第26話 握り飯の記憶3

 目が覚めたら俺はソファで寝てた。

 頭が重くてグラグラするこれは、二日酔いだ。珍しく記憶が飛ぶほど飲んだみたいだ。


「春樹さん? 起きましたか?」


 うーうー唸ってたら唯さんが現れた。俺の天使。グラスに入れた水をくれたから、一息で飲み干す。


「俺、昨夜のこと覚えてないんですけど……」

「当たり前です。まるで水でも飲むようにごくごくと日本酒を飲んでいて、驚きました」

「……一葉かずはは?」

「春樹さんのベッドで寝てます。お酒は飲んでませんよ」

「そうですか……。気持ちわりぃ」


 起き上がっていられなくて、ソファに横になる。唯さんが苦笑しながら頭を撫でてくれるのが、心地いい。


「昨夜はとても楽しそうでした」

「俺、何か変なこと言ったりとかしました?」


 くすくす笑い声が聞こえたから、うっすら目を開ける。何かあったのかなって記憶を辿るけど、グラグラしてて、思考が纏まらない。


「まるで猫のように一葉くんを可愛がっていて、一葉くんも嬉しそうにしていました」

「…………他には?」

「珈琲について、熱く語っていました」

「まぁじかー。すみません」

「いいえ。勉強になりました」


 こんなになるのは陣さんの友達連中と飲む時ぐらいだ。よく、飲め飲め攻撃で潰される。


「もう少し、眠りますか?」

「……風呂、入ります。朝飯作んねぇと」

「私がやりますよ」

「すんません……」

「いいえ。可愛い春樹さんを見られたので、私今ならなんでもします」

「俺、唯さんに何か……?」


 恐々聞いたら唯さんが楽しげに笑って、人差し指を唇に当ててウィンクした。秘密です、だって。

 可愛すぎて心臓撃ち抜かれた。


 熱いシャワー浴びたら大分すっきりしたけど、やっぱり昨夜のことは思い出せない。きっと思い出す必要のないことなんだって納得して、台所に向かう。

 陣さんは珈琲飲みながらソファで新聞読んでたけど、歩と一葉はまだ起きてないみたいだ。


「珈琲、どうぞ」

「ありがとうございます。パンケーキ?」

「はい。昨日歩ちゃんが食べたいと言っていたので」


 ニコニコニコニコ、なんだかいつにも増して唯さんの機嫌がいい気がする。

 昨夜、俺は一体何をしたんだ?


「ご機嫌なのはどうしてですか?」

「全く覚えてないんですか?」

「はい」


 珈琲を飲んで頭を乱暴に掻き回していたら、キスされた。

 ふふっと笑って、唯さんはパンケーキをひっくり返す。


「春樹さんがすっごく可愛かったの」

「具体的に、どのように?」

「甘えん坊さんでした」

「どんな感じで?」

「ずーっと私にくっついて、手を繋いだりキスしたり、好きって言ってくれたり頬ずりしたり」

「そ、そんなにっすか?」

「はい! もうすっごく可愛かった」


 俺は久しぶりに会った弟の前で、酔って恋人にデレデレしていたらしい。やっちまった……。

 頭を抱えた俺の横では唯さんが鼻歌を歌ってる。これだけ唯さんがご機嫌なら、まぁいいかとも思う。


「今日は、歩とどこか行くんですか?」


 聞いたらきょとんとされた。


「本当に全然記憶がないんですね? 今日は、一葉くんが春樹さんを独り占めする日です」

「なんでですか?」

「昨夜そう決まりました」

「唯さんは?」

「覚えてないなら知ーらない」


 楽しそうに笑ってる唯さんは意地悪モードだ。くすくす笑って楽しそうにしてるから忘れたらまずいことではないんだろうけど……この態度は、気になる。


「ほらお兄さん? 弟くんを起こしてきてください」

「はーい」


 また一つ、唯さんがキスをくれた。こんなに積極的に唯さんがキスをしてくれるなんて珍しい。

 自分の部屋に一葉を起こしに行きがてら陣さんにおはよって声を掛けると、ニマニマ口元が歪んだ笑みを向けられた。あの顔は記憶から消しておこうと決める。

 碌なことではないと思う。きっと昨夜のことをからかう気満々だ。

 俺、何したんだマジで!


