大陸三国志
帝国本紀及び列伝
これはまだ帝国に何度めかわからない混乱がおこってて、その影響が皇国や共和国、学園都市といった帝国外にも波及するかもしれないといわれてたころの話だ。
ある老いた男が、川辺でボンヤリしていた。どうやら川をポッポポッポザブンザブンといく蒸気客船をながめているようだ。
「どうかしたのですにゃ?」
と、話しかけられたので、ふりかえると、洋服を着た黒猫だった。
「ええ、世を憂うことしかできないわが身をかえりみて、ウンザリしているのです」
と、男が返すと、黒猫は我が意を得たりとばかりに喋りはじめた。
「にゃらば、私が貴方を帝にしてあげましょう。貴方と私で世を安んじるのですにゃ」
「帝に?しかし、私にはその力もありません」
「まずは、私と弟子たちが貴方の家臣になりましょうにゃ。いずれも武は一騎当千、智においても知略縦横の連中ですにゃ」
「なんと、それなら千人力です」
男は、まるで若返ったように生気が戻った風であった。
これが、帝国の現帝室のはじまりである。
当時の皇帝は幼帝でとても統治できる状況ではなく、チゼンというさんぞくあがりのものが実権を握っていた。それを憂慮したコウイ将軍が幼帝を救おうとクーデターをおこし、宮中で乱戦となった。しかし、チゼンが幼帝を誘拐してしまい、以後歴史上から姿を消す。コウイは心労のあまり倒れ、そのまま死んだ。
この混乱の中、星斗という猫が
「まだ帝の大叔父の時康さまがおられます。お呼びしましょう」
と、提案し、宮中に残っていたものたちも了としたので、時康が即位することになった。
かれは平和な世ならば
『きみがためはるののにいでてわかなつむわがころもでにゆきはふりつつ』
という歌で知られるマイナーな文人としてのみ名を残しただろうが、運命の変転で帝位を継いだのだった。
時康は結局、都の混乱を治めてすぐに崩し、それ以後の帝国の再建は次代土御門に託されることとなる。享年65歳、即位3年の治世であった。
土御門は時康の次子で、その在位の間、民生と人材登用をはかり、父が再建しようとした国家の土台を固めた。また別荘を公園として一般開放した(入口に『すべてのものを尊重するものによって、すべてのものに捧げられた楽しみの場』と刻まれていた)のをはじめ、公共事業にも力を尽くした。
性格は陰険なところがあり、弟たちを虐めたり、借金しようとした時に断ったものを処刑したりする1面もあった。
たとえば
「7歩歩く間で、詩を作れ。さもなくば殺す」
と、弟に命じ、その弟は見事に作ったというエピソードがある。
文人としても知られ
「文章をつくるということは、国家を治めることにかかわる事業であり、万世不朽の偉業である。生命はかならず終わってしまい、栄誉栄華もその限りがある。この2つは免れ得ぬものであり、文章の永遠とはくらべものにならない」
と、言っている。
6年の治世ののち、崩した。享年40。
そのあとをついたのは、土御門の息子高倉だが、乳母の実家である比企家の当主高能が実権を握っていた。かれは土御門のおこなっていた親族の排除を推進し、それがために領主や騎士層から憎まれていた。かれらは
「奸臣比企を討て!」
と、結束して高能を暗殺し、高倉は在位2年で退位した。あとを継いだのは。時康の娘から生まれたマクシミリアンである。
高倉自身は、イタズラや遊ぶことが好きな少年というくらいしか特徴がなかったのだが、政治の力学はそんなことは関係なく動く。いずれは排除される定めであった。結局退位から1年後に亡くなった。
公式発表では、イタズラで滑石を使って誰かを転倒させようとしたが、自分が転倒してしまい、そのときの傷がもとで死亡したという話である。享年9歳。
かくして帝位についたマクシミリアンではあるが、その治世は苦難に満ちたものであった。
その正当性の脆さが、皇国と共和国の名実ともなう独立をもたらしてしまい、それを討伐しようにも、諸侯は彼の命令を無視したり、反逆したりと混乱が再びというありさまであった。
そもそもマクシミリアンは時康の血をひいているものの、スラヴァという共和国との境にあった獣人の都市の出身であった。そしてマクシミリアンは市長をつとめたこともある猫の名士と時康の姉から生まれた。いつの時代もこの種の属性は問題になるものだ。かれは
