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「……!」先輩の顔がみるみる険しくなる。「どういうこと?」


「たぶん、元彼が他に好きな人ができたのは、本当のことなんだろうと思います。でも……うまく表現できないんですけど……元彼が先輩に必要以上にひどいことを言ったのは、先輩のことを本当に大事に思っていたから、じゃないかな、と……」


「全然わかんない」先輩が左右に首を振る。「なんで大事に思っているのにひどいことを言うわけ?」


「先輩にひどいことを言えば、先輩は元彼のこと、嫌いになりますよね? そんな奴とはもう付き合いたくない、って思いますよね?」


「!」先輩の顔色が、一気に変わった。「そういうこと……」


「ええ」僕はうなずいてみせる。「だから元彼は、先輩が自分に対する未練をすっぱりと捨て去れるように、あえて嫌われるようなことを言ったんだと思いますよ」


「……」令佳先輩は、下を向いてしまった。


「ね、すごくいい人じゃないですか。先輩が好きになっても当然な人だったんですよ。だから先輩は何も間違っていません……」


 僕がそこまで言った時だった。


「タカシ……」


 ぽつりと呟いた先輩の両目から、涙のしずくがこぼれ落ちた。


「先輩……!」


 なんてことだ。


 僕は己の失敗を悟った。


 先輩を慰めるつもりが、先輩の心の中にくすぶっていた元彼への未練を、大きく燃え上がらせてしまったのだ。


 嗚咽しながら、先輩はひたすら涙を流している。


 僕に向いていたはずの先輩の心が、また離れて行ってしまう……


 こんな時、どうしたらいい?


 わからない。


 わからないけど……令佳先輩が離れていってしまうのは……絶対に嫌だ!


 そう思った瞬間。


 僕は、彼女を抱きしめていた。


 「!」


 少し驚いたようだが、すぐに先輩は僕の胸に顔を埋め、小さい声を上げて泣き始めた。


 ずっと好きだった、僕の女神さま。その彼女が僕の腕の中にいる。本来なら嬉しくて仕方ないはずなのに……


 今、彼女の心の中にいるのは、僕じゃない。


 こんなに近くにいるのに、先輩が遠かった。そして、そういう状況にしてしまったのは、他ならない僕なのだ。 


 思わず僕は先輩を抱く手に力を込める。自分の存在を主張するように。だけど、先輩は泣くのをやめない。今の先輩には、女神の神々しさは微塵も感じられなかった。そこにいたのは、ただ、傷ついた一人の女の子でしかなかった。たぶん、これが本当の彼女の姿なのだろう。


 僕は心の中で令佳先輩に語りかける。


 先輩、ここにいるのは……今あなたを抱きしめてるのは……元彼じゃなくて僕だよ。だけど僕は、元彼みたいに先輩を捨てたりしない。僕はどこにも行かないよ。だから先輩……僕のところに帰ってきて……


 いつしか、僕の眼にも涙が浮かんでいた。


---


「……ありがとう。ハマちゃんにギュッとしてもらえて、私、すごく嬉しかった」


 帰り道。


 並んで歩く先輩が、晴れ晴れとした表情で言う。まだ少し両目は潤んでいるけど。


 あれから先輩は、思いのほかすぐに泣き止んだ。そして、


 "ごめん。ずいぶん遅くなっちゃったね。帰ろうか"


 と言って、笑顔を作った。


「私ね、実は、元彼を憎らしいと思っている自分が、すごく嫌だったの。やっぱり人を憎む気持ちって、よくないよね。いろんなことがそれに引きずられてしまうから……でも、さっきハマちゃんに言われて、そんな気持ちがすうっと消えていった。そうよね。ハマちゃんの言う通りかもしれない。ううん。たとえそうじゃなかったにしても、そういうことにしてしまえば彼のこと、いい人だった、って思えるから……」


 よかった。僕の言葉が先輩の役に立って。


「君に言われなかったら、ずっと彼のこと憎んだままだったかもしれない。やっぱり……ハマちゃんは、私の大事な人だよ」


「……!」僕は顔が上気するのを感じる。「そ、そんな……」


「あ、私の家、ここだから」


 先輩が目の前のマンションを指さす。十二階建てでまだ新しい。JRの駅から歩いて5分くらいなので、結構入居者も多いと聞く。


「ハマちゃん、これからもよろしくね。じゃ、おやすみなさい」


 先輩が笑顔で手を振る。


「あ、おやすみなさい」


 僕が手を振り返すと、先輩はくるっと踵を返し、マンションの玄関に消えていく。


「ふぅ……」


 僕は大きくため息をつく。


 最後の最後で、令佳先輩は僕の下に帰ってきてくれたんだ、と思う、けど……


 先輩が本当に僕の彼女と呼べる存在になるのには、もう少し時間がかかりそうだ……


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