Mystic Moon~月夜の国の物語~

樹 星亜

第1話 プロローグ

 周囲は森だった。

「え……?」

 空からはちょっと目を細めるくらいの木漏れ日が差し込み、梢では可愛い小鳥達の声がさえずり、僅かに湿った大地からは朝露に濡れる草の香りが立ち上る、どっからどー見ても正真正銘の、森。

 ツタ科の植物が見あたらないのと、空に伸びた木々の枝葉が太陽の光を遮っていないせいで、あまり鬱蒼とした雰囲気は感じられない、静かで爽やかな朝の森。

 しかし彼女はそんな周囲の光景を楽しむ余裕もなく――いや、そんな風景など目に入らない様子で、呆然と立ち上がった。

「な……んで……ぇ!?」

 息を吸い、言葉を紡いだ拍子に揺れる、足首まである白いコットンのネグリジェ。

 裸足のまま、ショートの髪もぼさぼさのままで、彼女――鈴原 月夜(すずはら つくよ)はぐるりと周囲を見回した。

「森……森、よね、これって……あ!」

 その時、月夜は初めて、1メートルと離れていない場所に、さっきまでの自分と同じように倒れている女性を見つけた。

「お姉ちゃん!」

 まるで仕事から帰ってきてそのまま寝てしまったような――多分そうなのだろう――白いシャツに黒いスラックスをはいた女性は、自分の身に降りかかった異変になどまるで気づかず、安らかな寝息を立てている。

「ここにお姉ちゃんがいるってことは……まさか……」

 月夜はそう言いながら不思議な動作を見せた。

 まるでそこに壁でもあるかのように手を伸ばし、同じ歩幅で一歩一歩数えながら歩き、途中で止まってはドアを開ける仕草をする。

「ここが私の部屋。で、こっちがお姉ちゃんの部屋だから……ひぃ君の部屋はあの木の向こうくらいね……あっ、いた!」

 ちょうど木々の影に隠れていた裏側を覗くと、そこにはきちんとパジャマを着込んだ少年が、同じように寝息を立てている。

「やっぱりこれって……ということはこっちに……あ、陽南ちゃん見っけ。じゃあお父さんとお母さんも……やっぱり……」

 さっきと同じ動作を繰り返しながら、月夜は父・一年(かずとし)、母・四季子(しきこ)を見つけていく。

「ん……?……」

 と、背後で女の寝ぼけた声がした。

「あっ、お姉ちゃん!」

 それが姉の声であることを知った月夜は、慌ててそばへ走り寄る。

「お姉ちゃん、大変なの、起きて!お姉ちゃん!」

「んん~?何よ月夜……昨日は遅かったんだから、もうちょっと寝かせ……て……」

 言ってるそばから眠りに落ちていく姉に、月夜は必死で呼びかける。

「大変なの!大変なんだってば、桜華(おうか)お姉ちゃん!ねえ、ここどこ?私たち、変なトコに来ちゃったのよぉ!」

「はあ~?」

 妹のせっぱ詰まった声に、少しは興味を持ったようだ。

 桜華はそれでもまだ眠そうにしながら無理矢理、片目を開けた。

「……○×△!?」

 そして次の瞬間、飛び起きる。

「なっ、なっ、何よこれ?一体、どうなってるのよ!」

「だから言ってるじゃない、大変だって!ねえ、ここどこ?私たち、一体どうしちゃったの?」

 泣きそうな顔をして腕にすがりつく月夜の肩を反射的に抱き、桜華は呆然と周囲を見回す。

 森。

 鬱蒼とまではいかないまでも、限りなく広大にひろがっている、森。

 それは、決してどこか変わったところのある森ではなかった。

 大地が七色に輝いているわけでもなく、木々にキャンディの実がなっているわけでもない。

 だが、今の彼女たちが驚いているのは『周囲に広がる森』に対してではなかった。

 『自分たちが森にいること』それ自体が驚愕の対象なのだ。

 何しろ彼女たちの記憶は

『昨日の夜、自分の家の自分の部屋で眠りについた』

 そこまでしかないのだから。

 きつねにつままれた、とはこういう気分のことを言うのだろうか。

「と……とにかく。ぼーっとしてても始まらないわ。月夜、あんたは父さんと母さんを起こしてきて。私は陽南海(ひなみ)と聖(ひじり)を起こしに行くわ――いるんでしょ?みんな」

「う、うん。みんなちゃんと自分の部屋があった場所で寝てる」

「自分の部屋?それってどういう――」

「私が起きた時、ここら辺にいたの。それでお姉ちゃんがそこにいたでしょ。だから、もしかしたらと思って……」

 月夜はそう言いながら、気づいたとき自分が倒れていた場所まで戻ってみせる。

 桜華も、彼女が言わんとしていることに気づいた。

 今、自分がいる場所と月夜がいる場所。その距離や方向は、確かにどう考えても……鈴原家の部屋の配置にそっくりだ。部屋だけではない。ここが自分の部屋があった場所だとするなら、眠っていたのはちょうど、ベッドがあった場所。昨日、深夜まで仕事をして疲れ果てて帰宅し、そのまま倒れ込んだ場所。

 そこで、桜華は眠っていた。

「どういうことなの……?家で眠っていた状態のまま、家族ごと知らない場所に倒れているなんて……」

 呆然とする桜華に、自分は両親のいるところへ向かいながら月夜が声をかける。

「――お姉ちゃん、陽南ちゃんとひぃ君はあっちとそっちだよ。二人とも、まだ寝てるから」

「あ、ええ、わかったわ」

 答えて、桜華は一つ、強く頭を振る。

「考えても仕方ないわね、どちらにせよ尋常な状況じゃないんだから」

 そう言って、桜華は妹と弟を起こす為に立ち上がった。


「うわああぁぁぁっっ!!」

 叫んで、聖は持っていた棒キレを思いっきり振り回した。

「ギャウッ!!」

 その一撃が運良く当たり、犬が悲鳴を上げる。

 しかし、そう思う間もなく仲間の犬達が再び聖達を取り囲んだ。

「……一体なにがどうなってるのよぉ!」

 陽南海が棒を振り回しながら叫ぶ。

 月夜と四季子を背後に庇いながら、一年が陽南海に声をかけた。

「落ち着きなさい陽南海。奴らに弱みを見せてはダメだ」

「で、でもお父さん……」

「しっかりしなさい、陽南海」

 と、今度は桜華が声をかける。

「ここでパニクってたって状況が変わる訳じゃないのよ。今はとにかく、今できることだけを考えなさい。騒ぐのはあとからでもゆっくりできるわ」

「う……うん」

 頷いて、陽南海は再び棒きれをしっかりと握りしめた。

 その視線の先には、牙を剥き出し、低いうなり声を上げる犬の群れがいる。

 犬――いや、それは犬ではなかった。

 真っ赤に光る目、よだれの垂れ下がる牙、立ち上がれば大の男を軽く越す黒々とした大きな体。

 それだけなら、まだ「ちょっと異様な犬」で済んだかもしれない。

 しかし、目の前にいる「それ」は明らかに「犬」ではない物を持っていた。

 ――二つの頭。二本の尻尾。

 それは「犬」であるどころか、紛れもなく「この世の物」ではない生き物だった。


『……ううん…「この世の物」じゃないのは、もしかしたら私達の方かもしれない……』


 父の背後に隠れ、母に庇われながら月夜はふと思った。

 さっきから、何だか妙な違和感が体を包んでいた。

 自分が自分ではないような、不思議な感覚。

 周りにある全て――空も、大地も、木も草も空気さえもが自分たちとは違う、どこか別の場所に存在しているような、目眩にも似た不思議なズレ。

 それはまるで……そう、これが現実だと思いこんで悪夢の中で脅えている時のような、どこか頭の片隅が麻痺している、あの感覚に酷似していた。

「つーちゃん……月夜?」

 と、月夜の肩を抱いていた四季子が声をかけた。

「あ……えっ?」

「大丈夫?ぼーっとして……お父さんもお姉ちゃんも陽南ちゃんもひぃ君も、みんなあなたを庇ってるのよ、考え事なら後でしなさい」

「あ……は、はい。ごめんなさい」

 月夜は真っ赤になって俯いた。

 家族の中で、月夜は抜きんでてトロい。

 いや、彼女自身はそう言う自覚はないのだが、考え事をしていて側溝にハマったり、向こうから車が来ているのを見ていながらボーッと車道に歩き出てしまったり、人の流れに乗って反対方向へ流されてしまったりするのが日常茶飯事の彼女を全員で庇うのは、殆ど鈴原家の暗黙の決まり事のようになっていた。

「このっ、このっ!」

 聖が必死になって棒きれを振り回す。

 剣道だとか護身術だとか、そんなものの経験がまるでなくても、人間追いつめられると結構たくましい。

 犬――いや、犬に似たその「魔物」も、でたらめな攻撃に迂闊には近寄れないようで、ちょっと遠巻きに様子をうかがっている。

 そこに、油断が生じたのだろうか。

「きゃああぁぁぁっっ!!」

 聖達がじりじりと後退する魔物を追うように前に出た瞬間、魔物は驚くべき跳躍力で一気に月夜達の前に降り立った。

「月夜!」

「お母さん!」

「姉さん!」

「四季子!」

 四人の叫びが宙を舞う。

 振り返ると、四季子は魔物にはねとばされて気を失い、月夜の方は魔物に押し倒されて、その太い四肢にしっかりと組み敷かれていた。

「あ……あ……」

 恐怖にがちがちと歯が鳴り、魔物の姿はあふれ出す涙ににじんでいる。

 目の前に突きつけられた「死」。

 どんなに怖い夢の中でだって感じたことのない圧倒的なその恐怖に、月夜は意識を失うことすら許されず、ただ絶望に身を震わせていた。

 魔物の口から垂れるよだれが、月夜の顔を濡らす。

 ハッハッという熱い息が臭気を伴って鼻を突く。

 魔物が、まるで獲物をなぶるように、ゆっくりのその赤い舌を月夜の首筋に這わせた。

 どくん、どくん、という確かな鼓動。力強く、そして恐怖に脅えてどんどん早さを増すその鼓動を舌に感じ、魔物は嬉しそうに目を細める。

「姉さん!」

 聖が叫んで前に飛び出そうとした。

 しかし、あっという間に仲間の犬達がその前に立ちはだかり、聖を取り囲む。

「お姉ちゃん!」

 陽南海が、絶望的な悲鳴を上げた。

 桜華と一年は、気を失って倒れている四季子の元へ駆け寄り、凍り付いたようにその光景を眺めている。

 魔物が、一瞬その身を大きくのけぞらせた。

 まるで勝利を高らかに宣言するように頭を空へ向け、咆哮する魔物たちの声が森を震わせる。

 次の瞬間。

 魔物は金縛りにあったように目を見開く月夜の喉元めがけて一気に頭を振り下ろした。


『……もう、ダメだ――!!』


 そこにいる全員が、絶望に目を閉じた。

 そう、その時だった。

 月夜は、体の奥底から強烈な「何か」がわき起こってくるのを感じた。


『これは……拒絶……?』


 ほんの一秒にも満たない短い間に、月夜はそれを認識する。


『拒絶……そう、これは拒絶の感情……死にたくない……私、私、まだ死にたくない――!!』


 体の中にわき起こったその感情が、一気に弾けた。

「いやああぁぁぁ――っっ!!」

 感情に突き動かされるまま、エネルギーに導かれるまま、月夜が叫んだ瞬間。

 感情が、一気に具現化した。

 月夜の体が金色に光る。

 目に見えない――しかし、確かに伝わる強烈な「波動」が、魔物を吹き飛ばした。

「ギャウンッッ!!」

 いや、それは吹き飛ばしたというより、月夜の体から放出される強大な力の波動が魔物を『喰った』という感じだった。

 波動のエネルギーに魔物の体は数十㎝はねとばされ、霧が風に吹き消されるように、一瞬で消滅する。

「な……な……?」

 他の家族は、月夜の意外な姿に呆然とするしかなかった。

「お姉ちゃん……超能力者だったの……?」

 陽南海の呟きがシャレにならない。

「あ……あれ!」

 聖がふと、姉の額に浮かぶ光に気づいて声を上げた。

 月夜の額には、不思議な紋様が浮かび上がっていた。

 まるで古代遺跡にでも描かれていそうな不可思議な紋様……そう、いかにもファンタジー小説なんかに出てきそうなその紋様は痣のように浮かび上がって紫色に輝き、体から放出される力に月夜の髪が激しく舞っている。

