10 春に芽吹く

第31話 春に芽吹く1

『春の樹木に芽吹く一枚の葉。それが、貴方達兄弟の名前』


 俺にそう言ったのは誰だったか。

 言われたことは思い出したけど、言われた状況や相手が思い出せず、俺はぼんやり考える。

 最近こんなことが増えた。

 忘れていたはずの昔のことが唐突に頭に浮かんできて、でも詳しいことは思い出せたり思い出せなかったり。なんだかよくわからないけど、中途半端な記憶は気持ち悪い。


「なぁ一葉、お前は覚えてるか?」


 なんとなく、その時一葉も一緒にいた気がしたから聞いてみた。俺が覚えていないことも、一葉は覚えてることが多いんだ。


「それ、お祖母様じゃないかな。僕らの名前を考えたのはお祖母様だったらしいから」

「お祖母様って、陣さんと親父の母親?」

「そうだよ」

「今どうしてんの?」

「知らない。母さんと反りが合わなくて本邸から追い出されちゃったんだよ。だから滅多に会わない」


 一葉は今春休み。

 実家には数日だけ帰ったみたいだけど、勉強があるからって言い訳使ってこっちに戻って来て、うちに入り浸ってる。

 監視の目を掻い潜ったり巻いたり誤魔化したり、涙ぐましい努力をしてここに通ってるんだって本人が楽しそうに話してた。

 俺が仕事の時には店に居て、珈琲飲みながら勉強をする。俺が休みの日は唯さんや歩も一緒に出掛けることもある。夕方には帰って行くけどたまに、こうしてうちで夕飯を食べて行くこともあるんだ。


「へぇ……お袋達、追い出されたのか。兄貴は嫁さんの尻に敷かれてるのか?」


 一緒に夕飯を食いながら、俺と一葉の会話に陣さんが興味を引かれたみたいだ。

 陣さんの言葉に、一葉は顔を顰める。


「尻には敷かれてないよ。お互いに無関心。好きにしろって感じかな。親戚のおじさんおばさんは、母さんが強くてお祖母様が優しいだけだって言ってる」

「親父……お前らの爺さんは、どうしてるんだ?」

「数年前に体を壊してからは寝たきりみたい。それで、お祖母様も別邸からあんまり離れられないみたいだよ」

「あの親父が寝たきりか……」


 ふと、陣さんの表情が暗く翳った。

 陣さんを追い出したのは爺さんだ。仲が良くなかったって聞いてる。でも何か、思うところがあるんだろうな。


「お祖母様って、どんな方なんですか?」


 唯さんも、陣さんの雰囲気に気が付いたみたいだ。

 ずっと疎遠だった自分の親のことを聞きたいけどためらわれる、そんな雰囲気。


「お袋は……春樹と一葉の婆ちゃんは、弱い人だったな」


 懐かしむみたいに目を細めて、陣さんは言葉を置くようにしてゆっくり話す。


「旦那に逆らえない人でいつも、親父の顔色を窺ってた。でも、あの電話が掛かってきた時は驚いたな」


 それは、俺と陣さんが会うきっかけになった電話だ。婆さんからの電話で数十年振りに陣さんは、実家の敷居を跨いだ。


「あの子のことはきっと貴方しか理解してやれない。助けてやってくれないか、って。何のことかと思ったけど、あの時あそこでお前を見て、わかった」


 陣さんの優しい瞳が、俺を捉えた。


「……あそこには、爺さんも婆さんも確かいなかったよな?」

「それは母さんが拒否したからだよ。新年の挨拶だってこっちから出向くけど、数分滞在するだけですぐに帰るんだ。とっても、母さんはお祖母様が嫌いみたい」

「なんでそんなに嫌ってるか、一葉は知ってるのか?」


 俺は知らない。俺の記憶の中には、爺さん婆さんの姿はあんまりないから。


「子育てのことで口出しされたのが気に食わなかったからだって、僕は聞いた」


 子育てってことは、俺と一葉の育て方のことだろう。

 一体婆さんは、母さんに何を言ったんだろう。それに、何を思ってあの時、陣さんに電話をしたんだろう。

 考え込む俺の隣で、陣さんが口を開いた。


「なぁ一葉。別邸って……どこだ?」

「本邸から車で三十分くらい山に入ったところにあるよ」

「あそこか……」

「叔父さん、知ってるの?」

「あぁ、まぁな。昔親父が愛人囲ってた家だよ」

「うっわぁ……坂上の家って昔からそんなんだったんだ?」


 陣さんの言葉に、一葉は苦笑してる。

 俺も、心の中で苦く笑う。俺と一葉の父親と爺さんは、よく似てるみたいだ。

 愛人の話題に唯さんが困った顔になってたから、この話は自然な流れで終了になった。


「春樹さんと一葉くんの名前にはきっと、お祖母様の願いが込められているんですね」


 夕飯も終わって、洗い物をするために洗剤を付けたスポンジを泡立てながら、唯さんが優しい顔してる。

 一葉は使った食器、俺は台拭きを持って唯さんに近付いて、同時に首を傾げた。


「春の樹木に芽吹く一枚の葉。二人は一つってイメージです。自分の息子達は仲違いしてバラバラになってしまったけど、孫達はそうはならないで欲しい。そんな願いが込められているように、私には感じました」


