第2話 逡巡

 雀のさえずりが淳史の耳に入った。

 カーテンの隙間から差し込む日光が眩しい。それを遮るようにして布団を被り、いつものようにスマホ取り出して現在時刻を確認する。


「――――」


 うっすらぼんやり遠のいていた意識が戻ってきて脳みそがジーッと熱くなるのを感じた。



「――――っ?!!!!!」


 えー、……只今の時刻は正午12時ちょうどですね。

 はい。遅刻も遅刻、大遅刻ですね。

 布団にくるまったまま、迷うことなく真っ先にバイト先へ連絡を入れる。


 店長がワンコールで出た。


「あっ、すいません! 寝坊しました! なるべく早くそちらに向かいますので、ええ、はい。本当にすいません。……えっ、ああ、はい。分かりました。お言葉に甘えて今日はゆっくり休ませていただきます。はい。すいません。失礼します……」


 淳史の心臓はバックバクだった。もちろん、寿命は5.6年縮んだ。寝起きの人間がこんなに息を切らしていいものではない。


「学生時代の長距離走を思い出すな……」


 そんなことを口にして布団から出ようとすると、何か違和感を感じた。異物が布団の中にある。


「……?」


 在ると言うより居ると言った方が正しい。

 今、動いたから。

 なんとなく展開は読めていた。


「ふぁぁぁあ……」


 大きなあくびをかいて背伸びをする誰かの手が淳史の顎を軽く殴った。

 恐る恐る掛け布団を全て取っ払う淳史。するとそこには、案の定昨晩の少女がいるではないか。

 そして少女は再び丸まってしまった。


「――はあ……?」


 そんな気の抜けるような反応しかできなかったが、淳史は確かに感じ取った。

 このフィット感。この安心感。この既視感。

 そしてすぐに思い出した。


「変わらないなぁ……」


 ◇◆◇◆◇


「おはようございます!」


 キッチンでコトコトと味噌汁が沸騰しかけているのを止めておたまでお椀に注ぎ込む。そして昨日の残りの白米を電子レンジで温めてお茶碗に盛る。しまいには目玉焼きを作ってさらに移すというTHE・日本の朝食。ド定番メニューの完成だ。

 当たり前だが、どちらも二人分ずつ。

 なぜなら今日は客人がいるから。それも高校生くらいの――いやひょっとしたら中学生なのかもしれない少女がいるのだから。

 長方形で背の低いテーブルの下に腰を降ろして彼女は言う。


「お料理上手になったね!」


 ニコッという尊敬と賞賛の眼差しが眩しい。それでいてそんな発言に安心感を覚えてしまう。

 姪っ子じゃない。かと言って妹でもない。まあ確かに妹も高校生ではあるが。ロリ友達がいるわけでもなし。

 つまり、胡座あぐらをかいた淳史の向かい側にわざわざ礼儀正しく正座している少女とは初対面ということになる。

 法律的にも倫理的にもマズイ。淳史は一時いっとき、近いうちに自分が捕まるであろうことも覚悟した。

 それが今はフツーに朝食、もとい昼食、もといブランチを共にしているのだから驚いたものだ。

 淳史も正気を疑いつつ「こらぁたまげたぁ」とでも言うかのような間抜け面で味噌汁をすすっている。

 しばらく黙々と食べ進めていた両者だったが、最初に口を開いたのは淳史だった。


「――ごっくん……、もうこの際認める。お前はテトなんだな」


 別に質問をするわけでもなく、ただ自分が納得するために心で思っていたことを口にした。

 テトからの返事はない。部屋にはただ、味噌汁をすする音、箸を置く音が響くだけ。

 そしてテトは淳史にもぐもぐと微笑みかける。

 やはりその笑顔はどこか猫時代のテトの面影を残していた。


 ブランチを食べ終えた淳史は、食器を片付けてからテトと話すことにした。

 淳史のお値段以上のベッドに腰をかけたテトは脚をぷらぷらさせている。そしてどこかウトウトしていた。

 淳史は察した。やっぱり元は猫。昼を食べると眠くなるのだと。まあ、人間も人によってはそう大して変わらないが。

 ということなので、テトが眠らない内に話を切り出した。


「テト、よく聞いてくれ。お前はこれからどうしたい? 一人暮らしは無理だろうし、実家に帰ってもテトだって信じてもらえる保証は無い。……でも俺と暮らすってのも嫌だろ?」


 うんうんと相槌を打っていたテトは考える間もなく答えた。


「あっちゃんと暮らす!」


 そんな小学生みたいな無邪気な回答をされても淳史にはと、ハッキリそう頷けるだけの勇気は無かった。


 そもそもよく考えてみると、最初から答えは一つだったのだ。いや、厳密に言うと二つだ。

 一つは、淳史がテトを養うこと。

 二つ目は、――テトを捨てること。

 テトを捨てるという選択肢が淳史の脳内に全くない訳では無かったが、テトを捨てることを淳史の良心が、愛情が許さなかった。

 もっと言ってしまえば、最初ハナっからテトを捨てることなんて考えていなかったのだ。

 なら必然的に選択肢は一つに絞られる。


 先程よりテトの脚の動くテンポが早くなっている。ちょっと退屈してそうな印象を受けた。

 もとよりテトは実家で飼っていた猫だ。だから本来は実家で養ってもらうのが筋だろう。

 ところがどっこい、当の本人は淳史と暮らしたいと言っている。


「そしたら……んー、どうしよっか……」

「口癖も相変わらずだね。えへへ、なんか懐かしいや」


「そしたら……んー、どうしよっか……」の沈黙の間隔や読点の位置の何から何までが昔ま今も変わっていなかった。

 それが周りから悪い印象を受けることもあった。

 だが基本的には、「小金井さん? ああ、あの人は〜、まあ、いい人だよ」と言われるような人間だった。

 けれども、大概の人間関係はそこ止まりだった。路線はまだ続いているけれど、そのまま回送列車になって人間関係が薄れていくようなそんな感じだった。

 だから小金井淳史メトロの路線数は少ないし、路線図も小さい。人間関係が複雑に絡み合うことも無く、特別乗り換えが複雑な駅は無かった。

 それに一人暮らしの今では家族と会うことも連絡することも少なく、運行本数も少なくなっている。

 そんな路線図に新たに加わった路線が地下鉄テト線だった。その路線はまるで地下鉄淳史線の本線に乗り入れて来るように、淳史の人生に深く介入してきた唯一の路線だったかもしれない。


 とにかく、淳史は同居を断ることができず、かと言って承諾することもできずに10分が経っていた。


「そ、そうだ。とりあえずその服装を何とかしてからまた考えよう。……ね?」

「目の前の問題から逃げるな〜」


 む〜っとしかめっ面で立ち上がったテトは玄関へ向かった。

 くすんだような緑色のパーカーにダメージジーンズという後ろ姿には哀愁が漂っていた。

 何しろ昨日の夜から……、いやひょっとしたらそのもっと前から同じ格好なのかもしれない。だから淳史はなけなしの諭吉を数枚、二つ折りの財布に突っ込んでテトの後を追って家を出た。

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