「姉さん……なんか変だよ、意識が……ないみたい……」

 確かに、今の月夜には表情がなかった。

 目は開いているものの、どこを見ているのかまるで焦点があっていなかったし、その顔には「無表情」な表情すら浮かんではいない。

「あ……犬が!」

 陽南海が声を上げた。

 今まで彼らを取り囲んでいた魔物達が、月夜を見ながら脅えたようにじりじりと後退していく。

 そしてある程度まで離れると、魔物達は弾かれたように一目散に逃げ去ってしまった。

「た……助かった……」

 陽南海がぺたん、と座り込む。

「ん……」

 その時、気を失っていた四季子がやっと意識を取り戻した。

「母さん!」

「四季子……四季子、しっかりしなさい、おい」

 一年が妻の体を気遣うように、ゆっくりと抱き起こす。

「ん……あなた……?」

 四季子は一瞬、驚いたような顔を見せたが、はっと我に返って体を起こした。

「あなた、月夜は!?」

「それが……」

 言いにくそうにしながら、一年は顎をしゃくる。

 その先を視線で追った四季子は、月夜の姿に息をのんだ。

「つ……月夜……!?」

「一体、なにがどうなってるのか……朝起きると森に倒れているわ、奇妙な魔物に襲われるわ、娘は超能力に目覚めるわ……」

 一年が疲れたように肩を落とす。

「私達は……もしかして悪い夢でも見ているのじゃないかね。もしそうなら、早く覚めてほしいものだ……」

「そんなこと言ってる場合じゃないじゃありませんか、あなた」

 弱気な言葉を吐く夫の肩を、四季子は気丈に揺さぶった。

「しっかりしてください、あなたはこの家の主人なんですよ。あなたがしっかりしてくださらなければ、私達は誰を頼ればいいんです?」

「四季子……」

「大丈夫です、何が大丈夫かよくわかりませんけど……とにかく、大丈夫ですから。だから、今は月夜を何とかしないと……ね?」

「あ、ああ」

 一年はそう言ってゆっくりと立ち上がった。

 自分も起きあがろうとする妻に手を貸し、その腰に手を回すと、四季子がほんのり頬を染める。

「あなた……私は大丈夫ですから」

「何を言ってる、足下がおぼつかないじゃないか。……?何を躊躇っているんだね?」

「いえ、あの……」

 娘達の方を盛んに気にしながらちらちら視線を投げる四季子に、一年は微笑む。

「今更、照れる必要はないだろう。いいから体を預けなさい。あくまで抵抗するなら抱き上げるよ」

「!」

 言葉だけでなく本気でそうしようとする一年に、慌てて四季子は体を預けた。

 片方の手を胸に当て、もう片方の手で一年の肩をつかむ。

 と、桜華が呆れたように肩を竦めた。

「はいはい、ごちそうさま。……まったく、いつまでたっても仲のよろしいことで」

「桜華」

 めっ、という顔で睨む四季子に素知らぬ顔をして、桜華は再び月夜に目を向ける。

「さて……どうしようかしら」

「僕が行く」

 と、聖が月夜に向かって歩き始めた。

「あ、ちょっと聖」

 桜華は慌てて止めかけたが、フッと肩を竦める。

「ま、いいか。聖は特に月夜になついてるし……昔っから月夜っ子だったもんね」

 月夜は二十一歳、聖は十七歳。

 年の4つ離れているこの姉は、聖にとって八つも離れている桜華よりは身近で、二つしか違わない陽南海よりも頼れる、一番「姉」らしい姉であった。

 もっとも、実際にはボーッとしている月夜の世話を聖が焼く、端から見るとどうしても「兄」と「妹」にしか見えないような関係だったが。

「……姉さん」

 月夜の前まで歩いてくると、聖はそっと声をかけた。

「姉さん、僕だよ。わかる?」

 さっきあれほどの力を目の当たりにしながら、聖は全く脅えていなかった。

 目の前にいるこの姉が、自分に危害を加えるはずがない。

 それは何か根拠がある確信ではなかったけれど、聖はそう信じて疑わなかった。

 それより、姉がこのまま意識を取り戻さないんじゃないか。その事の方が、怖かった。

「姉さん、月夜姉さん。僕だよ、聖だよ。ねえ、わかる?」

 しかし、月夜は何の反応も示さない。目の前に弟が居て、必死に呼びかけても、その瞳は依然として虚ろなままだ。

 聖は次第にわき起こる、どんよりとした不安な思いに押しつぶされそうになりながら、更に必死に声をかけた。

「お願い姉さん、目を覚まして。もういいんだ、あいつらどっかへ行っちゃったよ。もう安全なんだ。だからお願い、目を覚まして……目を覚ましてよ、月夜姉さんっ。――っ……月夜姉さんっ!!」

 たまらず、聖は月夜の両肩をつかんで揺さぶった。

 月夜の意識が離れて――いや、薄れていく。

 そんな、気がした。

「姉さん……姉さん!目を覚まして!元の姉さんに戻ってよ!大丈夫なんだ、もう安全なんだよ!僕たちは大丈夫だから……だから、目を覚まして!月夜姉さんっ!!」

 ぴくっ、と、月夜の指先が微かに動いた。

 しかし聖はそれに気づかない。

 頭の中はどんどん悪い考えで一杯になっていった。

 もし、このまま目覚めなかったら?

 姉さんが、姉さんじゃなくなってしまったら?

 いつもどこかボーッとして、違う世界に住んでるみたいな姉さんだったけど、でも……こんなの違う!こんなの、月夜姉さんじゃない!

 姉さんは優しいんだ。優しくて、いつでも微笑ってて、誰かがそばについてないと何するかわかんなくて、危なっかしくて……

「姉さん!」

 聖は月夜の肩を思いっきり抱き寄せた。

「姉さん、姉さん!お願いだよ、元に戻ってよ!もういいんだ……もう安全なんだよ!だから、だから目を覚まして!月夜姉さん!」

 ぎゅっ、と抱きしめた姉の体から、しっかりした鼓動が伝わってくる。でも、その中に月夜の意識が感じられない。

 姉は生きてる。ちゃんと生きてるのに、これは姉じゃない……。

 そんな思いに圧迫され、聖の顔が歪む。

「姉さん……!」

 泣き出しかけた、その時。

 聖の背中に、柔らかい何かが触れた。

「ひ……く……ん……?」

「えっ……」

 驚いて、聖はばっ、と体を離した。

 まじまじと、姉の顔を見つめる。

 と、その瞳に――虚ろだった瞳に、ゆっくりと輝きが戻ってきていた。

「ひぃ……くん……?」

「月夜姉……さん?」

「ひぃ君……どうしたの……?どうして、泣いてるの……?」

 まだぼんやりとしながら、それでも月夜は優しく弟の頬に触れた。

 その指先が涙に濡れる。

「姉さん……」

 聖は、安堵にくずおれそうになりながら、再び月夜を強く抱きしめた。

「よかった――!!」

「え……?」

 小刻みにふるえる弟の体に、月夜は戸惑う。

「どうしたの?何か怖い思いでもしたの?ねえ、ひぃ君?」

「なに……言ってんだよ、月夜姉さん……まったく……人騒がせ……なんだから……」

 あふれ出す涙をぐいっと拭い、聖は微笑んだ。

「?」

 月夜はまだ不思議そうな顔をしている。

「覚えて……ないの?」

「なにが?」

「何がって――」

「いいじゃない、聖」

 と、いつの間にかそばに来ていた桜華が声をかけた。

 その目にも、微かに涙がにじんでいる。

「桜華姉さん」

「お姉ちゃん、一体なにがどうしたの?私、何かしたの?」

 不思議そうな月夜に首を振り、桜華は微笑む。

「いいのよ、月夜。大したことじゃないの、あんたが気にすることはないわ。……それより、いつまでもここにいたら、また何に襲われるかわかったものじゃないわ。さっさと森を出ましょう。……ね、父さん、母さん?」

「ああ、そうだな。……月夜、体の方は大丈夫かい?どこか痛いところは?」

「え……ううん、別に……」

「そうか、それじゃあ早速出発しよう。――歩けるね?四季子」

「はい」

 答える四季子に頷いて、一年が歩き出そうとした……その時だった。

 パキッ。

 背後で、小枝を踏みしめる音が響いた。

「!?」

 ハッと振り返った一年は目を疑う。

「な……!!」

 確かに、誰もいなかった。

 ここは森、それも鬱蒼と茂った密林ではなく、森と言うよりは広大な林と言った方がいいような、見通しのいい森である。

 朝霧はかかっているものの、半径百メートルは間違いなく見通せる筈の森。

 ――しかし、いつの間にか、彼らは大勢の兵士達に取り囲まれていた。

「な……な……」

 兵士達は、手に手に槍やら剣やらを持ち、まるで中世の時代に出てくるような武装をして一家を取り囲んでいた。

 その周囲を、畏れと殺気が入り交じったような奇妙な静けさが包んでいる。

「う……あ……」

 一家は脅えながら身を寄せ合った。

 同じ人間の姿をしている分、却ってさっきの魔物よりも恐怖を感じた。

「……待ちなさい」

 と、その時、一人の若い男の声がして、数人の青年が兵士の間を進み出てきた。

 それは、明らかに兵士達とは身分の違う男達だった。

 彼らは皆、一様に白く動きやすそうな、聖衣のような服を着ていて、遠目からでもそれとわかるほど見事な作りの銀の軽鎧を身につけている。

 その中の、金色の長い髪をした青年が目配せすると、脇に立っていた蒼い短髪の青年が懐から何かを取り出した。

 丸いケースの中に菱形の石が浮かぶ、方位磁石のようなそれを、青年は月夜達一人一人に向けていく。

 そしてそれが月夜に向けられた瞬間、中に浮かんでいた石が大きく震えた。

「!」

 さっ、と青年の顔に緊張が走る。

 くるくると激しく回転していた石は、やがて突然、本当に何の前触れもなくピタッと動きを止めた。

「えっ……」

 次の瞬間、石の先端から細い光の筋が放たれ、月夜の胸を貫く。

 途端、月夜の額に再びあの紋様が浮かび上がった。

「これは……」

「姉さん……!」

 一家の脳裏に、先ほどの月夜の姿が蘇る。

 聖が慌てて声をかけた瞬間、月夜が何事もなかったかのように振り向いた。

「ひぃ君?どうしたの?」

「……え?」

 てっきり、また意識を失うものと思っていた聖は呆気にとられる。

「え……あれ?」

「?どうしたの?」

 先ほどの自分の姿を知らない月夜は盛んに首をひねっている。

 確かに光に貫かれた瞬間は驚いたものの、今の自分は痛くもかゆくもない。

 なのに何故、家族がこれほどまでに緊張し、息をのんだのか月夜にはさっぱりわからなかった。

「姉さん……なんともないの?」

「なにが?」

 月夜が不思議そうに聞き返した時、先ほどの金色の髪の男が月夜の前に進み出た。

「!」

 さっ、と月夜を庇うように、家族達がその前に立ちふさがる。

 男は一瞬、驚いたようだったが、微笑んで彼らの前に――いや、月夜の前に跪いた。

「え……」

 戸惑う月夜達に顔を上げ、男はにっこり微笑んで、言う。

「お迎えにあがりました、創造神様(マスター)」


「……え?」

 月夜がゆっくりと自分の顔を指さした。

「私?」

 男の視線は、どう見ても月夜に注がれている。

「創造神?……え?」

 驚く月夜に男は立ち上がると、周囲の兵士に手で合図した。

 すると兵士達は一斉に武器をおろし、サッと跪く。

「あの……」

 戸惑う月夜に輝くばかりの微笑みを浮かべ、男は再び一礼する。

「初めてお目にかかります、創造神様。我らはダルス。この幻地球の西の果て、次元の神マルドゥク様を奉る、スタルト神殿の神官戦士隊(ガーディアン)でございます」

「え……?あ……!!」

 月夜はそう言ったきり、目を見開いて黙ってしまった。

 代わりに、聖が前に出る。

「どういうことですか?姉さんが創造神って……何の冗談です?大体、あなた達は一体……」

「ああ、これは申し遅れました。私はユリウス。ダルスの長をつとめております」

「ユリウス……さん?」

「はい」

「あ――一体、何の冗談なんですか?創造神って……大体、幻地球って何なんですか?そんな夢みたいな話、誰が信じ――」

「違う……」

 と、月夜がぽそっと呟いた。

「姉さん?」

 聖が怪訝そうに振り向く。

「違う、夢じゃない、ここは……ここは、私の……」

 幻地球。

 神官戦士。

 次元の神、マルドゥク。

 その、全てに覚えがあった。

「そんな……そんなのって――」

 月夜の体が、小刻みに震え出す。

「大丈夫ですか、創造神様?」

 ユリウスが、心配そうに近寄ろうとした。

 咄嗟に彼と月夜の間に入り込み、聖はユリウスをにらみつける。

「いい加減にして下さい!誰なんですか、あなた方は!こんな風に姉さんをからかって、一体なにが楽しいんですか!もしかして、さっきの魔物もあなた達が――」

「やめて……やめて、ひぃ君。違うの……」

「姉……さん?」

 月夜が、聖の服の裾をつかんでいた。

「違う……違うの。この人達のせいじゃない……これは……ここは、さっきのは……全部……全部私が原因……」

「な、何言ってるのさ、姉さん。さっきのと姉さんと、何の関係があるって言うんだい?大体、姉さんはさっきのに殺されかけたんだよ?なのに何で、姉さんがそんな顔するんだよ。……ねえ、一体どういうことなんだよ、姉さん」