 一葉が持ってきた食器を受け取って、唯さんは洗い始める。俺は唯さんが洗った食器を受け取って、泡を流す。


「そういえばお祖母様、僕と兄さんが手を繋いでるのを見るとニコニコしてたかも」


 俺から受け取った食器を乾いた布で拭きながら、一葉が子供の時のことを口にした。


「確か……兄さんがおかしくなっちゃう前は一緒に本邸にいたんだよ」

「おかしくって……人を病人みたいに」

「だって、本当におかしかったんだよ。別人みたいになっちゃったんだ」

「よく覚えてるなぁ、お前」

「そりゃあ僕は兄さんばかり見てたからね」


 ふふんと胸を張った弟を、褒めるべきか悩む。こいつのブラコンは根が深いみたいだ。


「それでね、僕と兄さんはよく、母さん達の目を盗んで遊んでたの。その時にお祖母様に見つかちゃって、怒られるかなって思ったんだけど笑顔で手招きされて、お菓子をくれたんだ」


『春樹ちゃんは良い子ね。弟をちゃぁんと、守っておやんなさい』


 伸びてきた手は母さんの手よりも皺が多くて、殴られると思って身を固くした俺の頭を優しく撫でた。

 唐突に湧いてきた、幼い日の記憶。


「そのお菓子ってさ、溶ける紙に包まれた飴じゃなかったか?」

「そう! 柑橘系の、箱に入ってるやつ」

「あー……なんか、思い出したかも」


 確か俺は、何度か会いに行った。でもそれが母さんにバレて――


「春樹さん?」


 俺の手から食器が落ちて、割れた。


「兄さん何してるの? 危ないなぁ」

「悪い。手が滑った」


 割れた食器を片付けながら俺の頭はズキズキと、痛み始めていた。


   ※


『綾乃さんっ、そんなに乱暴にしないで頂戴!』

『勉強サボってこんなところにいたのね。遊んでばかりいたら立派な大人になれないのよ? あなたは長男なんだから』

『綾乃さんっ、やめて! 綾乃さん!』

『子育てに失敗したお義母様は口出しなさらないでください。私の息子をここの次男みたいにしたくないんです』


 悲鳴じみた声を上げてるのは、婆さんだ。

 母さんは俺の手を掴んで引っ張ってる。


 自分の家に帰る一葉を見送った俺は、自分の部屋で、思い出した記憶を反芻した。


 言葉をはっきり思い出せるもの、ぼんやりと場面だけのものもあるけどこれは、婆さんに関する記憶だ。

 頭を撫でてくれた優しい手を忘れられなくて俺は、こっそり婆さんに会いに行って、何回か二人で会話をした。

 行く度に、何かしらお菓子をもらったような気がする。


『春樹ちゃんはなんだかあの子に似ているわ。こんなことを言ったら春樹ちゃんのお父様に怒られてしまうだろうけれど……』


 何かを懐かしむように目を細めて、悲しそうに睫毛を伏せた。

 婆さんが言った「あの子」はきっと、陣さんだ。


 まるでほつれた糸を引っ張ったようにぽろぽろと、忘れていたはずの記憶が溢れ出す。


 なんで俺、忘れてたんだろう。

 なんで今更思い出したんだろう。


 嫌な記憶まで同時に溢れてきて、気分が悪い。

 閉じていた目を開けて俺は立ち上がる。一人でいたくない。唯さんの温もりが無性に恋しかった。


「煙草と飴の代わりが欲しいですか?」


 唯さんの部屋に行くと、温かな笑顔の彼女が両手を広げてくれる。俺は迷わず近付いて、抱きついた。


「……どうかしましたか?」


 優しい手が髪を梳く。

 優しい声が、耳を撫でる。


「……忘れていたことを、思い出したんです」

「悪いこと?」

「良いことも。両方です」

「聞いてもいいですか?」


 彼女の温もりに触れて声を聞いていたら、胸に渦巻いていた不安は、溶けて消えた。

 俺はほっと息を吐いて、頷く。


「聞いてもらっても、いいですか?」

「はい。喜んで」


 体を離して窺ってみた彼女の顔には笑みが浮かんでる。変わらず優しい笑顔に安心して俺は、口を開いた。

 幼い頃の記憶が、曖昧という言葉で片付かないくらい、無かったこと。

 それを唐突に思い出したこと。


「俺はもしかしたら、自分で記憶を封じ込めたのかもしれません」


 一葉は俺が、人が変わったみたいになったと言っていた。ノイローゼみたいだったとも。

 俺は確か、絶望したんだ。家族ってやつに。


「婆さんは、押し潰されそうになってた俺を助けようとしたんです。でも母さんには婆さんの言葉は届かなくて、元々嫌っていたみたいですけどきっとそれが、決定的な溝の要因になったんだ」