「耳付きの皇帝」
と、さげすまされていたのである。それはマクシミリアンにとって、治世をつうじて正当性や権威にこだわり続けなければならないということを意味していたのである。
さて、マクシミリアンは以上のような不毛な努力をしていたことよりは、インスブルクという避暑地の発展に尽くした一面もあった。インスブルクはかれのもとで軍事的な拠点でしかなかったところから、帝国の文化の中心地の1つになったのである。
ともあれ騒擾はやまず、内憂外患の極みのなか、かれは崩じた。マクシミリアンは在位30年と先の3代より長く帝位にいたが、それはいままで帝国にあった歪みが表面化した時代であった。かれは死の床で
「わたしの成したことはすべてむだであったか」
と、述懐したという。
かれの残した宿題は、あとを継いだタイシンに残されることになった。享年69。
タイシンの治世、帝国は重要な変化をおこしていた。中央集権から地方分権に舵をきったのである。ブンニャクというものが、こう献言した。
「もう、この国は単一の政治機構で動かすことはかないません」
「では、どうすれば?」
「地方を領主や自治体に任せ、その上に帝がいるようにすれば、最善とは言いませんが次善であると思います」
「よし、そうしろ」
結果的にこの政策によって、領域国家としての帝国は帝都近辺のみを治める地方政権になったが、周囲の地方領主や自治体(かれらの中には帝国の1地方でありながら国を名乗るものもいた)の上に権威として君臨する形になったことで、現在まで続く帝国と帝室が出来上がったのである。
しかし、この制度を作った功労者であるブンニャクとタイシンとの関係はだんだんと悪化していった。理由としては、タイシンの寵臣であるバブシや珠洲島直隆との対立があったとされている。
ある日、タイシンからブンニャクに食事が贈られた。食器のふたをとったところ、なかにはなにも入っていない。
「死ねということにゃか」
と、タイシンからのメッセージを受け取ったブンニャクは、毒をあおって自殺した。
ともあれ、かれの生み出した新たな形の帝国は5代タイシンから、6代ビルゲ、7代幼帝継までの三代にわたる安定、『平安の治』を謳歌することになる。
ただし、安定といってもそれは帝都近辺のことで、たとえば秋月国からの移民が集まった峨座では徐々に民族主義的な運動がたかまり、あるいは南西のビスカイア地域ではサビノという耳付きによるビスカイアナショナリズムが誕生する。それらはまだ小さな動きに過ぎないが、『平安の治』以降に本格化する問題に端緒であった。
サワラトは帝国の幾度の戦いを生き抜いた名将であった。
ある日のことジェイムズ某と立ち合うことになった。2人とも剣の名人であったので、多くの観客がつめかけた。かれらは互いに相手を警戒して隙をうかがっている。と、サワラトがジェイムズが面に打ち込み、ジェイムズは受けた。観客にはそう見えたが、ジェイムズは
「まいりました」
といって、退いた。観客がフシギにおもい
「あなたは受けたのに、なぜ負けを認めたのですか?」
と、ジェイムズに訊くと
「面は受け止めたが、その次に胴に1撃が入ったのです。そして、それは受け止めることはできませんでした」
と、返した。観客たちは達人の剣技に驚嘆した。
将としては、皇国との戦いで、別動隊を率いてからめ手から皇国軍を破ったりしたが、功にはやって待ち伏せにあい戦死したという。
九條鼎は生前は6代ビルゲの側近の中でも目立たない1名としてかろうじて知られていたが、今日では作家、評論家として知られている。キッカケは貧乏貴族であった時期に見入りのいい仕事として様々な雑文を書いていたという。
処女作は『レイトンコートの怪事件』で、いわゆるミステリーである。
以後多重解決もの『毒入り饅頭事件』倒叙もの『殺意』をへて『試行錯誤』を最後に小説から遠ざかる。
評論家としては、辛口でそれらは『九條鼎評論集成全5巻』にまとまっている。
また来訪者がもといた世界から持ってきた書物の収集としても知られており、かれの収集した書物を集めた『九條文庫』は来訪者の文化を知るたまの重要な資料となっている。