「落ち着いて……落ち着いて、よく聞いてね、ひぃ君。――みんなも」

 月夜はやっと顔を上げる。

 そして、意を決したように言った。

「ここは……この幻地球は……私が創り出した世界、なの――」

「えっ……」

 一瞬、時が凍り付いた。

「な、何言って……」

「ひぃ君」

 咄嗟に反論を紡ごうとする弟の言葉を制し、月夜は首を振る。

「本当は、みんな気づいているんでしょ?ここが……この世界が現実の世界じゃないってこと。私、多分ずっと前から気づいてた。ここが違うって……私達の居るべき世界じゃないんだって事。でも、怖くて……認めてしまったら、それはどうしようもない現実になってしまうから、それが怖くて目をそらしてた。でも……でも、もうダメ。ここは、私達のいた世界とは違う世界なの。ここは……ここは、私が頭の中で創り上げた想像上の世界なのよ!」

 目覚めたときから、感じていた。

 全然知らない場所。

 でも、何故かとても懐かしい場所。

 目眩にも似た不思議なズレ……そう、夢の中にいるような、奇妙に心地よく体を包み込む浮遊感。

 思い返してみれば、その全てが懐かしかった。

「幻地球……私が頭の中で創り上げた、想像上の世界。私は、私達はその世界の中に迷い込んでしまったって言うの……?」

 呆然と、自分が呟いていることさえ気づかないほど呆然と立ちつくす月夜。

 いつもならすぐさま駆け寄って慰めてくれる聖も桜華も、このとんでもない事態にさすがに声も出ない。

「あの……大丈夫、ですか?」

 と、その時、月夜のあまりの驚きように心配になったのか、別の青年が声をかけた。

「……えっ?」

 妙に耳障りのよいその声にはっと我に返った月夜の目に飛び込んで来る、深い琥珀色の瞳。

 さやさやとそよぐような栗色の髪、優しげに微笑む、どこかあどけない笑顔。

 まるで『好青年』が服着て歩いているような彼の姿に、月夜は一瞬、別の意味で硬直した。

「……」

 ほけ~っとしたまま立ちつくす月夜に、青年は更に慌てたように言葉を継ぐ。

「あ……あの……創造神……様?」

「イキナリ声かけてんじゃねーよっ、馬鹿ウィン!」

 と、その時、年若い少年の声がして、誰かが青年を背後から蹴り飛ばした。

「って……何すんだよキッド!」

 ウィンと呼ばれた青年は背後を振り返って抗議する。

 と、キッド……長い銀の髪を後ろで束ねた少年はフン、と鼻を鳴らした。

「お前ぇ、ばっかじゃねーの?驚いて固まってる奴に、イキナリ声かけてどーすんだよ。……よお、大丈夫か、お前ぇ?」

 そう言いながら、少年は月夜の前で手をヒラヒラさせた。

「あ……え?」

 いきなりの砕けた口調に、月夜はきょとん、とする。

 と、青年が慌てたようにキッドの腕をつかんだ。

「こ、こらキッド、創造神様になんて口……」

 が、少年はうるさそうに手を振って腕をふりほどき、再び月夜に目を向ける。

「いーんだよ、これで。……お前ぇもその方が気が楽なんだろ?どう見ても『神様』てぇより、どこにでもいそーなトロそうな姉ちゃんだもんな、お前」

「あ……」

 その少し乱暴に、どこか投げやりに言う彼の口調の影に、自分を気遣う優しさを感じた月夜は、初めてにっこりと微笑む。

「……うん。その方がいい。えと……あなた、名前は?」

「キッド」

「あなたもダルスの人?」

「当たり前だろ、この格好のどこ見て違うって言うんだよ?あったま悪ぃーなぁ、お前」

 小馬鹿にしたように言いながら、それでも彼の目は無邪気で楽しげだ。

 まるで新しいおもちゃを見つけてはしゃぐ子供のように、彼は月夜にちょっかいを出さずにはいられないらしい。

 好奇心も露わな表情をして、彼は月夜をためつすがめつする。

「なぁ、お前、本当に創造神なのか?この幻地球を創ったって、ほんとか?」

「え?えと……」

「創造神って、何でも創れるんだろ?この世界の神も、太陽も星も空も宇宙も、全部お前が創ったんだろ?なあ」

「あ、あの――」

 特別、自分の力、なんてものに自覚のない月夜は、どう答えていいかわからない。

 言葉に詰まったまま返事を考えていると、ユリウスが苦笑しながら口を挟んだ。

「だめですよ、キッド。創造神様が困っていらっしゃいます。……失礼しました、創造神様。何も覚えてはいらっしゃらないのですね?最長老が申しておりました、この世界を創り賜うた創造神様は、この世界とは別の次元に住んでいらっしゃるのだと。そして別の次元にいらっしゃるからこそ、創造神様は神として在り得るのだと。……とにかく我らとおいで下さい、創造神様。この世界の全ての神官を束ねる最長老が、創造神様をお待ちなのです」

「え、あ、でも……」

「ちょっと……ちょっと待ってよ」

 未だ混乱から立ち直れない様子で、聖が呟く。

「どういうことか説明してよ月夜姉さん。一体、どうなってるのさ?創造神って、幻地球ってなに?僕たち、一体どうしちゃったのさ?」

「ひぃ君」

 月夜は心細げに自分を見つめる弟に、優しく微笑む。

「うまく説明してあげられればいいんだけど……私がいつも空想して、一人でお話作って遊んでいるのは、ひぃ君も知ってるわよね?」

「うん。いつもボーッと考え事ばっかりして、電柱にはぶつかるわ人波には流されるわ、階段は踏み外すわ何もないところでコケるわ、危なっかしくって、いつも見てられないよ」

「うわ……マンガみてぇ」

 キッドの呆れた呟きが聞こえる。

 月夜は微かに赤くなりながら、それでも続けた。

「うん。それでね、私ね、そのお話を作る時ってね、いつも同じ世界を舞台にしていたの。私、ファンタジーとかおとぎ話とか好きだから、神様や天使様や、妖精、聖獣、魔物、そんな不思議な生き物たちがたくさん出てくるお話作ってた。それが……その世界の名前が、幻地球っていうの」

「えっ……で、でもそれって、単なる偶然じゃ……」

「ううん」

 月夜はきっぱりと首を振る。

「だって、他にもあるんだもの。次元を司る神マルドゥク。神殿を守る戦士……神官戦士隊(ガーディアン)。二つとも私が創り出したキャラクターよ。他の神様の名前だって言える。月の女神はルナー。太陽の神はリオン。星を司っているのはエストア。湖の神はフォンティーヌで大地の神はイリス。……そうでしょう、ユリウスさん?」

「……はい」

 ユリウスがゆっくりと頷いた。

「それに、あの魔物」

「あれにも覚えがあるの!?」

 愕然とした聖の声に、月夜は頷く。

「今までは、頭の中でしか考えたことなかった。実際に見たことなんてあるわけないからわからなかったけど、でも……二つの頭。二つの尻尾。赤く光る目と大きな黒い体。あれが私の創造した物であるなら、きっとあの魔物は……


「「ヘルハウンド」」


 月夜と、そしてユリウスの声が重なった。

 月夜はゆっくりとユリウスを振り返り、そして再び聖に目を向ける。

「……ね?」

「そんな……」

「ちょっと待ってよ、月夜」

 と、今度は桜華が声をかけた。

 元々、パニックだとかストレスだとかに強い体質の桜華は、聖と違ってしっかりと落ち着いている。

「要するに何、ここはあんたの想像上の……架空の世界だって、言いたいわけ?」

「うん」

「ちょっと待ってよ、それっておかしいじゃない。ここが、あんたの想像上の世界だとするなら、よ。それなら、なんであんただけじゃなく、私達までここにいるの?私達は幻じゃない、あんたが見ている夢の産物じゃないのよ。それに、自分の創造の中の世界に迷い込むなんて変よ。異常だわ」

「そうですか?」

 と、ユリウスが口を挟んだ。

「あん?」

「ここは、架空の世界。それは創造神様の世界では、ということですよね?でも、現に私達はこうして生を受け、この地に生きています。今、あなた方の前にいる私は、決して幻ではありません。つまり、この世界は創造神様の想像上だけに存在する世界ではない、ということです。……我らが奉るマルドゥク神が司るのは次元の扉。この扉の向こうには、我らの想像もつかない世界が存在すると言われています。例えばそれが、創造神様の精神の中だったとしても、何ら不思議はないと思いますが」

「そんな理屈……」

 根が現実主義の桜華には、魔物だとか架空の世界だとかは、そう簡単に受け入れられる話ではない。

 あからさまに考えを否定しようとする桜華に、しかしユリウスは辛抱強く言った。

「理屈ではありません。これが現実なのです。……そう、もしかしたら私の考えは間違っているのかもしれない。けれど、現にあなたがここに存在し、我々が目の前に立ち、こうして話をしているのは、紛れもない現実。この現実を……あなたは否定できますか?」

「そ……れは……」

 反論の糸口を失い、桜華は黙り込む。

 確かに、その通りなのだ。

 彼女が幾ら否定しようと、反対しようと、目の前にあるこの現実はどうしようもない『事実』で……。

「あーっ、もう!」

 とその時、イライラした様子の陽南海が大きな声を上げた。

「陽南……」

「陽南ちゃん」

 驚いたような月夜達の顔に、陽南海は片方の手を腰に当て、もう片方の人差し指を立てながら言う。

「いーじゃない、細かいことはどうでも!とにかく、ここがどこだかわかったんだし、お姉ちゃんが超能力者じゃなかったってこともはっきりしたし。他になにが必要なの?原因だとか理屈だとか、そんなものどうでもいいでしょ!あたし達がここにいることは、どう頑張ったって変えようがないんだから!」

「陽南海……」

「桜華姉ちゃん。お姉ちゃんが言ったんだよ?ここでパニくったって、状況は変わらないって。どうしてこんなことになったんだろう、なんて考えてる暇があったら、もっと前向きに考えよう?まだ、元の世界に帰れなくなった、って決まったわけじゃないんだから。ね?」

 そう言って明るく笑う陽南海。

 月夜は、思い出したようにユリウスを振り返った。

「あの、ユリウスさん?」

「何でしょう、創造神様?」

「あ、いえ――あの、その『創造神様』って止めて下さい。何か息が詰まっちゃいそう。月夜、でいいですから。……って、あ、そうじゃなくて……あの、次元の扉って言いましたよね?その扉の向こうには違う世界があるって――それって、その扉を抜ければ、元の世界に帰れるってことですか?」

 月夜の問いに、ユリウスは一瞬驚いたように息をのんだ。

 そして、はぁっと大きいため息をつく。

「ユリウスさん?」

「……本当に何も覚えてはいらっしゃらないのですね、創造神様」

「だから、その創造神様っていうのは止めて下さいってば。……何がですか?」

「次元の扉の言い伝えのことです」

「えっ……」

 驚く月夜に、キッドが呆れたように口を挟んだ。

「……『地の果てに二つの扉ありし。そは神々の住まう場所へと通ずる道。西の果てより東の果てへと旅せし者、その扉を開く黄金の鍵を得ん。汝、開く事なかれ。神々へ通じる扉、そは偉大なる力の満ちる場所。次元の扉開かれし時、神々はこの地に降臨し、すべての命は無へと還るだろう。……この地に住まいし、神によりて創られし者たちよ。ゆめゆめ、次元の扉開く事なかれ。黄金の鍵、そは滅びの門を開く鍵なり』。……これがスタルト神殿に古くから伝わる、次元の扉についての言い伝えだよ。この世界に住んでる奴なら、ガキだって知ってる話だぜ。なんでこの世界を創ったあんたが知らねぇんだよ」

「そ、そんなこと言われても……覚えてないもん、そんなの……」

 俯いてぶつぶつと呟く月夜。

 と、栗色の髪の青年が慰めるように笑った。

「いいんですよ、創造神様。最長老様が仰ってました、いかな創造神様と言えど、本来在るべき筈のない場所へ来れば、何かしらの代償を支払うはずだって。きっと、次元の扉を抜けたとき、創造神様の記憶は失われてしまったんですよ。だから、お気に病むことはありません、創造神様」

「……創造神様って呼ばないでって言ってるのに……」

 ぐすっ。

 と、月夜がしゃっくりあげた。

「えっ……あ……」

「私は普通の女の子なのに……来たくて来たわけじゃないのに……創造神様なんて呼ばれたくないのに……私が創った世界なのに知らない物ばっかりだし……そりゃ、頭の中で全部が全部うまく動いてくれたことなんてなかったけど……だからって何も知らない設定が出てくるなんて、そんなのズルイよ……」

