第8話〈可能性〉

 肩で大きく息をした彼女は、ゆっくりと零矢の方へおりてきた。

 それはまるで、天から舞い降りた天使のようだった。


「逃がしちゃった」


 てへっと笑う彼女の笑顔はやはり紛れもない天使であったものの、不思議とどことなく鋭利で、ある意味で魅惑的な凶器のようでもあった。


「って! 見ないでよ!」


 唐突になにかと思ったら、天使は急にスカートをキュッと押さえる。


 ハッとした。

 パンツか。

 見てなかったクソが。


「み、見えなかったから大丈夫……!」


 そして零矢は気を取り直して。


「あいつは……?」


「〈夜蝕体〉。人の〈可能性〉……つまり、その人が今まさに叶えようとしている夢とか未来とか今後起こり得る可能性を食べて生きる幻影生物」


 人のことを信じていなさそうな目で見つめながら、質問に答えるノフイェ。


「幻影生物?〈可能性〉? ……あ、もしかして悪霊ユーレイとか? それか、死者の亡霊ホロウ的な」


 ハァと、彼女はため息を吐く。


「この世にそんなオカルティックな存在はいない。そういう類の生物じゃない。〈夜蝕体〉はこの世界の原生生物。で、あの〈夜蝕体〉は君を喰らおうとしていた。それはつまり君の〈可能性〉を食べようとしていたということ。君はあいつらにとって、さぞかしおいしそうな〈可能性〉を持っていたんだろうね」


「〈可能性〉を食べる? ってことは、奴に喰われても、死ぬってことは……」


「うん。死ぬってことはない」


 そう言われて、零矢は遅ばせながら少しだけホッとする。

 やはりあの悍ましい体験は死には繋がっていなかった。


「でもその代わり、君は君の〈可能性〉を失う」

「〈可能性〉……」とは。


「私たちが暮らす世界は〈可能性〉に満ちている。特に零矢くんの場合、きっと明日、人生の大きな分かれ道が訪れる」


 占い師のような口調は身近なだれかさんを彷彿とさせる。いやそんなことよりも、彼女の言葉は確かに当たりだった。おれが控えるは、人生最大の岐路、高校受験。


 ……彼女の言う通りだ。


「〈夜蝕体〉は、君が叶えたいと思っている〈可能性〉を食べてしまうんだ」


 おれが叶えたいと思っている〈可能性〉……

 そんなもの、考えるまでもない。零矢は確信した。


 明日おれは高校受験を控えている。

 大袈裟な表現などではなく、まさに人生の分かれ道となる決定的な日だ。


 夢にまでみた高校に入れるかどうか、すべては明日決まる。


「さっきの奴は、おれの夢を……、おれの〈可能性〉を食べに来た……」


 もしあのまま食べられていたら、おれは人生で唯一の希望である試験に落ちてしまうところだった、というわけだ。


「そ。でも、それって別に珍しいことじゃないんだよ。〈夜蝕体〉は極めて身近な生物。いろんな人の〈可能性〉を結構頻繁に喰らってしまっているんだ。たとえば、夜寝ている時に布団の中でハッと目を覚ますことがあるでしょ。あれって実は〈夜蝕体〉に〈可能性〉を喰われた直後の反応」

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