タイシン帝の御代のこと、皇国軍15000がサンネクレール砦に攻めてきた。城主は留守で、かれの夫人が60の兵力で守ることになった。
彼女は囲まれる前に出撃して敵陣を突破し、近隣から援軍を集めた。そして空になったサンネクレール砦に侵入した皇国軍を駆逐した。
タイシン帝は
「もし自分が皇帝でなかったら、この夫人になりたいものだ」
と、称賛した。
モザはワカツの北東にあるコメ所ノトールで活躍した教育者である。
帝都の大学で文学士、心理学博士号を習得した彼女は、地元ノトールで教育者として新しく設立されたノトール大学臨床心理学准教授にまでなった。
また、ボランティアとして活躍し、とくにタイシン帝までの混乱の中、子供のメンタルケアや配給につとめた彼女は
「ボランティアキャンプのおっかさん」
と呼ばれた。
彼女は帝国における女性の社会進出のパイオニアの1人と言われた。
マクシミリアンの娘であるマウドは、タイシン帝の時代、帝位を奪おうと、悪戦苦闘した。
とくに、脱出の名手で、あるときは棺の中に死体になりすまして、あるときは白いベッドシーツをかぶり、牢獄から脱出したという。
彼女はタイシンの治世のうち20年近く戦えたが、その理由は資源財団の協力があったからだといわれる。
初代ワカツ領主は
『故郷の川、山のふもと
天はテントのように司法の草原を覆いつくし
天は蒼く、草原は果てしなく広がってる
風が吹き、草の穂が垂れると、ウシやヒツジを見るのである』
と、いう詩が知られる詩人である。
またかれは、彼反皇帝派との戦いで3倍の敵を相手にしたとき、援軍を待とうという意見に
「いや、敵は油断してる。チャンスである」
といって、見事敵を破った勇将でもあった。
さて、タイシン帝には即位前から気に置けない友人が2人いた。即位後、かれらはそれぞれの立場から、タイシン帝を支えることになる。その友人の名前は早秀とチケゾウという。
早秀は同時代の人に
『天下の重人』
『平生一義神妙の仁』
『執政之器』
と評される人物だが、絵画や詩歌を良くしたくらいの事績がなく、かれの活躍は君臣関係の潤滑油だったり、交渉事の裏回しのような『記述せざる』事柄だったのだろう。その重要性はかれの危篤時、タイシン帝が
「もってのほかである」
と、狼狽したことからもうかがえる。詩人としては
『諸仏無増処、衆生又不滅』
『ことし又命の露のそめいだす座のもみじを人や見られん』
という、独特の死生観を感じさせる作品で知られる。
対してチケゾウは戦争で華々しい活躍をしていた者で、マウドとの戦いで戦功をあげていた。しかし、ブンニャクと対立し、結果的に追い落としてしまったことで、後世の評価を落としてしまう。しかし、タイシン帝と一心同体ともいえる忠義を尽くしていた。
さて、長年の戦火の倦み始めた帝国をみたタイシン帝は、早秀やチケゾウと計って主要な敵国である皇国や共和国の和平を模索する。
後世あまりのグダグダぶりに『帝国のウィーン会議』といわれるイベントの始まりである。
この和平会議は帝国・皇国・共和国の3国に、境域開拓団・資源財団の2団体や秋月国をはじめとした国家内国家がおのおの集まり、てんでばらばらの主張をしたあげく、現状維持という結論?を出したのだが、このときトーマスという猫と最上茂里という来訪者が、学術目的に限った自治都市というシステムを提案し、それは承認された。
これが、学園都市というシステムが大陸に認知され、諸勢力の1つとして台頭していくことになる。
さて、トーマスという猫は、帝都で商いをする商人であった。また最上静の門弟のの1人であり、パトロンとしても知られている。若いころは行商のためあちらこちらに冒険して、その道中に師と出会ったという。また、11歳にして上司の妹に誘惑したとかされたとかいう逸話で知られる色男で、弟子仲間に
「皆を愛しにゃさい。しかし、あるがままを愛しにゃさい」
と、語っている。
その商才のために
「最上よりトーマスが優れている」
と、そういう世評もあったが、トーマスはそれを聞くたびに
「ハシゴをかけても、天にはもどれにゃい。先生こそまさに天のような方にゃ」
と、反論したという。
こうして最上静、最上茂里父子を援助したかれは、茂里を全面的に支援することで学園都市を創設した元勲の1匹になったのである。