「あ、あの創造神さ……あ、じゃなくて、えっと、その……つ、月夜、さん?」

「忘れたんじゃないもん……覚えてないわけじゃないもん……だって、全然知らないんだもん。次元の扉なんて、私創った覚えないもん……スタルト神殿なんて知らないもん……ふっ、ふえぇっ……ぐすっ……」

「あっ……わっ、あ、いやその……えっと……な、泣かないで下さい創造……あ、えっと、つ、月夜さん。その……と、とにかく神殿へ行きましょう。ここは未だ人の手があまり入ってなくて、魔物なんかも多く棲息している森なんです。長くとどまっていると危険ですから……ね?」

 わたわたと踊るように手をぱたぱたさせながら、青年は言う。

 と、ユリウスも頷いた。

「ウィンの言うとおりです。……さあ、月夜さん。ご家族の皆さんも。道中は我々ダルス隊とスタルト神殿の護衛兵たちがお守りいたしますので。……さあ」

「どうします?あなた」

 と、今までずっと黙っていた四季子が声をかけた。

「うーむ……」

 一年はしばらく考え込む。

 が、彼はやがて頷いた。

「ここでこうしていても、何も始まらんのは確かだ。それに、もう一度あの魔物が襲ってこないとは限らないし。……ここは、ひとまず彼らの言葉に従ってみよう」

「はい」

「では、皆さんこちらへどうぞ。馬車をご用意しております」


「うわ、ふっかふかだぁ、このクッション」

「ほんと、すごく座り心地がいいわね」

 陽南海と桜華が嬉しそうに言う。

 聖は未だ俯いている月夜に声をかけた。

「姉さん、大丈夫?」

「う……うん。ただ、何かちょっと……疲れただけ」

 聖が肩に置いた手にそっと力を込めると、月夜はぐったりと寄りかかってきた。

 その額には僅かに汗が浮かび、浅い呼吸を繰り返している。

「ね……姉さん?」

「どうかしたんですか?」

 と、その時、栗色の髪の青年が馬車をヒョイ、とのぞき込んだ。

「あ、えと……」

「ああ、オレはウィンって言います。聖さん……でしたよね、月夜さん、どうかしたんですか?」

「あ、あの、何か疲れたって言って……その、ぐったりしてて様子が……」

「え?」

 そう言って僅かに眉をひそめ、ウィンは馬車に乗り込んでくる。

 そして月夜の前にかがみ込むと、彼はすぐにユリウスを呼んだ。

「ユリウス!ちょっと来てくれ!」

 その呼びかけに、先頭の護衛兵たちと打ち合わせをしていたらしいユリウスが駆けつける。

「どうしました、ウィン?」

「彼女が……月夜さんの様子がおかしいんだ。多分……魔力過多じゃないかと思うんだけど」

「魔力……過多?」

 不思議そうな聖に、ウィンは頷く。

「ええ、魔力を使い慣れない人間が急激に強力な魔法を使ったりすると起こる症状なんです。コントロールのきかない魔力が体を巡って、よけいな負担を与えてしまうんですよ。……あの、月夜さん、魔法を使ったりしたんですか?」

「……あ」

 聖はさっき魔物に襲われたときのことを話してきかせる。

 ウィンと、月夜の様子を見ていたユリウスが頷いた。

「どうやら間違いなさそうですね。ちょっと待っていて下さい、すぐに楽にして差し上げます」

「ユリウスさん?何を――」

「しーっ、大丈夫ですよ、聖さん。彼は治癒魔法と防御魔法の使い手なんです。魔力過多ぐらい、すぐに直せますから」

「あ、はあ……そうなんですか」

 感心したように頷く聖。

 見ると、ユリウスは何事がブツブツと呟き、その右手の平から、当てている月夜の額へと淡い光が流れ込んでいく。

 比例して、月夜の息づかいが次第にゆっくりと、落ち着いてきた。

「姉さん?」

「もう大丈夫ですよ、聖さん。あとはしばらく、このまま眠らせて差し上げて下さい。体力の回復には、やはり睡眠が一番ですから」

「は……はい。あの、ありがとうございました」

 聖が頭を下げると、ユリウスは微笑む。

「いえ。創造神様をお守りするのが我らの役目ですから。……では、行きましょうか、ウィン」

「ああ」

「あ、あの!」

 と、聖は咄嗟に声をかけた。

「はい?」

 応じて振り返った二人の男に、聖はちょっと躊躇った後、意を決したように言う。

「その……さっきは、すみませんでした。疑うようなこと言ってしまって。あの……僕、見たこともない変な生き物に襲われて、その上、姉さんは魔法なんて使うし、その……ちょっと混乱してて……僕……」

「ああ、そのことでしたら」

 と、ユリウスは頭を振った。

「お気になさることはありません。我らの方こそ、何も知らないあなた方に突然ぶしつけなことを申しましたので……何か他にもありましたら、遠慮なく仰って下さい。我らはその為に、ここにいるのですから」

「はい」

「では」

 そう言って、二人の男は自分の馬へと歩いていった。

「……何だかいい人そうですわね」

「ああ、そうだな」

 一年と四季子がそう言って頷きあう。

 その隣に座っている陽南海は、何が面白いのか馬車の窓に顔をべたっと張り付けて、外を一心不乱に見つめていた。

「……どうしたの、陽南海?」

 訝しげに桜華が尋ねると、陽南海は目をきらきら輝かせて振り返る。

「ねえ、お姉ちゃん。あれ、私にも乗らしてくれないかなあ?」

「へ?」

 桜華が視線で追った、陽南海の指さす方向には一頭の見事な黒馬がいる。

「ねえ、私、馬に乗りたい!馬車じゃなくて、馬がいい!ねえ、お姉ちゃん、あの人達に頼んでみてよ、ね、お願いっ」

「あ、あんたは……」

 桜華はお気楽に笑う妹の言葉に頭を抱えた。

「私達は、遊びに来てるわけじゃないのよ?陽南海。わかってるの?」

「わかってるよぉ、そんなこと!いーじゃん、乗りたいんだもん、私っ。ねえ、いいでしょ?お父さん、お母さん」

「それは……」

「それは私達が決めることではないでしょう?陽南海」

 と、四季子が穏やかに言う。

「あの人達は、私達を守るために馬車に乗せてくれているのよ。何があるかわからないのに、馬に乗っていたら危険でしょう?」

「で……でもぉ」

「第一、お前は馬になど乗れないじゃないか。あんまりわがままを言うもんじゃないぞ、陽南海」

「……ぶぅ……」

 両親ともに諫められ、陽南海はぷぅっと頬を膨らませる。

 が、それでもやっぱり我慢が出来なかったのか、彼女は

「もういい!自分で頼みに行くっ!!」

 と言って馬車を飛び出してしまった。

「あ、こら陽南海!」

 家族達が慌てている間に、素早く黒馬の所へ駆け寄る陽南海。

 自分を真っ直ぐに見つめる黒馬の瞳に、陽南海はおっかなびっくり近寄っていった。

 どきどきと弾む胸を押さえ、陽南海はそろ~っとその手を馬にさしのべる。

「危ないぞ」

 と突然、背後から声がかかった。

「きゃっ!」

 思わず飛び上がった陽南海が振り返ると、そこには蒼い短髪をした青年が立っていた。

「あ……えっと……」

「オレはシオン。お前は……陽南海とか言ったな。これに乗りたいのか?」

 シオンはスッと黒馬の前に歩み寄り、その鼻筋をなでてやりながら言う。

「うん!」

 陽南海が頷くと、シオンはしばらく考え込んだ。

「あの……ダメ?」

「……この馬はこれで結構気性が荒い。そんなびくついた調子では、乗りこなすのは難しいだろうな」

「そ、そうなんだ……」

 傍目にもはっきりと肩を落とす陽南海。

 と、シオンは微かにその目を細め、言った。

「どうしてもと言うなら、オレが乗せてやるが」

「えっ、ほんと!?」

 途端に、陽南海の顔がパアッと輝く。

「しかし、お前たちを守るのがオレの役目だからな。ユリウス達は許してくれんだろうな」

「そうだよね……」

 再び肩を落とす陽南海。

「もっとも、オレと一緒ならユリウスも考えるかもしれんな」

「えっ!?」

 パアッ。

「だが、オレの方も馬車を警護しながらではやりにくいしな」

「うん……」

 ガックリ。

「しかしこれだけの護衛兵がいれば、そう神経質になることもないかもしれんな」

「!!」

 パアッ。

「とは言え、ここは魔物の多く住む森だ、何があるともわからんし」

「……」

 ガックリ。


「……プッ」

 と、突然シオンは吹き出した。

「!?」

 肩を落としていた陽南海が見上げると、何がおかしいのかシオンは片手で顔を覆い、くっくっと肩を震わせながら必死に笑いをこらえている。

「あ……あの……?」

 わけがわからず陽南海がそう声をかけると、シオンはやっと顔を上げた。

「すまん……お前の表情がよく変わるのでつい……」

「……へ?」

「いや、よくそんなに表情がコロコロと変わるものだと思ったら、つい、その……」

「あ」

 陽南海はやっと事情を飲み込んで憮然とした。

「……からかってたんだ」

「す……すまん」

 未だ笑いの中から抜け出せないのか、シオンは思いだしたように口に手を当てている。

「ひどい」

「すまん」

「ひどいっ、あたしは真剣に頼んでたのにっ!からかうなんて、ひどいっ!」

「あ、いやその……」

 と、シオンは慌てたように陽南海の腕をつかんだ。

「?」

 疑わしそうな目でシオンを見る陽南海に、彼は弁解するように顎をしゃくった。

「乗れ。オレが乗せてやろう」

「えっ……ほ、ほんとに?ほんとにいいの?」

「ああ。元々、オレたちの周囲にはユリウスが結界を張るんだ。そう神経質になる必要はない。……さあ」

「うんっ!!」


「いいなあ」

 一部始終を窓から見ていた聖はそう呟いた。

「僕も馬って乗ったことないんだよな……」

「じゃあ、乗るか?」

「!」

 いきなり背後から予想もしなかった声がして、聖は慌てて振り向く。

 と、そこには何かトレイのような物にグラスを人数分載せたキッドがいた。

「あ、えっと……キッドくん、だっけ」

「キッドでいーよ。……馬、乗りたいのか?だったらオレが乗せてやるぜ。――あ、ほら、コレ。アイスティーだってよ、それ飲んで少し気分を休ませろってユリウスの奴が」

「あ、ああ、ありがと……あの、本当にいいの?僕、馬なんて乗ったこと無いんだ、邪魔にならない?」

「ばぁか。オレを誰だと思ってんだ?神官戦士の中でも精鋭の名を戴くダルスのキッドだぜ?んなもん、邪魔のウチに入るかよ。――ほら、乗るんならさっさと行こうぜ。そろそろ出発だからよ」

「あ、うん!」


「……では、よろしいですね?」

 陽南海がシオンと、聖がキッドと馬に乗っているのを確認し、月夜、桜華、一年、四季子の4人が馬車にいるのを確認すると、ユリウスはそう言って護衛兵たちに合図を送った。

「それでは、出発します」

 そして、馬車は数十人の護衛兵達に取り囲まれ、一路神殿を目指して走り始めた――。


「……さん、ねえさん……姉さん」

 誰かが呼ぶ声がする。

 自分の肩をそっと揺する、躊躇いがちな手。

「ん……」

 柔らかな感触の波の中から、意識がゆっくりと引き上げられていく。

 月夜はもう一度だけ、名残惜しげにその波をぎゅっ、と抱きしめ、そしてそっと目を開けた。

「んー……」

「姉さん……起きた?」

 心配そうにのぞき込む、ライトブラックの瞳。

 柔らかな猫っ毛のグレイがかった黒髪。

「あ……ひぃ君……」

 月夜は自分に覆い被さるようにして顔をのぞき込む、弟の姿に声を上げた。

「え……と、あ……私……?」

 気がついてみれば、そこはベッドの上。

 ゆったりと波打つ、肌触りの良いシルクのシーツ。

 幾重にも重なったふわふわの羽枕。

 自分がひどく豪奢な寝室に寝かされていることを知った月夜は、慌てて飛び起きた。

「あ……」

 が、途端に激しい目眩が彼女を襲う。

「姉さん!」

 慌てたように聖が彼女の背を支え、再びゆっくりと寝かしつける。

「だめだよ姉さん、そんなに急に飛び起きちゃ。まだ回復しきってないって、ユリウスさん言ってたから」

「え……?」

 天蓋付きの、普通に暮らしていれば滅多にお目にかかれないだろう、とびきり贅沢なベッドの上で月夜はきょとん、とする。

 何も状況を把握していないらしい姉に苦笑すると、聖は改めてそのベッドに腰掛けた。

「姉さん気を失ったんだよ、馬車の中で」

「え……あ……」

 だんだんと、月夜の脳裏に記憶が蘇ってくる。

 馬車に乗った途端、張りつめていた糸が切れたように、激しい脱力感が彼女を襲った。

 そして体の中を駆けめぐる、熱く重い、鉛のような感覚。

 鈍痛。目眩。吐き気。

 その全てが一気にフィードバックしてきて、再び真っ青になった月夜の、そのグレイがかった柔らかな前髪を、聖は優しく掻き上げた。

「ひぃ君……」

「大丈夫、あの後ユリウスさんが姉さんに治療施してくれたんだ。魔力過多っていうらしいよ。使い慣れない魔力を急激に使ったから、体がびっくりしたんだってさ。……だから、もう少し寝てた方がいいって。僕たち、これからユリウスさんたちの案内で、この神殿の中とか幻地球のこととか教えてもらいに行くんだ。姉さんには護衛の人がついててくれるから、大丈夫だと思うけど……一応、目を覚ました時に不安に思うとあれだから。それだけ、言っておこうと思って」

「ん……そう……なの……わかった、行って……らっしゃ……い……」

 月夜の瞳がだんだんと閉じていく。

 驚いて一瞬は目を覚ましたが、やっぱり体は未だ回復していないのだろう。

 もう既に殆ど夢の中にいる月夜に微笑み、もう一度だけ彼女の額を優しくなでると、聖はそっと部屋を出ていった。


「ん――」

 次に月夜が気づいた時、外は既に茜色に染まっていた。

「うそ……」

 ついさっきまでは朝だった筈なのに……私、もしかして半日以上、寝てた?

