第三章

8 握り飯の記憶

第24話 握り飯の記憶1

 梅が香る季節が来て、唯さんは正式にうちの同居人になった。

 智則は脅しが効いたのか音沙汰がなくなって、だけど同じ部屋に住み続けるのは怖い上に母親との思い出も色濃くてつらい。だから引っ越そうと考えてるって言った唯さんを、陣さんが説得した。

 もし坂の上以外で働くようになっても構わないし、家事が家賃代わり。

 唯さんがいることで客の回りが良くなって、売上もちょっと増えた。家事の負担が分散されるから、俺も勉強に時間が割けるようになって助かってる。

 デメリット無しでメリットだらけなんだっていう説得だったみたいだ。


「唯さーん! 来たよー」


 最近やたらと歩がうちに来るようになったこと以外は、至って平和。


「何? また出掛けんの?」


 土曜の朝。唯さんが用事あるって言ってたのは歩とだったらしい。


「今日は買い物。春樹も暇なら運転手で連れて行ってやる。陣さんの許可は取った」

「まず俺の了承取れや、猿」


 デコピンしてやったら、キィキィ子猿がうるさくなった。


「ごめんね、歩ちゃん。もう少し待ってー」


 バタバタガタガタ、唯さんの部屋から音がする。さっきまで掃除と洗濯を一緒に片付けてたから、まだ支度が整ってないみたいだ。


「お前さ、車はいいけど土曜だし、行く場所によっちゃ今から行って駐車場入れるかわかんねぇよ」

「えー? そうなの?」

「どこ行くんだよ」


 歩が言った場所は、都心から少し離れた隣の県のアウトレットモールだった。電車でも行けるけど、車の方が便利だ。


「最初から運転手させるつもりだったなら事前に言え」

「今朝思い付いたんだもん。親父がそこなら車の方が楽だろって言うから、春樹がいるかーって」

「俺は便利屋か。たく……」


 でっかいため息吐き出して、俺は唯さんに声を掛けに行く。

 俺も今から支度するから焦らなくてもいいって伝えて、着替えるために部屋へ引っ込んだ。歩はリビングで適当に何かしてる。


「歩が運転してもいいんだぞ?」

「しねぇよ。唯さんは運転出来るの?」

「私、免許を取ってから数回乗ったぐらいで……もう怖いかなぁ」

「運転楽しいよ! 今度練習しようよ」


 歩が言っていた陣さんからの許可を念のため確認してから、車に乗り込んだ。

 どうやら俺は完璧運転手で、行きも帰りも一人で運転させられるらしい。勉強しかすることないから構わないけど、歩に足扱いされてるのが気に食わない。

 助手席に唯さん、後部座席に歩が座って、二人は楽しそうに話してる。俺は黙って運転手。


「春樹さん、お休みなのにすみません」

「運転代わります?」

「いえ、それはきっと……事故ります」


 チラッと見た唯さんが心底困ったって顔してるから、俺は噴き出して笑う。


「気にしないでください。運転好きだし、唯さんに構ってもらえなくて暇でしたから、お供が出来て光栄です」

「エセ紳士」

「子猿がキィキィ騒いでんなぁ?」

「嘘っこ紳士ー」

「黙れ猿。降ろすぞ」


 赤くなって照れた唯さんを堪能しようとしたのに邪魔が入った。こいつがいると唯さんにまで乱暴な口調が出るようになるから困る。気を付けないと。

 目的地に着いて、唯さんの手は歩に取られた。まぁ俺はただのお供だし、我慢して二人の後ろを歩く。


「あ! このワンピ唯さんに似合いそう」

「可愛いね。……でも値段が可愛くない」

「うっわ、マジだ」

「歩ちゃん、こういう元気系好きでしょう?」

「好き好きー! でもそろそろ大人路線も狙おうかなって」

「こんなセクシーな感じ?」

「おぉ! 意外と好き!」


 女の買い物は……長い。

 行ったり来たりして結局買わないとか……なんだろ、眠くなる。

 煙草吸いてぇな。珈琲飲みたい。


「春樹さん、顔がうんざりしてます。飴食べますか?」

「食います」


 苦笑した唯さんから飴をゲットして口に入れる。オレンジ味だ。

 俺はただのお供。気配を消そうと決めて、飴をカラカラ口の中で鳴らしながら楽しそうな二人の後をついて歩く。唯さんがチラチラ気にしてくれるけど、気にしないでって微笑んで前を向かせた。


