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 令佳との、初めてのソレは……あっという間に終わってしまった。だけど、この時期だからだろうか、互いのぬくもりを感じられるだけでも、心地よかった。


 経験したから、と言っても、僕の中で特に何かが変わった、という気はしない。


 だけど、令佳とのつながりは……確かに強くなったと思う。英語でメイクラブって言うけど、まさしく言いえて妙だな、と思う。お互い下の名前で呼び合うようになったからかもしれないが……


 初めての時、てっきり令佳は痛がるのか、と思っていたが、それほどでもなかったようだ。いわゆる破瓜はかの血、というのも流れなかった。令佳はしきりに「本当に初めてだったんだからね!」と繰り返していたが、正直、僕は別にどうでもよかった。いずれにしても、今の彼女はしっかり僕のものなのだ。英語で言えば、アンダー・マイ・スキン、ってヤツだ。


 そして。


 その後も僕らは限られた時間の合間を縫うようにして、身体を重ねた。初めての時に比べれば、お互い随分スムーズにできるようになったような気がする。


 令佳を抱きながらも、僕ははかない願いを胸に抱いていた。彼女がロシアに行くことをあきらめてくれないか、と。僕はそんなに口が上手い方じゃない。だから、たぶん言葉で彼女を説得するのは無理だろう。だけど……こうして身体を重ねることで、伝わるものは確かにある。僕はそれに賭けたのだ。


 だが……それは空しかった。


 2月14日。バレンタイン・デー。人生で初めて、僕はこの日を恋人と一緒に過ごした。だけど、それが最後の逢瀬だった。次の日、彼女は日本を発つ。


「……行かないで」


 例のビルの2階、彼女の部屋。ベッドで彼女を抱きしめながら、僕はとうとう言ってしまった。


 だけど、令佳はただ、悲しげに笑うだけだった。そして、ぽつりと、言った。


「ごめんね……悠人」


---


 2月15日。


 新幹線のホームは、雪がちらほらと舞っていた。なごり雪、なんて歌が昔あったような気がする。


 見送りは、僕を含む RRR(令佳先輩救出隊)のメンバー全員と、三崎先輩、そしてナターシャさんだった。てっきりナターシャさんも一緒にロシアに行くのかと思ってたが、実は彼女にはカルチャースクールでのロシア語講師、という仕事があるし、今の彼女は逆にロシアに居場所がない、ということで、日本にとどまることになったらしい。健人さんは東京から空港まで令佳と亜礼久さんに付き添い、見送るのだそうだ。


 相変わらず、茉奈は令佳の胸で大泣きしていた。それを見てもらい泣きしているアヤちゃん、というのも、あの時と全く同じ構図だった。だけど茉奈は意外にもすぐに離れ、ナターシャさんに令佳の胸を譲る。きつく抱きしめあう二人。その様子を、少し離れたところから、黒いコートに身を固めた亜礼久さんが横目で見つめていた。


「お前も、彼女とああいうこと、やらなくていいの?」


 由之が、ジト目で僕を見つめていた。


「いいよ。僕は彼女とそれ以上のこと、もう何度もしたから」


「……!」由之の目が、真ん丸になる。「なん……だと……」


 それには応えず、僕が余裕の微笑みを顔に浮かべると、由之が吐き捨てるように言う。


「そういやいつの間にか、お互い下の名前で呼び捨てにしてんだもんな……ったく、リア充、爆発しろってんだ……」


 そんな由之の様子には構わず、僕はホームの屋根に切り取られた、鉛色の空を見上げた。大粒の雪が、ふわふわと舞いながらまばらに降りてくる。


 雪のせいで、電車が止まってしまえばいいのに。


 そう願っていたが、無情にも新幹線は定刻通りにホームに滑り込んできた。


 いよいよお別れだ。みんな、令佳に向かって口々にさよならを告げている。


 だけど僕は、これだけは伝えなくちゃならない。


「令佳!」


「……悠人?」亜礼久さんと並び、キャリーケースを転がしながら客車の開いたドアに向かって歩きかけた令佳が、不意に足を止め僕を振り返る。僕も彼女を見つめながら、言う。


「僕、令佳が日本に来られなくても、僕の方からロシアに会いに行くから。絶対に……だから……待っててほしい……」


「悠人……」


 その瞬間だった。


 それまでも潤んでいた令佳の両眼から、とうとう涙が溢れ、頬を伝ってこぼれ落ちる。


「うん……待ってる。私……待ってるよ……だから、さよならじゃなくて、またね」


 涙声でそう言って、令佳は小さく手を振った。その女神スマイルを、僕は心のCCDセンサーに焼き付ける。


「ああ……元気で……またね」


 僕もうなずき、手を振り返す。そして、彼女の隣で背を向けてまま佇んでいる亜礼久さんに向かって、言った。


「亜礼久さんも……お元気で」


 これは僕の、彼に対する宣戦布告だ。


 結局僕は、彼から完全に令佳を奪うことはできなかった。だけど、いずれ必ず奪ってやる。その意図は伝わったはずだ。


「……」


 亜礼久さんの背中がかすかに反応する。が、彼はそのまま振り返りもせず、列車に乗り込んだ。令佳がそれに続く。


 発車ベル。


 令佳と亜礼久さんが、ドアの向こうに消えた。


 列車がゆっくりと動き出し、みるみる加速してホームを後にする。


 僕の足元には、令佳の頬からこぼれた涙が、ホームの床の丸い染みとなって名残を留めている。


 その上に、ひとひらの雪が優しく拭うように落ちた。


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