同時に出しながら、ウィンが泉の中に入ってくる。
「ちょ、ちょっと、こっちに来ることな……月夜、早くウィンのところへ行きなさい!あいつ、下手するとここまで後ろ向きのまま来る気だわ」
「うんっ」
月夜も慌てて頷き、ウィンの方へと近寄る。そして後ろ向きのままよたよたを歩いてくるウィンの腕を取り、森の方へと歩き出した。
「……」
さて――これであの子たちはいいわね。
やっと一息つくと、桜華は後ろを向いたままのユリウスに視線を移した。
彼はこの光景を目にした瞬間、視線を外して静かに後ろを向き、そのまま黙って立っていたのだ。
「ユリウス」
「はい?」
声をかけると、落ち着いた声が返ってくる。
しかし、その声の中に微かな動揺の響きを感じ取った桜華は、どこか妙に安心しながら言葉をつないだ。
「悪いけど……わたしにもくれない?何か――羽織るモノ」
「あ、ああ……そうでしたね」
そう言うと、ユリウスは身につけていた幅広のマフラーを投げて寄越す。
「あいにく、それくらいしかなくて――破るなり何なり、好きにしてください」
「そ。――それじゃ、お言葉に甘えて」
桜華はそのマフラーを手頃な長さに切り裂き、片方を胸に、もう片方を腰に巻き付ける。
「……これでよし」
そう言ってユリウスのところまで歩み寄ると、桜華はゆっくりとその肩を叩いて言った。
「災難だったわね」
気の毒そうに呟く桜華の言葉に、ユリウスは驚いたように眉を上げる。
「……責めないのですか?」
桜華は肩をすくめた。
「そりゃ、故意ならね。でも、あなたさっき、無事か、って叫んだじゃない。てことは、わたしたちが危険な目に遭ってると思ってたわけでしょ?」
「え、ええ。キッドがそう……。――またやられたようです」
「らしいわね」
そう言って微笑み、桜華は妹たちの衣服を枝から取り去る。
「じゃなきゃ、あなた方がこんなことするわけないもの。……あなたも大変ね、わんぱく坊やのお守りは」
同情的な桜華の瞳に、ユリウスは苦笑した。
「まあ、それも私の仕事の一つですから。――彼は五歳にも満たない頃にガーディアンとして中央に引き取られましたから、精神的に未熟なところがあっても仕方ないでしょう。……もっとも、いつまでもこれでは困りますがね」
「五歳に満たないって――一体、何歳からいるの、あの子!?」
驚いたような桜華の声に、ユリウスは哀しげに顔を伏せる。
「……三歳の時です、彼が希にみる天才児として中央の組織に引き取られたのは」
「三歳……!!」
本来なら母親に甘えたい盛りの年齢で……いや、母親こそが絶対の存在である筈の、そんな幼い年齢で、彼は母親と引き離されたのか。
桜華は初めて、キッドの反抗的な態度の裏に隠された物を感じた気がした。
「……あの頃、各国では宗教戦争が繰り返されていました。自らが崇拝する神こそが唯一絶対の存在。他の神々など取るに足らない……いや、偽物でしかない、と――。もちろん、中にはその考えに反発し、全ての神を奉る我がガーディアン組織に賛同する者もたくさんいました。けれど、今ほど中央の神官組織は大きくはなかった。国単位で引き起こされた戦争を鎮めるなど、不可能に近かった。だから……だから彼らは求めていたのです。優秀な人材を。自分たちの組織の力を誇示するための……権力を得るための人材を」
「それで……キッドを?」
「ええ。……彼は産まれたときからガーディアンとしての素質に恵まれていました。我々ガーディアンは、皆それぞれ、人並み異常の能力を持っています。例えば私は治癒と防御の能力が強く、ウィンは剣を持てばほぼ無敵です。攻撃魔法を使わせたら、シオンの右に出る者はいないでしょう。しかし、それはみな、ある程度成長してから身につけた能力です。最初から強かったわけではない、ただ、訓練すれば強くなる、その器があっただけのこと。……しかし、キッドは違いました」
神殿へ戻る道を歩きながら、ユリウスは小さく肩を落とした。
「あのこの能力は自然同化能力〈ネイチャリング・コンタクト〉。魔力を込めた笛を吹くことで、ほぼ全ての自然物を操ることが出来ます。しかし、それは彼の能力を積極的に使うための道具でしかない。……彼はね、桜華。生まれたときから――いえ、母親の胎内にいるときから動物達に囲まれていたんです。その身に宿す能力、自然同化能力によって、生まれる前から自然物と意志の疎通を交わすことが出来た。だから……中央の人間は彼を欲した。彼の能力こそ……自然と共に生きることが出来る能力こそ、最も神の力として誇示しやすいと考えたからです。誰でも、一番身近にある不可思議な力を一番畏れるものですから」