 思わず呆然とそう呟いた月夜の耳に、コンコン、という軽いノックの音が響いた。

「はい?」

 誰だろうと思う間もなく咄嗟に振り返って月夜が答えると、ドアの向こうに栗色の髪の青年が現れる。

 さっきと違って爪先まで隠れてしまうほど長い丈の、微かに青みがかった絹の聖衣を着た青年は心配そうに部屋をのぞき込んでいた。

「あ……えと……」

 月夜の戸惑いを察したように、青年はにっこりと微笑む。

「オレはウィンっていいます。……あの、体の調子はどうですか?もし大丈夫なようなら、そろそろ次元の間にお呼びするようにと、最長老様方が……」

「あ、は、はい!もう大丈夫です!」

 そう言って、月夜は飛び起きる。

 と、ウィンは安心したように微笑みながら、手に持っていた服を差し出した。

「……これは?」

「着替えです。あの、差し出がましいとは思ったんですが、その……いつまでも夜着のままじゃあれかな、って思って」

 そう言ってウィンが差し出したのは、肌触りの良さそうなコットンの白いワンピースだった。

「……すみません、本当は侍女が身の回りのお世話をしなくちゃいけないんですけど、何しろこの神殿、西の最果てって呼ばれてるくらい辺鄙な場所にあるもんで、侍女とか下男とかが集まらなくて。あの、一応、夫人と一緒に街へ行って選んできた物なんで大丈夫だと思いますけど、もし好みじゃなかったら言って下さい。もう一度、買ってきますから」

 しかし月夜は笑って首を振った。

「ううん、これ可愛い!私、こういうシンプルなワンピース好きなんです。ありがとう、ウィンさん」

「あ、いえ……気に入ってもらえて良かった。あの、オレ外で待ってるんで、着替えたらお願いします」

「はい」

 ウィンが外へ出ていくのを見届けると、月夜は服を持ってきょろきょろと辺りを見回した。

「んーと……あ、あそこがバスルームかな」

 部屋の隅に隣へ続くオーク調のドアがある。

 ライトブルーの色調でまとめられたバスルームの鏡の前に立つと、月夜は着ていたネグリジェを脱ぎ捨てた。

 本当はお風呂に入って土埃にまみれた髪を洗いたいところだったが、今は外でウィンが待っている。

 下着姿のままで髪をとかし、手早く顔を洗ってワンピースを着た月夜は鏡に映る自分の顔を見つめ、一つ大きく息を吸った。

 これから何が待って居るんだろう。

 自分に会いたいと言っている最長老達……彼らは、一体自分に何を望むのだろう。

 自分で創り上げた物とは言え、その大部分が別の物になってしまっている世界――幻地球。

 いきなり放り込まれた異世界で、この先自分たちはもとの世界に帰れるのだろうか。

 家族といる時、人と話しているときは紛れていたそんな不安が、一人になるとどっと押し寄せてくる。

 しかし月夜はどんどん悪い考えで頭がいっぱいになってしまいそうな自分に、辛うじて微笑みかけた。

「……大丈夫。私は一人じゃない。みんながいるから、大丈夫。――頑張ろう。ね」

 そして、月夜はバスルームを出た。

「あら?」

 いつの間にか、ドアの外に一足の靴が置かれていた。

 桜の花びらのようなベビーピンクのローヒール。

 多分、月夜が着替えている間にウィンが置いていったのだろう。

 ネグリジェの代わりには服を。素足には可愛い靴を。

 月夜はウィンの自分に対する気遣いに、今更ながら微笑んだ。

「……あ」

 外では、ウィンが壁にもたれながら待っていた。

「月夜さん」

 眩しそうに自分を見つめるウィンに、月夜はつま先でトントン、と軽くリズムを刻む。

「ありがとうございますウィンさん、靴(コレ)。私、今まで裸足だったのすっかり忘れてて……嬉しかった」

「ああ、いえ。皆さん裸足で少なからず怪我をなさってるようだったので……傷はユリウスの呪文ですぐ治せますけど、怪我しないで済むならその方がずっといいし。――この神殿、絨毯とか敷いてないですから、冷えますしね」

 そう言って、ウィンはすっ、と自分の腕を差し出した。

「え?」

 月夜が首を傾げると、ウィンは微笑む。

「一応、エスコートするようにと言いつかってるんで。どうぞ」

「あ……は、はい」

 恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら、それでも月夜はウィンの腕に自分の腕を絡ませる。

 そんな月夜を優しい眼差しで見つめながら、ウィンは神殿の微かに青みがかった大理石の廊下を歩き始めた。

「……あの」

「はい?」

 『次元の間』へ向かう廊下を歩きながら、月夜はふと思いついて尋ねる。

「次元の間、って何が在るんですか?最長老様は、私に何を?」

 月夜の問いに、ウィンは暫く考え込む。

「うーん……オレも詳しいことは知らないですけど……多分、最長老様方は月夜さんたちのこれからのことを考えて下さってるんだと思います。その、偶然にしろ事故にしろ、この世界の創造神であるあなたが、意図的にではなくこの世界にやってきたってことは、それなりに大変な事態なんだと思うんです。だから、少なからずこの世界にも何らかの影響が出ると思うんですよね。最長老様方は、それを心配なさってるんじゃないかと……それに、創造神であるあなたの方にも、何らかの負担がかかってるってことは、今回のことではっきりしましたし」

 ウィンが月夜の倒れた原因について言っているのは明らかだった。

「まさかこの世界の魔力の源である筈のあなたが、魔力過多でお倒れになるなんて思いませんでした。あの『ヘルハウンド』の群に襲われて全員生き延びるなんて、それはさすがに創造神様だな、とは思いましたけど」

「あ……そのことなんですけど。私、実を言うと全然覚えてないんです。その、自分が何をしたのか。ヘルハウンドに襲われて、死にたくない!!って思ったところまでは覚えてるんですけど、その後が――。体の中に何かが生まれて、その力が私を飲み込んで、それで……次に気づいたときには、ひぃ君が泣きそうな顔して私を見てて……私、何をしたんですか?」

「消滅させたんです。ヘルハウンドの存在、その物を」

「……は?」

「だって、あなたは創造神でしょう?だから、あなたに襲いかかったヘルハウンドを最初からいなかったものとして消滅させたんです。……古代の、創造神について記された本に書いてありました。創造神の力、その一番恐怖すべきは全ての魔法を操る強大な魔力でも、恐ろしい異形の者を生み出す力でもなく、ただこの世に生まれきた生命達を、存在そのもの、魂さえも消滅させられる抹消(イレース)の力だって。……凄い、ですよね。魔法や剣で攻撃し、倒しても、魂の復活さえ成されれば生き返ることだってある。でも、最初からいなかった生き物を復活させるのは不可能ですから。まさに無敵、ですよね」

「あ……私、そんなことを……」

 抹消。

 確かに、覚えがある。

 書き始めたときにはいた筈のキャラクター。

 でも、何度も校正を重ねているウチにその物語の中から削除されたキャラクター。

 それは、確かに物語の中の生命達からすれば最も恐ろしい力かもしれない。

 たとえ死んでも、魂があるなら輪廻がある。

 いつか、もしかしたら生まれ変われる、そんな希望も持てる。

 しかし最初から存在していなかった、とされてしまえば、それは絶対に不可能になるのだ。

 生まれてこなければ、復活も再生もあり得ないのだから。

「あ……」

 そんな力を、私は無意識に使ったの?

 自分が助かりたい、その一心で自覚もなく、そんな力があることさえ知らなかった私が。

 コントロールも出来ず、意識もなく。

 もしあの時、その力が暴走していたら……そしたら、私はこの世界その物を消滅させていたかもしれない……?

「月夜さん?」

 ウィンは、急に体を小刻みに震わせ始めた月夜に驚いて立ち止まった。

「大丈夫ですか?やっぱり、まだ体の調子が悪いんじゃ……」

「いいえ――いいえ」

 月夜は自分で自分の体を抱きしめ、首を振る。

「大丈夫です、大丈夫――ただ、怖くて……私、私なんてことを……せっかく生まれてきた生命を、たとえそれがどんな生命でも、存在その物を奪ってしまうなんて……いくらこの世界が私の創り出した世界でも、そんなの許されることじゃない……」

「月夜さん……」

 ウィンは、自分が不用意に言った言葉が、どれだけ彼女を傷つけたか知った。

 ウィン達にとって。

 自分に仇成す魔物達と戦い、その生命を奪うこと、それは日常……とまでは行かないが、そう珍しいことではない。

 自分たちだって、魔物と戦うときは常に命を危険に晒しているのだし、互いに互いの目的のために戦う、真剣勝負だと思っている。

 しかし彼女は女の子。

 創造神とは言え、強大な力を持っているとはいえ、彼女は自分が創造神であるという自覚も認識も持ち得ない、普通の女の子なのだ。

 そんな彼女に、命の存在さえも左右できるほどの力がある、そしてその力を行使したのだ、などと――そんなことを言えば、彼女が脅え、傷つくのは明らかだったのに。

「……」

 ウィンは少しの間ためらったものの、意を決して震える彼女の肩をぐっ、と抱き寄せた。

「!」

 月夜がはっと体をこわばらせる。

 ウィンは彼女の頭を優しく何度もなでながら囁いた。

「……そんなに自分を責めないで。あなたはただ、身を守っただけです。この世界を創り出した人に言うのも何だけど……みんな、平等に命を持ってる。だから、その命を守る権利も平等なんです。ヘルハウンド達は、あなたの命を脅かした。そして、あなたはそれに抗い、自分の身を守った。……それだけです。それだけなんです――」

「ウィン……さん……」

「だから、そんなに自分を責めることはありません。あなたは生きたいと願った、死にたくないと願った。その為に力を使い、そして願いを叶えた。それは、決して誰に咎められることでもありません。……生命を持つ者が生存を望む……それは、全ての本能の源なんですから」

「……」

 徐々に、月夜の体から力が抜けていく。

 自分の体を抱きしめていた腕が、少しずつおずおずとウィンの聖衣の胸元をつかむ。

 肩に顔を埋め、微かにしゃくりあげ始めた月夜の体を抱いたまま、ウィンは暫くそうやって頭をなで続けていた。


――それから、どれくらいの時が流れただろう。

 気づいてみると、あたりはすっかり闇色に染まり、廊下は仄かな月明かりに浮かび上がって大理石の蒼をより一層強調させている。

「……落ち着きましたか?」

 体の震えがおさまったのを感じ、ウィンが声をかけた。

 月夜は微かに頷く。

 本当は、すぐにでも次元の間へ向かわなければならないのに、何故か動く気にならない。

 ウィンの腕の中にいる、その温もりが……初めて感じるはずなのに、何故か他の全てがどうでもよくなるくらい絶対的な安心感を感じるその温もりが心地よくて、月夜はもう暫くこのままでいたい、と願いながら彼に体を預けていた。

 ウィンの方も、彼自身がそう望んでいるのか、或いは創造神の望みを感じたのか、そのまま動こうとしない。

 やがて神殿の外から澄んだ虫の声が聞こえ始める頃になって、月夜はやっとウィンから少しだけ、身を離した。

 一瞬だけ彼の腕に力がこもったように感じたのは、もしかしたら気のせいだったかもしれない。

 すぐ間近、夜に染まってその輪郭しか見えない相手の顔を見ながら、二人は微笑みあった。

 と、その時だった。

「……ウィン!そこにいるのウィンか!?」

「――月夜姉さん!」

 二つの年若い声が響き、バタバタッという騒々しい足音がたいまつの炎と共にこちらへ近づいてくる。

「!」

 二人が慌てて離れた直後、キッドと聖が駆け寄ってきた。

「ひ……ひぃ君。どうしたの?」

 ドキドキと激しく脈打つ鼓動。

 うわずった声と真っ赤に染まった頬に気づかれないかとひやひやしながら、月夜は弟に声をかけた。

 と、聖は呆れたように目を見張る。

「何言ってんだよ月夜姉さん。それはこっちの言う台詞だろ?……ウィンさんが迎えに行ったのに、いつまでたっても姉さん、来ないから。心配して迎えに来たんだよ。もしかして迷子になってたら大変だから」