「一葉ぁ、起きろー」


 自分の部屋に入ったらベッドがこんもりしてた。顔がどこかわからない布団の塊。苦しくないのか心配になる潜り込み方だ。


「一葉、飯!」

「…………さむ」


 掛け布団をはがすと一葉は布団の中で丸まっていた。服は俺のスウェットだ。鼻水の服はどうしたんだろ。


「一葉、起きろって」

「…………兄さん?」

「なんだ?」

「兄さんだ……」

「うん」

「夢だったらどうしようって、思った」


 またうるうるしてる。

 泣き虫だなって笑って、寝癖がついた一葉の頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。


「朝から泣くなよ。俺はもう、ここからは逃げない」

「うん!」


 もうすぐ二十歳の男がこんなので大丈夫かって心配になるけど、きっとこいつは一人、俺が逃げた後もあそこで頑張っていたんだ。ならこれくらい仕方ないのかもな。

 一葉を連れて戻ると歩も起きて珈琲を飲んでた。パンケーキの甘い香りがする。


「僕、おにぎりが食べたい」


 一葉にじっと見つめられたけど、額を手の甲でコツンと叩いて嗜める。


「また今度。折角作ってくれたんだ。ありがたく食え」

「はーい」

「おっはー弟くん」


 歩から珈琲を渡されて、なんだか一葉が動揺してる。


「おはよう、猿子さん」

「何? その呼び方定着? あんまりひどいとまた泣くぞ」

「脅すの? いいじゃん。猿子さん呼び可愛いと思う」

「騙されねぇぞ」


 昨夜の内に意気投合したのか、二人でじゃれ合ってる。陣さんはそれを微笑ましそうに眺めてて、唯さんは俺の隣に座って笑う。


「昨夜二人でお話していたみたいです。春樹さんが寝ちゃってからも」

「そうなんですか?」

「はい。どれだけ春樹さんを好きか二人で語り合っていたので、私も参加しました」

「いやいや……。冗談、ですよね?」


 まさかそんな話はしないだろうと思ったけど、唯さんはニコニコしてるだけで答えない。


「唯さん?」

「内緒」


 今朝の唯さんは秘密が好きみたいだ。またくすくす笑ってる。

 一葉と歩も喧嘩しながらも楽しそうだし、陣さんは、孫が遊びに来た爺さんみたいな顔してる。

 どんどんうちが騒々しくなっていくなって思ったら俺も笑えてきて、唯さんが作ってくれた朝飯を満たされた気持ちで腹いっぱい食べた。



 一葉かずはが昨日着てた服は洗濯中だったから俺の服を貸した。

 一葉の方が背も低くて身体も小さい。だから少しだぼだぼで、ちゃんと飯食ってないんだろうなって心配になる。

 昨夜と今朝はがっつり食べてたけど、普段は本当におにぎりばかりなのかな。


「お前、実家でもそんなに偏食だったのか?」

「うん。園宮そのみやさんのご飯、おにぎりだけ食べてたら僕には自動的におにぎりが出て来るようになった」

「家政婦さんはロボじゃねぇぞ?」

「でも会話しないし、配膳ロボみたいな存在だよ」


 当たり前って顔してる。

 でも俺も、あそこにいた時の飯は腹を満たすためだけで、台所に置かれてる物を適当に食べてたな。陣さんや唯さんと取る食事みたいな、温かい団欒風景って記憶にない。


「昼飯、俺が作ってやる。何食いたい?」

「おにぎり!」

「他にねぇの?」

「ない。塩むすびがいい。海苔は無しね」


 俺は一葉の食意識を改善しなくちゃいけない気がする。


 義雄さんの店に行くの、俺は置いて行かれた。

 朝飯の後で歩がテレビゲームがしたいとか言いだして、ついでに取りに行くからそんなに人数いても邪魔だしってことで、俺と一葉は留守番。

 途中だった洗濯物は俺が引き継いで、一葉は俺の後ろを忠犬みたいについて回ってる。


「お前、洗濯も自分でしねぇの?」

「しない。全部クリーニングだよ」


 掃除も人を雇ってて週一で来るらしい。勉強に専念出来る環境って言えば聞こえはいいけど、こいつの今後が心配だ。


「干すの手伝え」

「うん! どうやるの?」

「……そういえば俺も、ここ来るまでなんにも出来なかったな」


 一葉に洗濯物の干し方を教えながら思い出す。

 俺は本当、何も出来ないガキだった。飯の作り方、洗濯の仕方、掃除の仕方、全部陣さんが一から教えてくれたんだ。


「なぁ。これからも会えるか?」


 俺と陣さんがこいつと関わってるっていうのは、実家にバレるとまずい。一葉が親戚連中に攻撃される口実になる。でももし一葉が言うようにバレないんだったら、これからも会いたい。


「会ってくれるの?」

「お前が嫌じゃなくて時間があるなら。……俺は会いたい」

「僕もっ、僕も兄さんともっと一緒にいたい!」


 また、泣きだした。


「泣き虫だなぁ……そんなにあそこ、つらいか?」


 俺はつらかった。こいつはどうなんだろうって聞いたら、一葉は泣きながら首を横に振る。


「ある意味楽しいよ。つらいのは兄さんがいないこと」

「なんでそんな……俺?」


 こいつが慕ってくれる要素が俺には思い当たらない。最悪な兄貴だったと思う。

 眉間に皺を寄せて考えてる俺を、一葉は涙の残る顔で見上げて、笑顔になった。


「あそこで温かかったの、兄さんだけだった」


 別々の部屋で、別々の家庭教師。

 俺はこっそり抜け出して、台所で塩むすびを作って一葉のところに忍び込んで一緒に食ってたらしい。かなり小さい時のことらしくて、俺は覚えてない。


「後はね、あの腐った連中との集まりの時にも兄さんは僕と手を繋いでてくれたんだ。嫌みなハトコ達をやっつけてくれたし、怖い夢見て一人で泣いてたら、一緒に寝てくれたよ」