「そんな……そんなことの為に?」
「恐らくあのこの記憶には母親の顔も声も刻まれてはいないはずです。あるとしてもそれは母親という存在から呼び起こされる暖かなイメージぐらいなものでしょう。……三歳で引き取られて以来、彼の周囲にいたのは彼を一刻も早く一人前のガーディアンにしようと躍起になっている人間達だけでしたから」
「なんて……ことを」
人とのふれあい、暖かな温もりの記憶。
それは普段、あまり気にすることのない当たり前の記憶。
けれど、その当たり前の記憶が、辛い時、苦しい時、どれだけ人を支え、励ましてくれるか。
母親の記憶、守り癒してくれると言う絶対的な信頼。
それこそが、人が人として最後の一線を踏み越えないで居られる命綱のようなものなのに。
「ところが、皮肉なことに」
ユリウスは全然おかしくなさそうな口調で言う。
「結局、キッドが一人前になったときには既に、宗教戦争は終わりを告げていました。当然でしょう、元々、戦争をしている人間は一部の過激な連中だけで、大半の人間は平和を望んでいたのですから。我々ガーディアンは各地に散って小さいながらも神殿を建て、布教活動を行いました。その国で崇拝されている神の教えに則って。この世界の神はすべて平和を愛する穏やかな神です。怒りや制裁を司る神もいますが、それも平和を守る、という根底があってのことです。ですから、全ての神の教えは一概に平和を愛せよ、というものなのです。戦争をしている人間も、まさか自分たちの崇拝する神を奉る神殿を蔑ろにするわけにはいかないでしょう?結局、完全に納得したわけではないでしょうが、戦争は終結しました。今でも一触即発の不穏な空気の漂う国もあるにはありますが、どこの国にも属さない、完全中立を保つ我々ガーディアン組織が国にあることで、何とか均衡を保っているのです」
「それじゃあ、キッドは家へ帰れるんじゃないの?もう、用はないでしょう?」
「帰る家があれば、ですがね」
「えっ?」
ハァ、と肩を落とし、ユリウスは微かに首を振る。
「――彼の母親は既に死んでいるんです。元々、あまり体の丈夫な方ではなかったそうで、あれだけ力を保有するキッドを生んだのですから、それなりに負担がかかったのでしょう。キッドを引き取った責任として彼女の面倒を見ていた者が訪ねていくと、彼女はベッドで冷たくなっていたそうです。それが病気や衰弱によるものなのか、それとも――」
そこまで言いかけて、ユリウスは首を振った。
「やめましょう、こんな話は。今更そんなことを言ってみたところで、どうしようもないのは、彼が一番よく知っていることです。……根は、優しいんですよ。いたずらが過ぎて困らされることもありますが、それでも、本当は優しい子なんです」
「……知ってるわ」
桜華は肩を竦める。
「あの子がただの悪ガキだなんて、思ってやしないわ。私も、みんなも。いつだって生意気で、反抗的で、かわいくない子だけど、でも……いつだって一番傷ついているのは、あの子だもの。いつも身近にいて、私達に降りかかる危険をその身に受け止め、守ってきてくれたのは……あの子なんだもの」
「桜華……」
「でも」
と、桜華は笑う。
「さすがに、今回のはいただけなかったわね。見つけたらとっちめてやんないと」
「ああ、それなら大丈夫ですよ」
「?」
不思議そうに桜華が見返すと、ユリウスはふ~っと微笑んだ。
……いや、目だけが笑ってない。
「ユリ……ウス?」
「今回はさすがに許すわけにいきませんからね。あなた方が危険に陥っているなどと、言っていい嘘の枠を遙かに越えています。その上、水浴びの最中に出くわさせるとは……少しキツーイお仕置きが必要なようです」
「あ、あの、ちょっとユリウス?何か……目が怖いんだけど」
「ふ……ふふ……」
そう言えば、ウィンが言ってたっけ。
『何が怖いって、ユリウスを怒らせるのが一番怖いよ。あいつを怒らせるくらいなら、神様にツバ吐く方がよっぽどマシだね』
「……」
桜華はこの先のキッドの運命を察して、思わず同情した。
――ま、自業自得ってのはこういうことなんだろうけど。
いつもおとなしい人間がキレると怖いって、本当だったのねー。
この後、キッドの身に降りかかった出来事。
それは彼らのみが知っている――
――合掌。
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