「迷子、って――オレがついてるのに?」

 ウィンが苦笑しながら言うと、聖は甘い、と指を振る。

「ウィンさんは姉さんを知らないからそんなこと言うんだよ。何しろ角一つ曲がっただけで方向感覚めちゃくちゃになる人なんだよ?昔、入学したてだったってこともあるけど、3階建てのしかも一棟しかない高校で、出口探してうろうろしてる姉さんを迎えに行った時は、さすがに呆れたよ」

「ひ……ひぃ君!」

 月夜が顔を真っ赤にしているところを見ると、あながち嘘でもないらしい。

 ウィンが思わず絶句していると、その背をキッドが蹴飛ばした。

「いてっ」

「なぁにぼーっとしてんだウィン。ユリウス達がさっきから待ってんだぜ?お前がついてながら、一体なにぐずぐずやってんだよ」

「あ、いや、それはその――」

 脅えて泣きじゃくってる創造神様を慰めるために今までずっと抱き合ってました、なんてさすがに言えるわけないウィンが黙り込んでしまうと、月夜が慌てて手を振る。

「あ、あの違うのキッド君。私まだフラフラしてるからゆっくりしか歩けなくて、歩いては休み、歩いては休みしてたから……ごめんなさい、心配かけちゃって」

 そう言って月夜が頭を下げると、キッドは不機嫌そうに横を向いた。

「――別にオレが心配したワケじゃない。迎えに来たのだって、聖がどうしてもって言うから……それに、オレはキッド、だ。君とかさんとか、そういう呼び方すんなよな」

「あ……ご、ごめんなさい」

「気にすること無いよ、姉さん」

 と、聖が幾分笑いを含んだ声で言った。

「こうは言ってるけど、ほんとは心配して気にしててくれてるんだよ。実際、迎えに来たのだってほんとはキッドが言い出したんだから」

「え?」

「っ!!よ、よけーなコト言ってんじゃねぇ、聖っ!」

 キッドが顔を真っ赤にして叫んだ。

「オ、オ、オレはただ、お前があんまりにも心配してうろうろ熊みてーにうろつき回るから……」

「はいはい、そーでした。……てワケだからさ、姉さん。そんなに気にすること無いよ。それより、早く行こうよ、最長老様達が待ってるよ」

「あ、うん」

 月夜が頷くと、聖は微笑んできびすを返した。

 そしてふと思いついたようにさっと彼女の耳元に口を寄せる。

「?何、ひぃく――」

「抱き合うんなら、廊下は止めて部屋の中でやった方がいいよ」

「!!」

 驚いて固まった月夜に、聖は笑う。

「いやー……姉さんも結構やるなあ、と思って。今までそういうトコ見たことなかったし……よかったよかった、姉さんもちゃんと大人だったんだよねえ」

「ひ、ひぃ君!」

 顔を真っ赤にして睨む月夜に、聖は笑いながらぽんぽん、とその肩を叩いた。

「大丈夫、別に父さんたちに言いつけるつもりはないからさ。僕だけの胸にしまっといてあげるよ。でも……これで少なくともしばらくは姉さんの保護者役しなくて済むんだね。ちょっと寂しいけど……うん、よかったよかった」

「もう!違うんだってば、ひぃく……って、え?」

 月夜は聖の最後の言葉に首を傾げる。

「しばらく?って――どういうこと?」

「……行けばわかるよ」

 そう言って聖は不思議な笑みを浮かべる。

「?」

 盛んに首を捻る月夜の背中に、大きな手があてがわれた。

「あ、ウィンさん」

「とにかく、行ってみればわかることです。行きましょう、月夜さん」

「あ……はい」

 やっぱり納得がいかない顔をしたまま、それでも月夜は歩き出す。

 この世界に散らばる神官戦士達、その全てを束ねる組織の長、最長老達が待つ『次元の間』へと――。


「やっと来たわね」

 月夜達が扉を開け、中へ入っていくと、桜華がため息をつきながらそう言った。

「お姉ちゃん」

「もうっ、月夜お姉ちゃんてば、遅いんだから!私、ずっとずっと待ってたんだよ」

 陽南海が退屈そうに口を尖らせる。

「ご……ごめんなさい」

 月夜は肩身を小さくして謝った。

――桜華達もみな、パジャマから洋服に着替えていた。

 それぞれが各自好みの服を着ているところを見ると、ウィンと一緒に街へ出かけたのは四季子だけではないらしい。

 ダルスの面々も、先ほどとは違う服を身につけていた。

 みなウィンと同じ、爪先まで隠れるような長い丈の聖衣を身につけ、それぞれ豪奢なアクセサリーを身につけている。

 それは先ほどの、上質ではあるが質素なイメージの聖衣と違い、いかにも厳かな雰囲気の漂う「正装」という感じの聖衣だった。

 と、ウィンが彼女を庇うように言う。

「申し訳ありません、オレの責任です。ユリウス、最長老様方、遅くなりました」

 そう言ってウィンが頭を下げると、ユリウスがふっと微笑んだ。

「いいえ、何事もなくて何よりでした。創造神様、お体の方はもう大丈夫ですか?」

「あ、ええ、はい」

 月夜は頷いて、周囲を見回す。

 まるで占い小屋のように薄暗く、明かり取りの小窓さえない部屋には、奥まったところに天幕のかかった一段高い祭壇のようなものがあり、その奥には分厚く赤い鉄門が見える。

 祭壇の中央には教壇のような台の上にバレーボールほどの大きさの水晶が置かれ、周囲の壁には蒼く夜光塗料のような光を放つ魔法陣が描かれて部屋を神秘的に浮かび上がらせていた。

「……!!」

 あたりをキョロキョロと見回していた月夜が、不意にある一点を見つめたまま硬直する。

 祭壇の奥の鉄扉。

 その向こうに身が凍るような強大な力を感じる。

 今にも扉を食い破って出てきそうなその力に、月夜は思わず二、三歩後ずさった。

「……どうかした?月夜姉さん」

 聖が訝しげに問いかける。

 月夜は黙って首を振った。

「何でも……ない。でも……怖い、あの扉の向こう……力が、渦巻いてる。この世界にあってはいけない……出してはならない力の波動が……」

 その時、ウィンがそばへ歩み寄ってきた。

 月夜は思わずその袖をしっかり握りしめる。

 彼女の手を握りしめ、ウィンは優しく言った。

「大丈夫ですよ、月夜さん。あの扉は決して開きません。このスタルト神殿だけの力では、開かないようになっているんです」

「そう、あれが開くことがあるとすればそれは、このスタルト神殿と東の果て、エンディオン神殿を旅した者が現れたときのみ。しかしエンディオン神殿もこのスタルト神殿も、この次元の間へは誰も入ることがないよう、厳しい警戒をしているんです」

 ユリウスの言葉に、月夜ははっとした。

「じゃ、じゃああれが……次元の扉なんですか……?」

「ふうん、お前やっぱ創造神なんだ。あの扉の向こうにあるもんなんて、オレたちだってわかんないのに」

 月夜の問いを肯定するように、キッドが言った。

「実際のとこ、オレ信じてなかったんだよな。次元の扉――滅びの門なんてよ。でも、お前がそう言うんだから、やっぱ開けちゃなんねー扉なんだな、あれって」

 気軽に言うキッドの言葉に、月夜は真剣な顔をして首を振った。

「ダメよ!開けちゃだめ、あれは……あの向こうにあるのはもの凄い質量のエネルギー……あれが今、この世界に放たれたら……この世界は保たない。……きっと、エネルギーに飲み込まれて、自己崩壊するわ……!」

 信じていたにしろ、信じていなかったにしろ、その言葉はダルスの面々を凍り付かせるのに十分だったようだ。

 自分たちが護ってきた扉。

 その向こうにある『滅びの力』。

 その力の正体をはっきりと明言されて、今更ながらに自分たちの職務の重大さを認識したのだろう。

 西の最果て、と呼ばれる地にありながら、どこまでも廊下の続く立派な神殿。

 不釣り合いなほど厳重な警備、たくさんの衛兵。

 それほどまでに護らなければならない理由が、この神殿にはある。

 少なくとも、この世界の破滅への扉、その一つがここにあるのだから。


――おお……我らが偉大なる創造神様――


 とその時、祭壇の中央に置かれていた水晶が微かに発光した。

 天上に向けて放射状に放たれたその光の中に、うっすらと数人の影が浮かび上がる。

「これは……」

「最長老様方です、創造神様。――最長老様、創造神様をお連れいたしました」

 ユリウスが月夜を影の前に導き、すっと跪く。

 影の一人が、揺らめいた。


――うむ……ご苦労だった。やはり我々の感じた異波動は創造神様のものであったか。創造神様、よくぞこの地、幻地球にご降臨あそばされました。全世界の神官を束ねる長として、謹んでご歓迎申し上げます――


「あ、あの……」

 月夜が戸惑ったように言うと、もう一つの影が揺らめく。


――よろしいのですよ、創造神様。あなた様が何も覚えていらっしゃらないことは、よく存じ上げております。それをお気に病むことはございません、いえ――創造神様が何も覚えていらっしゃらないと言うことは、今回のご降臨が必然ではなかったという証。創造神様がこの地に再びご降臨あそばされる時、それはこの世界の終末を意味する……その言い伝えが真実であるなら、むしろ、何も覚えていらっしゃらない、その事に我らとても安堵いたしております――


「は、はあ……そうなんですか」

 月夜が圧倒されながらそう頷くと、後ろでその様子を見ていた陽南海が、イライラした調子で進み出てきた。

「あ、陽南ちゃん」

「ねえねえ、最長老さん達!挨拶はもう済んだんでしょ?だったら、早くお姉ちゃんに全部説明して、早く出発させてよ。私、早く元の世界に帰りたいんだから!」

「え……出発……?」

 きょとんとする月夜に答えるように、ユリウスが頭を下げた。

「申し訳ありません、創造神様。ご家族の方がどうしてもと仰るので、皆様の今後のことを、先にご説明申し上げたのです」

「え、今後のことって……」


――創造神様。突然のご降臨でお疲れあそばされておられることは重々承知の上で、お願いがございます――


「は……はあ」


――創造神様のお力は混沌の力。この世界全ての源たる全能の力。そのお力がこの地に長く存在することにより、魔力の調和が崩れ、生態系が乱れ、ひいてはこの世界の均衡が崩れることが予想されます。創造神様がご降臨なされたことは、いわば突発的な事故。創造神様自らがお望みあそばしたご降臨でない以上、この地に長くとどまることは得策ではないと存じ上げます――


「そ……そうですね」


――そこで、創造神様に置かれましては一刻も早くこのスタルト神殿を旅立ち、エンディオン神殿へおいでいただきたいのです――


「は……エンディオン神殿へ、ですか?」

 そう言って不思議そうに聞き返した月夜は、彼らのいわんとしていることを察して息をのんだ。

「ま、まさか……次元の扉を開けって言うんじゃ……」


――その通りでございます――


 影が、一斉に頷いた。

「ちょ、ちょっと待って下さい!だって、だって扉の向こうにはあの力が在るんですよ?扉を開けるってことは、あの力を解放するってことなんですよ?そんなことしたら、この世界その物が――」


――ご心配には及びません。言い伝えにあるのは、この地で生を受けし者が扉を開けたとき、次元の扉は滅びの門となる、という物です。我々は、その言い伝えの意味を、神の力によって生み出された生命には、神の力を受け止めるだけの器がないからだ、と解釈いたしております。しかし、創造神様は次元の扉をお創りになった当のお方。危険はないかと――


「そ、そんないい加減な――」


――いい加減ではありません。現に創造神様は次元の扉を抜けてこの地にご降臨なされたではありませんか。スタルト神殿からエンディオン神殿へと旅せし者のみが開けるという次元の扉、その扉を抜け、創造神様がご降臨なされても、この世界は元のまま存在しております。ならば、エンディオン神殿の扉を抜け、創造神様が元のお住まいへ戻られても何ら影響はないと、我らは考えております――


「で、でも――」

 尚も後込みする月夜の肩を、陽南海が強く揺さぶった。

「とにかく!このままじゃ家に帰れないんだよ、月夜お姉ちゃん!私、元の世界に帰りたい。だから、だから出発しようよ!……そりゃあ、もしかしたら危険なのかもしれない。でも!でも、何もしなかったら何も起きないんだよ?お姉ちゃんがこのままここにいても、この世界を滅ぼしちゃうかもしれないんだよ?だったら!だったら、少しでも可能性のある物に賭けようよ、ねえ、お姉ちゃん!」