「よく覚えてるな? 小さい時のことなんて俺、勉強してた記憶ぐらいしかねぇや」


 へったくそな塩むすびの形は覚えてる。けど、それを誰と食べたのかは覚えてない。

 もしかしたら俺は、母さんに作ってもらいたいとか思ってた所為で、あれは母さんが作った物だって思い違いしたのかな。

 それを言ったら、一葉が苦虫を噛み潰したような顔になった。


「あのひとは子供が嫌いだし、綺麗な手が汚れるのも嫌がる。僕らはあのひとの、あの家の、道具だ」


 思わず、一葉を片腕で抱き寄せた。


「大丈夫だよ兄さん。僕ってあの家にぴったりな性格だから上手くやってる。兄さんは優しいからあそこは無理だ。僕に任せてよ」


 逃げて、独りにしてごめん。そんなこと言う資格……俺にはない。


   ※


 たくさんの握り飯を作った。

 一葉のリクエストの海苔無し塩むすびだけじゃなくて、常連の婆さんからもらった梅干し入りとか、おかかとジャコ混ぜ込んだりとか、味付けた牛肉入りだとかいろんな味。

 豚汁とかぼちゃの煮物も作った。


「おいおい、一体何人分だよ」


 帰ってきた陣さんのツッコミには苦笑するしかない。あまりにも一葉が楽しそうに作るから、俺も調子に乗った。


「余ったら一葉が持って帰る」

「いいの? やったぁ! コンビニの塩むすびってまずくはないけど何か違うんだよね」


 一葉は機嫌良く笑ってるけど、俺は泣きそうだ。

 陣さんは、優しい顔で一葉の頭を撫でてる。一葉は頭を撫でられて、不満そうなふりして嬉しそう。


「春樹さん?」


 泣きそうな俺は唯さんに気付かれた。右手で俺の頬を撫でて、彼女は柔らかに笑う。それ見たら余計に泣きそうで、縋り付くみたいにして、顔を隠す。

 逃げだした俺ばかりが救われてて、こんなの、不公平だ。


「何か、ありましたか?」


 包み込むように優しい声。

 不公平だって思うけど俺は、唯さんも陣さんも手放せない。なら俺は、勇気を出して会いに来てくれた一葉に、何が出来るんだろう。


「弟が可愛くて、おにぎり作りすぎた」

「そのようですね。すごくたくさん。おにぎりパーティーですね?」


 優しい声で、彼女は笑う。

 涙は引っ込んで、身体から力が抜けて、俺はほっと息を吐く。


「豆の袋重かったでしょう? 呼んでくれたら行ったのに」

「何を仰いますか。歩ちゃんと二人がかりで頑張りました」

「……腹、減った?」

「はい! ぺこぺこです」


 唯さんは、ふわふわ温かくて優しくて……本当、ほっとする。


「猿子さん、それ何?」

「ゲーム。飯の後でやろう! ぼっこぼこに負かしてやるから」

「やったことない。どうやるの?」

「はぁ? 何それ? 絶滅危惧種?」

「ごめんね。猿子さんの猿語って僕、理解出来ないみたい」

「お前ら兄弟似てないようでそっくり。ムカつくっ」


 歩が真っ赤な顔で一葉に掴み掛かってる。それを楽しそうに笑ってあしらってる一葉はちょっと、性格悪そうな顔してた。俺も人のこと言えないけどな。


「ゲームは飯の後。手伝え子猿ども」

「猿子さん、兄さんが呼んでるよ?」

「ども、って言われたんだからお前もだよ、猿男!」

「僕には猿の要素は無いと思う。僕は血統書付きの猫かなぁ」

「犬じゃないの? 春樹の犬」

「なら僕達犬猿の仲だね?」

「上手いこと言ったと思うなよ? つまんねぇよ」

「猿子さんって意地悪」

「あんたの方が意地悪で性格悪いだろ」


 喧嘩してるように見えて仲がいいみたいだ。二人が小走りで寄ってきて、競うように皿を運んで行く。


「賑やかだなぁ。いきなり俺、孫が出来たみたいになってる」

「疲れねぇか? 休みなのに悪いな」


 陣さんと俺、二人の時の日曜はのんびり釣りに行ったりとか、本読んでたりとかで静かな休日だった。昨日からうちが騒がしくて休めないかなって心配したら、髪をぐしゃぐしゃにされる。


「愛してるぜ、俺の可愛い息子殿」

「ばっ、ばっかじゃねぇの? 恥ずいこと言ってんな!」

「すぐ照れるんだからなぁ、春樹は。な、唯ちゃん?」

「真っ赤で照れた春樹さんは可愛いです」


 二人の優しい瞳に見守られて、なんだこの幸せな休日はって、感じになった。

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