 優しくしてくれた婆さんのことも忘れて、一葉との思い出も消して俺は、逃げた。自分を守った。

 あのままだと俺は、壊れてしまいそうだったから。


 話しながらもどんどん記憶が溢れてくる。

 まるでパンドラの箱の蓋を開けたみたいに。嫌な記憶、悲しい記憶がたくさんだ。

 俺の箱の中には最後に、何が残るんだろう。


「両親は一葉の言った通り、俺らを道具としか思ってない。あんなところに一葉を残して、俺っ」


 何一人で逃げてんだよ。大事な弟置き去りにして。


「春樹さん、大丈夫です。一葉くんは大丈夫」

「っ、なんで……そんなことっ」

「本人に聞きました。春樹さんが覚えていなかった、ご両親から春樹さんが受けていた仕打ちのことも。一葉くんが私に話してくれたんです」

「いつの間に……」

「実は私達、仲良しなんですよ」


 静かに空気を震わせて笑った唯さんは、俺の顔を覗き込む。優しい顔して、俺の頬を撫でた。


「一葉くんは、ご両親に殴られることはなかったそうです。それはあなたが全部を引き受けていたからだと、一葉くんは言っていました。それに、あの子は強い子ですよ」


 頭が、重たい。

 舌も唇も重たくなって、言葉が出て来ない。

 何を言いたいのか、何を言ったらいいのかも、浮かんでこない。ただ喉が、焼けるように熱い。


「一葉くんにとって、どうして春樹さんがあそこまで大切なのか。何故、一葉くんの唯一になれたのか。思い出したのなら、わかるでしょう? あなたはちゃんと守っていたんです。守れていたんです。あなたと一葉くんはまた、会いたい時に会える。会話を出来る場所にいるんですよ」


 堪えることなんて出来なくなって、俺は唯さんに縋り付いて、ガキみたいに泣いた。



『兄さんは僕の兄さんで、母さんで、父さんなんだよ』


 弟が向けてくる信頼。小さな手を握り締めて、守りたいと思った。

 庭を二人で探検するのが密かな楽しみ。息が詰まるような室内から抜け出して、手を繋いで広い空の下を歩いた。


『兄さん』


 この笑顔を守れるなら耐えられた。頑張れた。きっと、支えられていたのは俺の方。



 温もりに包まれていたおかげか、夢は穏やかな過去の記憶だった。

 唯さんの部屋の布団で俺は、唯さんの胸に顔を埋めて眠ってた。

 俺の両腕は唯さんの腰に回って、唯さんの両手は俺の頭を抱えてる。身動ぎして見上げた唯さんは、まだ寝てるみたいだ。

 微かに開いてる唯さんの唇に、俺は自分のそれを寄せる。

 触れるだけのキスをして、今度は俺が唯さんを抱き寄せる。

 胸元に彼女の頭を寄せて、梳くように髪を撫でた。


「春樹さん……?」

「……起こしちゃった?」

「ううん。おはよ」

「おはよう」


 額に唇を寄せると唯さんは幸せそうに笑って片手を俺の背中に回す。そのまま身を寄せてきたから俺も、腕に力を込めて抱き締めた。


「唯さん」

「んー?」

「俺、一葉と話して、それからケジメをつけに行こうと思うんです」

「ケジメ?」

「はい。ケジメつけて、調理師免許も取ってからで待たせてしまうかもしれないんですけど……プロポーズしてもいいですか?」


 一瞬間が空いて、唯さんがぎゅうっと抱きついてきた。俺は彼女の髪を掻き上げて確認する。耳も首筋も真っ赤だ。


「……プロポーズの予約ですか」

「はい。ダメですか?」

「ダメなわけ、ない」

「良かったです」


 さらっと言ってみたけど実は緊張した。だからほっと息を吐いて、唯さんを抱き締め直す。


「あなたを愛してます」


 俺は唯さんを手放せないと思う。失いたくない。誰にも取られたくない。だから、プロポーズの予約。


「やっぱり私は、春樹さんに翻弄されてしまうようです」

「あなたのような素敵な女性を翻弄出来るなんて、光栄です」


 トンッと胸元に頭突きされた。

 柔らかな唯さんの髪を撫でながら、温もりを感じて、思う。

 俺が自分で封じ込めた嫌な記憶。溢れた不安や悲しみを唯さんがそっと包んでくれて、俺の胸に残ったのはきっと――希望と愛だ。


 なんて、クサくて恥ずかしくて、口に出しては絶対言えない。

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