ある日のこと、トーマスは兄弟弟子のフランというものを訪ねた。ご無沙汰を詫びるためである。富豪であったトーマスは豪華な蒸機馬車で従者を従え、雑草をかき分けて、フランの侘しい住まいを探し当てたのである。フランはボロボロの衣服で出迎えた。
「あにゃたは病気ですかにゃ」
と、あまりにヒドイ恰好を見たトーマスは訊いた。フランは
「わたしの聞いたところでは、財のないものを貧、道を進んで行うことのできないものを病といいます。わたしは貧乏ではありますが、病気ではありません」
と、胸を張って答えた。
トーマスは恥ずかしいという風に立ち去った。生涯、そのときの言葉をはじていたという。
ある日のこと、タイシン帝は皇国との交渉に当たっていた外交官諏方にこう書き送った。
『近衛兵トミーを解任し、交代させてはどうかと考えている。かれを帝都に送り返すように。皇国での2期にわたる滞在のあとでは、クセの強さはすでに十分矯正されたであろうし、われわれも帝都にそのような立派な家臣が必要であるので』
タイシン帝はその晩年、執拗な咳に苦しめられた。毎日欠かさず飲むといいとされた新鮮なヤギのミルクも、さほど効かなかった。
タイシン帝は、お見舞いに来た法律家の貴族に、自分の置かれている状況をこう説明する。
「わたしは自分の胸を相手に、たちの悪い訴訟を戦っているところだ。この争いは、最終的にどちらが勝利するのかわからない」
やがて、病が悪化したタイシン帝は重体となって、諸侯が集まった。なんとか意識を取り戻したタイシン帝は、看病していた女性に尋ねた。
「今、涙するものを目にしたか?」
「はい。わたくしは多くの方が、とりわけメイトランド卿が号泣する様子を目にしました」
「わたしは、自分がそれほどの涙に値する存在であると思えない」
と、タイシン帝は返答した。
ビルゲ帝は老年になって帝位についたので、後継者教育に大きな期待がかけられていた。教育には湧き上がる熱意が求められた。そのためか、帝国内でそういう熱心な教育が盛んになった。そうした教師たちの熱狂にビルゲ帝はこう言って水を差した。
「重責をになう立場にある学長や教師は、青少年に害を及ぼすと思われる行為、すなわち頭をごついたり、殴打やつき飛ばしたり放り投げたりするようなことを、中止すべきである」
音楽が長い歴史を経過し獲得したもの。それにバリトン歌手のフェルナンというものは直感的に思いついた。かれは『フィガロの結婚』を演じては当代きっての声楽家で、それにくわえてビルゲ帝がかれに好意的であった。
フェルナンはビルゲ帝に特別手当を懇願した。ビルゲ帝は言った。
「なにを思いついたものか。キミはすでに、わたしの廷臣の誰にも与えられてないほどの手当を得ているではないか」
「ならば陛下、廷臣たちに『フィガロの結婚』を演じさせてみられますように」
しばらく考えて、ビルゲ帝はこう返答した。
「一理あるかもしれぬ。しかしそれ以外の使い道はあるまい」
神官のミカッチは神官長の帝都への到着に合わせて帝都にあるすべての神殿の鐘を打ち鳴らし迎えようとしていた。そこでミカッチは、ビルゲ帝にそれを打診してみた。神官長が帝にとって招かざる存在であるのを知っていたのだが。
ビルゲ帝の返事はこうであった。
「しごく当然である!神官長を迎える栄誉礼では、われわれは互いにその礼砲を打ち鳴らそうではないか!」
共和国への進軍の途中、ある下級兵士がひどく不機嫌な様子で周囲を眺めていた。
ビルゲ帝は、かれは望郷の念にとらわれているのかと思って、そう尋ねる。
「いいえ」
と、その兵士は率直のこう返した。
「部隊の全員が故郷にいられたなら、どんなに良かったか、そう考えているのです」
幼帝継の母はムチに手を伸ばした。頑固者であった継は、たびたびいたずらを企んでいた。それは反抗以外のなにものでもない。かれの家庭教師カタリナは宮廷の養育係とともの懇願した。皇太子がムチでお仕置きされるなど前代未聞だと。それに対して母はこう返す。
「わたしもそう思います。これを最後に、ムチ打ちは止めることにしましょう」
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