「春樹さ、顔はいいし若いんだからもう少しオシャレしたら?」

「オシャレなー。だるい」

「春樹さんは今の服でも十分素敵です」


 俺はシンプルが好き。シンプルが楽。金が勿体無いから服は必要最低限しか買わない。


「でもさ、ジーンズとかよく高そうなの履いてるよな?」

「それは陣さんの。体型変わって履けなくなったのとか、いろいろもらった」

「陣さんオシャレオヤジだもんな。春樹がダサ男にならないのは陣さんのおかげかぁ?」

「子猿がファッションを語るか」


 イラッとしたから、脳天チョップしておいた。


「マスターのお古だから、味のある大人の服装なんですね」


 なるほどって、唯さんが納得してる。


「あなたに、釣り合いますか?」


 退屈だったから唯さん成分の補給。

 にっこり微笑んで指先で頬を撫でる。面白いほど赤くなって照れる唯さんが最高だ。ずっと眺めていたい。


「唯さんといるお前は一体誰だ?」


 子猿が本気で邪魔だ。


「俺は俺だ、猿」

「なんで私には不機嫌なんだ! その爽やかエセ紳士要素の欠片くらい向けてみろってんだ!」

「無理。うぜぇ。騒ぐな」

「なんでだよぉ! 優しくしやがれッ」

「誰にでも優しくてどうする? 好きな女限定だ、バカ猿」


 子猿が腕にぶら下がってきてウザい。でも何故か、唯さんは赤くなって照れ続けてる。彼氏に猿が巻き付いてるのは気にならないらしい。


「可愛いですね。どうしたんですか?」

「いえ、あの……お気になさらず」

「あまーい! 春樹があめぇっ! 甘ったるい! やめてくれぇ! 珈琲飲みたいぃ」

「猿。自由だよな、お前は」

「まぁな! 珈琲飲もうぜ! 小腹も減った」

「へいへい。唯さん、行きましょう」

「はい!」


 両手に花……というより、右手に花束、左手に子猿のぬいぐるみがぶら下がってるって感じか。


「おい歩。重い。歩きづれぇから離れろ」

「だってぇ、歩き疲れたー。引きずってー」

「捨てるぞッ」

「春樹さん、どーどー」

「俺は馬ですか?」

「暴れ馬、的な感じですかね?」

「唯さん……余裕ですね?」


 子猿でも、歩は俺を好きだった女だ。気になったり嫌な気分になったりしないのかなって心配したんだけど……唯さんはほわりと微笑んだ。


「春樹さんがきっぱりした態度をとってくれているので意外と平気です。むしろ微笑ましいです」

「唯さんは大人なんだよ! 見習えエセ紳士」

「てめぇはそれに甘えてばっかいねぇで、遠慮を覚えろっ」

「遠慮してるもーん。気も使ってるもーん。あんまり意地悪だとチュウすんぞ!」

「すんなバカ猿ッ」

「チュウはさすがに、大人の仮面もはがれます」

「冗談! 唯さん冗談! 怒んないでぇ。大好きー」


 俺から離れた歩は今度は唯さんに抱きつく。騒々しくて忙しいやつだ。


「私も歩ちゃん、大好き」


 唯さんが可愛い可愛いって歩の頭を撫でて、二人はまた手を繋いで歩いてる。

 女ってやつは本当に謎。でも唯さんが俺を信じて、歩のことも信じてくれてるからこそ今の三人の関係が許されるんだと思うんだ。歩も唯さんを本当に好きみたいだし、俺がしっかりきっぱり、ブレずに唯さんを不安にさせないようにすればいい話なんだろう。


