第5話 切り干し大根

 いつかこの日がやってくるとは念頭に置いいたことだ。だが、いざそんな事態になると何も出来なかった。


 ◇◆◇◆◇


 ピンポーン♪


 とある日の夕暮れに、淳史の部屋のインターホンがなった。

 そのインターホンの音色はいつもよりどこか不快で、淳史の心臓の鼓動を早め、さらには冷や汗さへも染み出させた。


「あの〜! 今晩は〜! お隣の立花ちばなです〜!」


 玄関の外から若い女性の透き通るような甲高い声がした。

 実はこの立花と名乗る人物を淳史は知っている。

 外から見て左隣の201号室の住人、立花たちばな梨紗りさだ。確か今年で大学三年生だったはず。これまたかなりの美形で、出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んでいる綺麗な体型をしている。だが彼氏を見たことはない――。

 何故か? 滅茶苦茶おばあちゃんみたいな性格と趣味を持っているからといって、男が出来ないのはいくらなんでもやはりおかしい。

 だから――と言うと語弊はあるが、今回も、なぜ梨紗が淳史を訪ねてきたかだいたい予想はついていた。


「切り干し大根作ったんですけど〜、余っちゃったのでお裾分けに来ました〜!」


 ほうらやっぱり。前にも里芋の煮物や鯖の味噌煮なんかを頂いたことがある。まあ、どれもとても美味しかったのだが。

 だからお裾分けしてくれるのは嬉しい。嬉しいのだが、今じゃない。

 今、家にはテトがいる。身元不明の少女と同棲していると知られたらどう思われるだろうか。

 どう言われるだろうか。

 どうされるだろうか。

 恐ろしくてとても考えられない。


「淳史さーん、お留守ですか〜?」


 んー……、彼女のことだから、わざわざ家の中まで切り干し大根を運んでくれるだろう。

 前なんかは掃除も一緒にしてくれたことがあったなー、なんて呑気に回想シーンに入っていたところ、少しの間を置いて再び梨紗はぽつりぽつりと喋り始めた。


「……淳史さん、いるんでしょ……? いるんでしょう?! 開けてよ! ねぇ! 開けてよ淳史さん!」


 ドンドンドンドンドンッ!!


 やばいやばいやばい。

 梨紗の口調は急にホラー映画のようになり、玄関ドアも叩き始めた。

 リビングにいた淳史とテトの肩はビクッと跳ね上がり、それから二人は玄関からなるべく離れようと後退あとずさる。しまいには、二人とも部屋の隅で饅頭のように固まって顎をふるわせているのだ。

 少しして急に玄関が静かになり、不気味な静寂が訪れた。

「静か過ぎるのもどうかと思うぞ俺は!」と、言わんばかりに淳史の目は見開いている。


 …………


 梨紗は諦めて帰ったのだろうか。

 いいや、あのおばあちゃんに限ってそれは絶対にない。100パーセントそうだと言いきれる。

 なぜなら立花梨沙だから!


 先に動いたのはテトだった。

 どうやら玄関の様子を確認しに行くようだ。

 心の中では「絶対に行かない方がいい!」と思いつつも、まったく体に力が入らない淳史。そうして今更気づく。


 ――腰を抜かしていたことに。


 絶対に玄関の様子とか見に行かない方がいいって……特にドアス――


 忍び足で玄関まで行ったテトは、ちょっとばかし背伸びをしてドアスコープを覗こうとする。


「――ひゃっ?!?!」


 ――言わんこっちゃない。

 玄関の向こう側の何かに驚いたテトは飛び退いてドテッとフローリングにしりもちをついた。

 ドアスコープを覗いた瞬間に目が刺される、もしくは覗き返される――なんてホラー映画じゃあお決まりの展開だ。

 今回は幸いにも(?)後者だったらしく、テトに目立った外傷はない。大方、梨紗がドアスコープを覗き込んで来たのだろう。

 テトの無事を確認してホッと胸を撫で下ろすとともに、一歩も動けなかった自分の情けなさを改めて実感した淳史は、無意識に前歯で下唇を噛み締めた。


「――あなたは誰ですか? たった今、ドアスコープから外を覗いたあなたです……、淳史さんじゃありませんよね……?」


 (バレとるやないかーいっ!)


 と、淳史は脳内でキレッキレのツッコミをしてはいるが、実際のところはかなり焦っていることの裏返しである。

 こうなったら梨紗からはもう逃れられない。

 意を決した淳史はおずおずと立ち上がって玄関へ行き、冷たい金属のドアを開く。


「どうもぉ!」


 梨紗はふんすと眉間に皺を寄せ、頬をぷっくりと膨らませて軽く会釈してきた。

 今日は大学の帰りなのかラフな格好をしている。

 と言っても、少しおばさん臭いセンスの服だなあと淳史は思った。

 化粧は全くしていない。香水もつけていない。服のセンスが極めてダサい。趣味や好物もおばあちゃんみたいで渋い。

 それでも、梨紗がモテるのは、素材がいいからだろう。化粧をしていなくても美人で、体つきもボンキュッボンで腰のラインがエロさは一級品だ。

 記憶の中の梨紗と、目の前にいる梨紗が寸分の狂いもなく合っていたことを確認すると、淳史は「ちょっと、来て」と言って家の中へ手招いた。


 ◇◆◇◆◇


 この後、あんなことになるとは、このときの淳史は知る由もなかった。

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