第18話 心

「なあに?」


 時折、見矢園さんは私に対し、優しさ以上の視線を向けてくるような気がする。それがとてつもなくまぶしい。そのまぶしさがとてつもなく恐ろしい。


「随分以前にお話したことなんですけど、その、見矢園さんの資質について、なんですが」


「ええ」


 見矢園さんの表情が曇る。視線を私から放し少し俯く。


「その資質の全ては押し付けられた絵画のようなものだ、と見矢園さんはおっしゃってましたよね」


「……そうね」


「でもそうじゃない資質が少なくとも一つはあると思うんです」


「あるの? そんなものが」


 少し驚いた表情でこちらを見る見矢園さん。


「はい」


「聞きたいわ。教えて土鳥さん」


 見矢園さんは真剣な表情になる。


「心です」


「……心」


「心は、心だけは何ものにもとらわれず自由な存在です。何ものにも縛られず何ものにも負けません」


 見矢園さんは心底驚いた表情だった。


「心だけは誰かからのお仕着せではなく、見矢園さん自身の中から自然と生まれる、見矢園さん自身のためだけにあるものです。心こそが見矢園さん自身なんです。自分自身の核になるものなんです」


「私…… 自身……の核」


「はい」


「その自分自身のためだけにある心のままに生きることで、お仕着せの自分という殻を破れるんじゃないですか」


 その日の見矢園さんはずっと一人で何かを考えているようだった。私はそれを邪魔しないよう静かに彼女のそばにいた。


 その数日後、進路指導室は騒然となったようだ。情報通の植山さんから聞き出すまでもない。その原因は見矢園さんだった。


 見矢園さんは合格圏内にあったアカデミーへの進路を変更し音大受験を希望したのだ。

 実はその前日の放課後、私は見矢園さんに誘われて旭第一公園そばのクラッシック喫茶「リンダーホーフ」へ行っていた。


「私音大に進路変更したの」


 私にはよくわからないいい薫りの紅茶を飲んでいると、見矢園さんは開口一番涼しい顔で、傍から見たらあまりにも素っ気ない口振りで言った。


「そんな、もったいないじゃないですか。せっかくアカデミーの合格圏に入っているのに……」


「合格圏じゃないわ。絶対合格圏」


 自信たっぷりな姿になおさら私は疑問がわく。


「だったらなぜ……」


「この頭脳は私のものじゃないから」


「あっ」


 人に聞かれないよう声を潜める。


「これは本当の私の頭脳じゃないのよ。土鳥さんにも判っているでしょう?」


「……おっしゃる通りです」


「試験科目を調べてみたらね、何とかなるかもしれないの、一番問題なのはバイオリンの実技。これだけは懸命にやらないと」


「大変なんですか」


「多分」


 思うに見矢園さんが自分から何かしたいと言い出すのは珍しかった。初めてかも知れない。


「私ね。自分自身の心に従ってみようと思ったの。あなたの言った、自分自身のためだけにあるもの。その心の求めるままに生きてみたいと思った」


「はい」


「許してくれる?」


「許すも何も、見矢園さんの人生なんですから、ご自身で思った通りに決めて下さい。私はいつでも応援しますから」


「よかったあ」


 胸をなで下ろす見矢園さん。


「本当のことを言うとね…… 実はここで土鳥さんが反対したら諦めるつもりだったのよ」


 えっ? 私の発言力ってそんなに大きいの?


「いやあ、さすがにそれは大袈裟では?」


「ううん、本当。大袈裟でなく、土鳥さんは今や私の人生の羅針盤だから」


「いやいや、本当に大袈裟です」


 恥ずかしくて汗が出てくる。


「あいかわらず謙虚」


「いえいえいえ」


 おでこの汗をハンカチで拭う。


「でも、これからはあまり会えなくなってしまうわ。それが寂しくて……」


「ああ……」


 私も大学受験を考えているから、本当になかなか会えなくなる。これは辛い……


「じゃ、週に一回息抜きでこことか図書館で会うとか、いかがですか。それくらいならいいんじゃないでしょうか。通信でもお話しはできますし」


「そうねそれを励みにしてお互い頑張りましょう」


「はいっ!」


「でも通信にハマっちゃいそうね……」


「あー……」


 私たちは顔を見合わせて、笑った。

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