「陽南ちゃん……」

「陽南海の言うとおりだ、月夜」

「お父さん」

「私達は、特にお前は、このままここにとどまっているわけにはいかないんだろう?行動しなければ、問題は何も解決しない。ここでどうなるかわからない危険に脅えて、結局この世界を破滅させてしまうより、少しでも可能性のある次元の扉への旅をする方が得策だと思うよ」

「どのみちこのままじゃこの世界は危ないんだもん、やるだけやってみようよ。ね、お姉ちゃん」

「……うん」

 月夜は決意したように頷き、水晶を振り返った。

「わかりました。もしかしたら、危険な賭け……なのかもしれないけど。やるだけやってみます」

「我々もお供いたします、創造神様」

 と、ユリウスが進み出てきた。

「我らの役目は神を奉り、神をお守りすること。このスタルト神殿から東の果て、エンディオン神殿までの道中、どうか我らにその護衛の任をお与え下さい。この命に変えて、ガーディアン最精鋭の名にかけて、あなた様をお守りいたします」

「あ、でも……」

「本気なのか、ユリウス?」

 信じられない、という口調でウィンが言った。

「オレたちはこのスタルト神殿を護る神官戦士だぞ?次元の扉を護る、その重大な任務の為に、オレたちは全世界の神官戦士の中から最精鋭として選抜された。いくら創造神様をお守りするためとはいえ、オレたちがこのスタルト神殿を留守にするわけには……」


――心配はいらぬ――


 と、再び影が揺らめいた。

「最長老様?」


――お前達が離れている間、スタルト神殿は我ら中央組織の直轄下に置かれる。お前達が出発した後、神殿は我ら最長老の力を以て強力な結界が張り巡らされるだろう――


「最長老様方の結界、って――あの神聖護光壁結界のことですか!?」

 ウィンの言葉に、月夜もはっとなった。

「神聖護光壁結界――あの神聖魔法を使える人がいるなんて……!!」

「そんなに凄い魔法なの?月夜姉さん」

 と、聖が不思議そうに尋ねる。

「え、ええ。私が創った設定のままだとしたら――魔王の軍勢が攻めこようとも崩せぬ鉄壁の防御魔法、けれどその消費魔力の激しさ故に聖魔法でありながら禁呪とされる伝説の魔法――そうなっている筈よ。でも、それだけ大袈裟に設定しちゃうと、なかなか物語の中では使えなくて……強すぎる魔法、それを使いこなす人間。敵にしろ味方にしろ、そんな人間を物語中に登場させちゃったら殆ど無敵状態だもの」


――買いかぶりでございます、創造神様――


 と、影の一人が笑った。


――確かに神聖護光壁結界は絶大な防御力を誇る呪文、なれど現時点で、この幻地球でそれを一人の力のみで完成させられる者など一人もおりません。我らは暫しの間、ダルスの者たちがスタルト神殿を留守にする短い間だけ、我らの力を結集して結界を張るのです――


「あ……そうなんですか」

 月夜が納得したように頷くと、ウィンが心配そうに尋ねた。

「大丈夫なのですか、最長老様?いくら最長老様方でも、いえ、だからこそ心配です。最長老様方は中央組織の要。もし万が一、何かあったら――」


――大丈夫ですよ、ウィン。いくら消費魔力が激しかろうと、我ら全ての力を結集すれば少なくとも同じ季節を3度は迎えることが出来ます。それより、創造神様を必ずお守りするのですよ、ウィン――


「は……はいっ!」


――お前達も頼んだぞ、ユリウス、シオン、キッド――


「はい」

「……」

「しょーがねーな」

 4人がそろって頷くと、水晶に映し出された影は再び月夜を振り返った。


――創造神様――


「あ、はい」


――まことに申し訳ないことながら、これより後、創造神様のご身分は決してお明かしになりませんよう、お願いいたします――


「え……?」


――創造神様のお力、それは全てを意のままにする混沌の力。それを我が物にしようとする者達も必ずやおりましょう。無用な争いを避けるため、混乱を引き起こさぬ為には、エンディオン神殿までの道中、ダルスの者達と共に全世界の神殿を巡る巡礼者として旅をしていただきたいのです――


「そ、そんな!だって私は何の力も――!!」

 慌てたように叫ぶ月夜。

 しかしキッドがその言葉を遮った。

「それでも、お前が創造神なのには変わりねーだろーが。今は上手く使えてねーみたいだけど、ヘルハウンドを吹っ飛ばしたのは紛れもなく創造神の力だぜ?第一、お前が神の力を使えない、なんて、他の奴らは知らねーんだ。狙われたって不思議はねぇよ」

「そんな――!!」

「姉さん……」

 聖が心配そうに近寄ってくる。

 が、それより早く誰かが月夜の肩を叩いた。

「ウィン……さん」

 振り返って、月夜はウィンの顔を見上げる。

 彼は力強く頷いて見せた。

「大丈夫ですよ、月夜さん。あなたはオレが必ず護ります。いつだって、何があったって。必ず護ってみせるから――だから、この幻地球を観光するくらいの、軽い気持ちで居て下さい。……あなたの泣き顔は、もう見たくない」

 そう言って微笑んだウィンの笑顔に、月夜は何故か安心感が広がるのを感じた。


『大丈夫よ』


 月夜の脳裏に、鏡に映る自分の笑顔が浮かび上がる。


『大丈夫よ。私には、こんなに私を気遣ってくれる人たちと家族が居てくれる。だから、きっと大丈夫よ』


「月夜さん……?」

 心配げなウィンの声。

 月夜はにっこり笑って頷いた。

「私、皆さんを信じます。足手まといでしかないかもしれないけど……道中、よろしくお願いします」

「は……はいっ!」

 月夜がそう言って頭を下げると、ウィンは心底嬉しそうな顔をして力強く頷いた。

 月夜の答えに頷き、最長老達が再び声をかける。


――では早速、正式に任務を与えよう。中央直属神官戦士隊〈ダルス〉。前へ――


 影の言葉に、ユリウス達は水晶の前に跪く。

 と、水晶に映る影の一人が、彼ら一人一人に手を翳しながら言った。


――神官戦士隊〈ダルス〉よ。これより後、しばらくの間スタルト神殿を離れることを許可し、東の果てエンディオン神殿へ向かわれる創造神様の身辺警護を命じる。我ら中央神官組織ガーディアンの名にかけて、必ずや創造神様をエンディオン神殿へお連れするのだ。よいな――


「は――謹んで任務を拝命いたします。すべては偉大なる創造神様と我らが神マルドゥク様の御心のままに」

 ユリウスが言い、ダルスの面々が頭を下げた。

 影が厳かに頷く。


――出立は明後日の朝とする。それまでに旅支度を整えるがよい――

――よろしく頼みましたよ。――あなた方に偉大なる神々のご加護のあらんことを――


 そう言った後、影の姿は急速に薄らぎ始めた。

 影は再び月夜に向き直り、そして、すっ、と跪く。


――そろそろ次元球の魔法効力が切れ始めたようです。では、創造神様。我らはこれで失礼させていただきます。共に旅することは出来ませんが、いついかなる時も我らの魂はあなた様と共にあることを、お忘れなきように。あなた様の想いが成就なされますことをお祈りいたしております――


 その言葉が終わらない内に、水晶から放たれていた光は逆回転フィルムのように、現れたときと同じスピードですーっと水晶に吸い込まれてしまった。

 最長老達の言葉が宙を舞う。

 月夜はその言葉を抱きしめるように、何もない空間に向かって手を伸ばし、胸にぎゅっと押しつけて呟いた。

「ありがとう……」

 私、頑張ります。

 どんな理由があったにせよ、ここは私が生み出した世界。

 だから、頑張ってみます。

 この世界を護るのは……この世界を生み出した私の義務、なんだもの。

 見てて下さいね、最長老様。

 と、その時、彼女の肩をぽん、と叩く人間が居た。

「お姉ちゃん」

「……大丈夫よ、月夜」

「え?」

 月夜が聞き返すと、今度は陽南海が寄ってくる。

「そうだよ、月夜お姉ちゃん。私達がついてるからね」

「陽南ちゃん……」

 聖がぎゅっ、と月夜の肩を抱いた。

「月夜姉さんは、僕たちみんなで護るよ。いつだって、そうしてきたんだから」

「ひぃ君――」

 四人の子供達がそうやって寄り固まっているのを眺めながら、一年と四季子は微笑んでいた。

「……みんないい子に育ってくれているな」

「あら、当然です、私達の子供達ですもの」

 そう言って微笑む四季子の肩を抱き、一年は頷いた。

「そうだな。互いに天涯孤独の身の上だった私達が何より望んだのは家族の絆。その絆を君と得られたことを、私は誇りに思うよ。君と出会えて、本当に良かった」

「あなた……」

 仄かに瞳を潤ませ、四季子は一年にそっと寄り添う。

 と、背後で誰かが遠慮がちにこほん、と咳払いした。

「!?」

 慌てて振り返ると、そこには気まずそうな顔をしたユリウスが居る。

「あ……」

「あの……せっかくのところ、お邪魔するようで申し訳ないのですが。取り敢えず改めて自己紹介をしたいと思いますので、集まっていただけますか?」

「あ、ああ、わかった」

 照れ臭さをごまかすように咳払いをして、一年は子供達を呼ぶ。

「なあに?お父さん」

「ダルスの人たちがみんなに自己紹介したいそうだ」

「自己紹介?」

 と、陽南海は首を傾げた。

「それなら、さっきしてもらったじゃない。他に何かあるの?」

「それは……」

 ユリウスが説明しようとするのを先んじて、桜華が言う。

「あれは単に名乗りあっただけじゃない、陽南海。この場合の自己紹介とは違うわ。――要するに、ダルスの誰がどんな役割なのか、どんな魔法を使えるのか、そーゆーことも教えてくれるってことよ。いくら警護のためについてくるって言っても、一緒に旅をする以上はそういうことも知っておかないと。自分のことは自分で。鉄則でしょ」

「ふうん……」

 よくわからない、と言った風に、それでも素直に頷いた陽南海は、ちょっと離れたところに立っていたユリウスが感心したように頷くのを見た。

「……それじゃ、早速始めてもらえる?いくら出発が明後日とは言え、明日もなんだかんだとやることはある筈だから……今日は出来るだけ早く休みたいの」

「わかりました」

 ユリウスはそう言って頷き、他のメンバーを呼び集めた。

「では、まず私からですね」

 そう言って、ユリウスは一つ軽く咳払いをする。

 流れるような金色の長い髪。

 エメラルドの輝きを放つ碧の瞳。

「私はユリウス、このダルスの長をつとめています。役割は防御と治癒。攻撃呪文がまるで使えないわけではありませんが、戦いの時は後方で仲間を支援し、戦いを指揮します」

「それだけ?」

 そう言って不満そうにしたのは桜華だ。

「は?」

 意外そうな顔をして聞き返すユリウスに、逆に桜華が驚いた顔をした。

「は?じゃないでしょ。私達、曲がりなりにもこれから一緒に旅をする仲間、なのよ。もっとこう……互いに近づけるような話題ってないわけ?お見合いじゃないんだから、ご趣味は、とかって聞くつもりはないけど。せめて年齢と好きなものとか嫌いなものとか、そういうのぐらいは言いなさいよね」

「は……はあ」

 桜華の言葉に、ユリウスは曖昧に頷いた。

「で、では、えーと……年齢と、好きなものと、嫌いなものでしたね。年齢は28歳です。好きなものは……そうですね、アフタヌーン・ティー、でしょうか。好きというよりは、殆ど日課と化しているのですが。それから、嫌いなものは特にありません。――これでよろしいですか?」

「……」

 フン、と桜華が肩を竦めた。

 それを承諾の証と受け取って、ユリウスは隣のシオンに交代を促す。

「……」

 アイス・ブルーの短い髪に、サファイア・ブルーの瞳を持つシオンは、しばらくの間そうやって黙りこくっていたが、やがてぽそぽそっ、と

「シオン。攻撃担当。23。両方ともに特にない」

 とだけ呟いた。

 そのまま完全に沈黙してしまい、口を開こうとしないシオンに、ユリウスが苦笑しながら補足する。

「彼は攻撃魔法の使い手です。この全世界で彼ほど多彩な攻撃呪文を使いこなす人間は、他にいないと思います。……ごらんの通り、言葉数の少ない性格ですが、決して悪気があってのことではありませんので、お気を悪くなさらないで下さい」

