第二章

第12話  朧気

 零矢は


 今度はカーテンの隙間から朝日が差し込み、チュンチュンとスズメが鳴いている。その囀りに覆いかぶさって、道路を走る原付バイクや自動車の排気音が聞こえる。今度は身体は自由だった。思わず両手を布団から出して確認してみたが、異常はない。足も先っぽまでしっかりある。


 枕元にあるはずの目覚まし時計を探り、今度は手のひらがしっかりとそれを見つけ出す。確認すると、時刻は七時二十九分――それがちょうど三十分に切り替わって、設定していた目覚ましアラームが鳴る。目覚めのタイミングとしては完璧だ。そして零矢は、今日という特別な日のスケジュールを思い出した。


 高校受験。

 自分の人生を決定づける、人生で初めての勝負の日。


 その現実が、先ほどまでのできごとをどことなく夢の中の物語という領域にまで押し流して変化させていく。いや、いま思うと実際にあれは本当に夢だったのかもしれない。身体を起こして顔を洗って歯を磨き、服を着替えていくうちに、零矢はそう確信しはじめていた。そもそもあんなことが真面目に本物の体験なわけがない。自分の特技たる幽体離脱からしても、実のところは夢をみているだけなのだろう。


 鏡に向かい、制服を着て、ネクタイを締める。


〝布団の中でハッと目を覚ますことがあるでしょ。あれは〈夜蝕体〉に可能性を喰われた証〟


 彼女の言葉の残像がまだ頭の中を彷徨っているが……。いやいや、そんなまさかと気を取り直す。鏡の中の自分を見つめ、表情に気合いを入れる。


 ……よし。


 しかしふと、自分の左肩になにか薄っすらと透明ななにかが纏わりついていることに気付いた。目が変になったような感覚がしてこすってみたが、鏡の中からそれは消えない。実際に肩をのぞき込んでみると、そこには確かになにか陽炎のようなゆらぎが肩に張り付いていた。


「うわっ」と驚いて取り払おうとするが、その手はするりとすり抜けてしまう。

 朧気なゆらぎは、金縛りの状態で見た〈夜蝕体〉によく似ている。そして零矢は思い出した。……左肩。それは幽体離脱中〈夜蝕体〉の尻尾に突き刺され、なにかを注入された部位だった。


 途端にゾワッとした。

 つまりあれは夢なんかじゃなかったということだ。この左肩にいるゆらぎがその証拠。



 自分が喰われそうになったこと。

 ノフイェという少女に救われたこと。

 そして彼女に殺されることで現世に強制送還され、しかし結局〈夜蝕体〉に喰われてしまった(と思われる)こと。


 これら一連のすべては、確かに、実際に起こった現実だったのだ。


 それを察した瞬間、ふっと零矢の身体から力が抜けた。ガクリと膝が崩れ、ベッドに尻もちをついた。


 おれの〈可能性〉が喰われてしまった。

 志望校に受かるという〈可能性〉が……



 今までの人生、一度として何かをさぼったことなんてなかった。小学生の頃から夢だったあの高校に入るために、みんなが部活や遊びを楽しんでいるのを尻目に、ずっと勉強を続けていた。すべては今日この日に行われる試験のための我慢と努力だった。


 それがあんな意味不明なバケモノに遭遇したがために無駄になってしまうなんて。とてもじゃないが信じられない。しかし、肩のゆらぎは相変わらずそこにボワボワとくっついている。


 ……でも、そうか。

 それならなんか……もういいや。


 このまま寝てしまえと思い、零矢はベッドに倒れ込んだ。もし本当に〈可能性〉が奪われてしまったのなら、もうおれにできることなんてない。零矢はそのまま布団を被って、目を瞑った。スゥーと深い呼吸を繰り返していくと、徐々に眠気が強くなっていく。甘くて心地の良い眠気。このまま身を委ねて、すべてを忘れてしまいたい……



「零矢ー!!」突然、そんな大きな声と共に、部屋のドアがバンと開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る