 すると陽南海が力強く頷く。

「大丈夫!シオンさん、優しいもん。馬に乗せてくれたもん。だから絶対、悪く思ったりなんかしない!……ね!」

 無邪気に、純粋に笑顔を向ける陽南海にシオンの瞳が僅かに微笑んだように見えたのは、陽南海の気のせいだろうか。

「……じゃあ、次はオレだな」

 そう言って、ウィンが一歩前へ出た。

「俺の名前はウィン。本名はウィンストン・ウィリアム。どのみちいつかはわかることだろうから、今の内に言っておくけど……実は、去る国の王子だったりします」

「!?」

 鈴原一家の驚いた顔――特に目を見開いている月夜の顔を見ながら、ウィンは微笑む。

「オレ、弟がいるんです。いわゆる異母兄弟ってやつで。特別仲が悪いとかっていうんじゃなかったんだけど、その……後継者争いとかになるの、イヤで。元々、王位とかそーゆーの、興味なかったし……それで、自ら志願して神官戦士になったんです。そしたら運良くダルスに選抜されて、今に至ります。役割は攻撃担当。使うのは魔法じゃなくて、剣です。どんなんでも一応は使えるから種類は選ばないけど……今使ってるのは両刃剣(ブロード・ソード)だな。年は25。好きなものは……うーん、そうだなあ、上手い料理は好きだし、体を動かすのも好きだし……たくさんあって選べないな。嫌いなものも特にありません。……以上」

 栗色の髪をさらさらとそよがせ、琥珀色の瞳で微笑みながらウィンがそう言うと、キッドが面倒くさそうにため息をついた。

「はぁ~、相変わらず話の長ぇやつだよ、ったく。……オレはキッド。全世界で最年少のガーディアンだ。ダルスに選抜されたのも、ま、当然だろうな」

 両サイドの一房ずつだけが短く、あとの腰まで届くような長い銀の髪を後ろで一つに束ねたキッドは、その翡翠色の瞳を得意そうに輝かせて言う。

「オレの役割は……ま、何でもありってとこかな。使えるのは魔法でも武器でもない……特殊能力だ。自然接触能力(ネイチャリング・コンタクト)。魔力が込められたこの笛で、自然物を意のままに操ることが出来るんだ。だから、攻撃もできるし防御もできるってわけだ。年は15。好きなものは楽しいこと、嫌いなものは退屈なことと偉そうな奴。……あ、あと話の長い単純大王も嫌いだな」

「!それっ、誰のことだよキッド!」

 と、隣で聞いていたウィンがくってかかった。

 キッドはとぼけた振りをして言う。

「あれ?オレ、別に誰って言ってないけど?……何か心当たりでもあるんじゃねーの、ウィン?」

「キッド!」

 今にもケンカ……というか、掛け合い漫才の始まりそうな二人の間に、ユリウスが割ってはいる。

「二人とも、いい加減にしなさい。……失礼しました、それでは、よろしければみなさんのこともお聞かせ願いたいのですが?」

「ああ、当然ね」

 と、桜華が頷いた。

「それじゃ、父さん・母さん・私・月夜・陽南海・聖の順番で自己紹介しましょ。いいわね?」

「えーっ、また僕が一番最後ぉ?」

 と、聖が不満そうな声を上げた。

「まったく……何かって言うと、いつも僕が最後になるんだからなぁ……」

 尚もブツブツと呟く聖を無視して、桜華が促した。

 頷いて、一年が前に出る。

「私は鈴原 一年。47歳だ。好きなものは焼き魚だな。この世界では何というのかは知らんが、基本的に和食党なんだ。嫌いなものは……そうだな。私の家族を傷つける者だな」

 この年になっても一向に衰えを見せない黒々とした豊かな髪。

 年齢と共に刻まれた穏やかな――しかし意志の強さを覗かせる黒い瞳。

 初対面の人には必ずと言っていいほど驚かれる、40代には決して見えない若々しいこの父親は、月夜達の自慢の父親だった。

 と、次は四季子が前に出る。

 柔らかな黒髪と軽くグレイがかった黒い瞳を持つ彼女は、遠慮がちに言った。

「四季子です。好きなものも嫌いなものも、主人と同じです。年齢は……聞いたりしませんよね?」

 最後の『にっこり』とした微笑みに、一瞬背筋が凍り付いたのは何故だろう。

 ダルスの面々は密かに、鈴原一家の真の権力者を理解した。

「それじゃ、次は私ね」

 そう言って桜華が前に出る。

 母親譲りで柔らかい、ヘイゼルブラウンの髪は肩口で外向きに軽くカールし、その瞳は父親と同じように強く黒く輝いている。

「私は桜華。春に生まれたから桜華、よ。年は……未だ年齢が言えるっていいわね……25歳。元の世界では一応、キャリアウーマンての、やってたわ。別に仕事が好きってわけじゃなかったけど、とにかく中途半端が嫌いなの。好きなものは……そうね、それほど好きじゃないけど、お酒は強いわね。嫌いなものはさっきも言ったけど中途半端なことと、それから依存心の強い人間。出来ないんならともかく、やってみもしないで人に頼るような人間は嫌いなの」

 と、隣にいた月夜がぽんぽん、と桜華の肩を叩いた。

「お姉ちゃん……何かケンカ腰だよ。……ごめんなさい、お姉ちゃんって思ったこと何でもはっきり口にしちゃう方なんです。でも、悪気があるわけじゃないし、多分、間違ったこと言ったりはしないと思うから……わかってあげて下さい」

 そう言って、月夜は微笑んだ。

 柔らかな、しかし肩口まで真っ直ぐ伸びたグレイがかった黒髪がさらっと揺れる。

 そのセピアブラックの瞳を微笑ませたまま、月夜は続けた。

「私も自己紹介、しといた方がいいですよね。えぇと、私は月夜。秋に生まれたから月夜です。年は21歳。好きなものは……うん、空想することかな。嫌いなものは特にないと思うけど……急に浮かばないだけかも。よくわかりません。それから……創造神の力って、どんなものなのかよくわからなくて……きっとみんなに迷惑かけると思いますけど、よろしくお願いします」

 月夜が頭を下げると、陽南海が笑って胸をドン!と叩いた。

「まっかせといて☆大丈夫、私が月夜お姉ちゃんのフォローしてあげるから。えと、私は陽南海。夏に生まれたから、太陽と南と海で陽南海です。年は19歳。好きなものは体を動かすこと、嫌いなものは影で悪口言う人。明後日からどんな旅が始まるのか、とっても楽しみです」

 父親譲りの腰の強そうな茶色のショートヘアも、母親譲りのグレーがかった黒い瞳も、しなやかに伸びる健康的な体全体からもエネルギーがあふれ出ているようだ。

「はぁ……うらやましいよ、その性格」

 と、軽くため息をつきながら、聖が前に出た。

 柔らかく猫っ毛のグレイがかった黒髪、優しく、ひたすら優しく輝くライトブラックの瞳。

 どこにいっても『育ちの良いお坊ちゃん』的な見られ方をする聖は、その噂に違わぬ爽やかな笑みを浮かべていった。

「僕は聖。冬に生まれたから、聖夜にちなんで聖、なんだって。年は17歳。現役の高校生……って言ってもわかんないか。えと、好きなものも嫌いなものも、特にないなあ……あ、一応、元の世界では月夜姉さんの保護者やってました」

「ひぃ君!」

 月夜が抗議の声を上げる。

 が、今までの二人の間柄を見てきたダルスの面々はみな、納得したような面持ちで頷いた。

「これで自己紹介は終わりましたね。それでは……皆さん、お疲れのところ申し訳ありませんでした。食堂の方に食事をご用意いたしましたので、どうぞいらして下さい」

 ユリウスの一声に、まず陽南海とキッドが喜びの声を上げた。

「やった!ご飯だ、ご飯っ!」

「ひょ~っ、やっと飯だぜ、飯っ!」

 何ともタイミングのあった二人の言葉に、全員思わず吹き出す。

「な……何よぅ」

「な、何だよお前ぇら」

 憮然とした表情で抗議するタイミングまで一緒なものだから、これはもう笑いの押さえようがない。

 自分も涙を流して笑いながら、月夜は自分たち家族とダルス隊との間のぎくしゃくとした他人行儀な空気が完全に溶かされていくのを感じていた。

「……これで大丈夫ですね」

 と、いつの間にそばにいたのかウィンがぽん、と肩を叩く。

「ウィンさん」

 驚いた月夜がそう言うと、ウィンはちっちっ、と悪戯っぽく指を振った。

「?」

「ダメですよ、さん付けしちゃ。オレたちはこれから一緒に旅をする仲間です。仲間どうしてさん付けしてたら、怪しまれるでしょう?」

「あ……」

 月夜はぱっ、と口を押さえた。

 が、次の瞬間には笑っている。

「?」

 代わりに不思議そうな顔をしているウィンに微笑みかけ、月夜は言った。

「だって、ウィンさ……ウィンだって。敬語使ってるじゃない、私達に。さん付けするのと敬語を使うのって、どっちも同じくらい怪しまれると思うけど?」

「あ……」

 思わず絶句してしまうウィンの表情がおかしくて、月夜は更に笑い転げる。

 ウィンもつられるように笑い出した。

「……」

 そしてふと気づくと、聖が優しい目をしてこちらを見つめている。

 まるで妹を見守る兄のような彼の瞳に、ウィンは改めてこの姉弟の絆の強さを感じていた。


『いや……強いのは、何も彼女と聖だけのことじゃない。みんなそれぞれ、強い絆で結ばれてる。家族って……こんなにも、互いを信頼し、想いあえるものなんだな……』


 どこか寂しげにそう思いながら再び月夜に目を戻したウィンは、一瞬、息を止めた。

 彼女が、彼が護るべき偉大なる創造神が、全てを包み込むような慈愛に満ちた瞳で彼を見上げていたからだ。

「つ、月夜さん……?」

 言いかけたウィンの唇に、そっと月夜の人差し指が押し当てられる。

「?」

「……さん付けはなし、でしょう?――大丈夫。あなただって、きっとすぐにそうなれるわ」

「……?」

 不思議そうに自分を見つめるウィンに、月夜はふわっと微笑んだ。

「私達、みんな仲間だもの。……ううん、旅をしていれば、きっと家族と同じくらい仲良くなれるわ。だから、大丈夫よ。ね」

「!?」

 ウィンはもう一度、絶句した。

 会って間もない、可憐なこの少女に、まさか自分の想いを悟られるとは思わなかったから。

 そして彼は、それが彼女の中に眠る創造神の力のせいではないと、そうは思いたくないと強く願っている自分に少なからず戸惑っていた。


『オレ……オレは、まさか彼女を……?』


 心の中で言いかけた言葉を飲み込み、ウィンは微笑んだ。

「ウィン……?」

「さあ、行きま……じゃなかった、行こう、月夜。みんなが待ってるよ、ホラ」

 ウィンの言葉に慌てて振り返ると、家族達が戸口で彼女を待っている。

「あっ……」

 咄嗟に駆け出そうとする月夜の腕を、ウィンが急にとらえた。

「!?」

 驚く月夜に微笑み、ウィンは囁く。

「ゆっくりでいいんだよ。ゆっくりで……急ぐことはないんだ。ゆっくり行こうよ。みんな君をせかしたりしないから。だから、焦らないで欲しいんだ。君は君のままでいい。オレたちは、その為に一緒に行くんだから」

「ウィン……」

 その、心の内を全て見透かすような優しい言葉に、月夜は今まであった不安が溶けていくのを感じた。

 どうしてだろう。

 彼は、いつだって私が一番欲しい言葉をくれる。

 そばにいたい。

 ずっと、彼のそばに……。

 月夜は自分の考えていることの意味を悟り、顔を真っ赤にした。


『やだ……私まさか、そんな……』


 聖の言葉が蘇る。

「月夜……?」

 不思議そうに尋ねるウィンの顔が、恥ずかしくてまともに見られない。

「どうかした?月夜?」

 今度は心配そうに響くウィンの声。

「!」

 月夜は慌てて顔を上げた。

 まだ、心臓の鼓動が早い。顔が熱くて、朱が散っているのが自分でも分かる。

 再び俯いてしまいそうな自分を辛うじて持ちこたえ、月夜は微笑んだ。

「?」

「ありがとう、ウィン。……私、頑張る。頑張るから、だから……私を護ってね」

「……ああ」

 力強く頷いて、ウィンは腕を差し出した。

「ウィン?」

「エスコートするよ。さあ、どうぞ」

「……うん!」

 嬉しそうに頷いて、月夜はウィンの腕に手を絡ませた。

「ウィン?」

「?なに?」

 振り向いたウィンの優しい微笑みに、月夜は息を止めた。

「?何か言いたいことが在るんじゃないのかい?」

 重ねて問いかけるウィンに、月夜は慌てて首を振った。

「う、ううん、なんでもない」


『まだ、言えない』


 心の中で、月夜はそう呟いた。。


『まだ、言えない。自分の気持ちが分かるまで。これが、この想いがなんなのかはっきりするまで。でも……』


 食堂へと歩きながら、月夜はそっと呟いた。

「いつか言おう……この想いのすべてを込めて」


 鈴原 月夜 21歳。

 この世界の創造神たる彼女の旅が、始まろうとしていた――。

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