「帰ったら俺に、たくさん構ってくださいね」


 空いてる方の手をするりと繋いで囁いたら、唯さんの耳が赤くなる。

 家に帰れば俺は唯さんを独り占め出来るんだ。今は歩に譲ってやろう。


 それぞれが満足の行く買い物が出来たらしい唯さんと歩は、帰りの車の中でうとうとしてて静かだった。

 俺は、休日のお父さんの気分。本当の家族とはこういう風に出掛けたことがないから知らなかったけど、これって、幸福な疲れだなと思う。


「歩、起きろ。着いたぞ」

「えー? なんでうち? 唯さんとお泊まりしたいー」

「聞いてねぇし。そうするならこのままうちに帰るぞ?」

「唯さん、お泊まりいい?」


 寝起きの歩が唯さんに甘えてる。俺もだけど、こいつもまだ子供だ。


「マスターと春樹さんがいいなら、私は嬉しいよ」

「だってぇ春樹。いい?」

「仕方ねぇな。どうせここまで来たし、荷物置いて着替え取ってこいよ」

「あーい。置いてかないでね?」


 歩が不安そうに振り向いたから片手を振って答える。俺もそこまでひどいやつじゃねぇよ。


「唯さん、猿の子守り疲れません? 大丈夫?」

「もう春樹さん。歩ちゃんは女の子なんだから、猿猿言わないでください」

「歪んだ愛情表現ってやつですよ。俺なりに可愛がってます」


 怒られたからくつくつ笑って答えたら、唯さんが優しい顔になった。


「仲良しで、時々妬けます」

「……やっぱり、不安?」

「不安、というより羨ましいなぁって」

「唯さんも意地悪されたいんですか?」

「よく、意地悪されてます」


 唇が尖った。

 俺はこの人が可愛くて仕方ない。歩がいない間にと思って、シートベルトを外して助手席ににじり寄る。


「俺が触れたくなる相手は、唯さんだけです」

「私、春樹さんに敵う気がしません」

「お互い様ですよ」


 外出する時の唯さんは、ピンクベージュの口紅を付けている。色が移るけど、気にしてたらキスが出来ない。

 啄ばむキスをしながら右手の平でふわふわのほっぺを堪能。

 貪るキスをしたい。でもそうすると歩にバレバレになるだろうな。

 でも、いいや。

 口紅を舐めとる勢いで唯さんの唇舐めて、舌を絡めた。肩に置かれた唯さんの手から軽い戸惑いを感じたけど、そんな思考、キスで溶かす。


「あーぁ。口紅はげちゃった。……でも帰るだけだし、いいよな?」

「事後承諾……」

「だって、帰っても歩に唯さん取られるんだから、許してよ」

「もう! 口紅移っちゃってます!」


 ポケットティッシュで唇拭われて、感触消えたのが不満だったからもう一度触れるだけのキスしてから運転席に戻った。

 真っ赤な顔で潤んだ瞳。唇はリップを塗ってごまかしてるけど、ピンクベージュは完璧に落ちゃってる。

 唯さんの姿はバレバレであからさまだ。


「キスの所為で口紅が取れた唇って、色っぽい」

「みっともないの間違いです」

「怒るなよ」

「い、いつも敬語なのに狙ってタメ語、ずるい!」

「たくさんドキドキしてよ。俺に」

「し、してるもん。いつも」

「やばっ、唯さん可愛い」

「意地悪! これ意地悪でしょう! 赤い顔、おさまらないようにしてる!」

「バレました?」


 声を立てて笑ったら、赤い顔の唯さんに睨まれた。でもその顔は逆効果。


「かぁわいい」


 俺の顔はとろっとろだ。

 真っ赤な顔の唯さんはうろたえて俯いちゃった。そんなタイミングで歩が元気いっぱいに戻って来て、俺は車を出す。

 後部座席で歩がベラベラ喋ってる。

 唯さんは助手席で前を向いてれば見えないってことに気付いたみたいで、顔の赤みが引くまで前を向いたままで答えてた。

 俺はそれを見て、ニヤニヤ笑いがおさまらない。

 スーパー寄って夕飯の買い物してから家に帰った。歩はまた唯さんと酒を飲むつもりらしい。女子トークをするんだと。

 荷物片付けてから、陣さんに帰ったことと車の礼を言いに店に下りたら客が来てた。店の客じゃなくて、多分俺の客。


一葉かずは……。何、してんだ?」


 カウンター席で、陣さんと話しもせずに珈琲飲みながら本を読んでる男がいた。実家出て以来会ってない、俺の弟だ。


「…………兄さん、まともになったんだね」


 記憶の中の一葉かずはより声が低い。見た目もでかくなって大人になってる。あの時はまだ、こいつも俺も、ガキだった。


「ここ、誰に聞いた? 誰も教えてくれなかっただろ」


 俺が陣さんのところに引き取られたのは親戚も両親も知ってる。でも俺は、自分の携帯の番号を親に知らせてない。勘当同然で出て来たからきっと向こうも知りたくないだろうし、陣さんと俺は坂上家の鼻つまみ者だ。

 跡継ぎになる一葉にはここの場所を教えたくない上に、俺らの存在も忘れさせたいはずだと思う。


「教えてもらえなかったよ。だから、探った。正月におじさん達酔わせて、聞き出したんだ」

「なんでそんな、面倒なことしたんだ?」


 理解出来なくて首を傾げたら睨まれた。だってこいつも、俺を嫌ってた。蔑んでた。会いたい理由がわからない。

 ……何かの、復讐かな。


「会いたかったからに決まってるだろ? なんでっ、なんで僕まで捨てるんだ! 兄さんのろくでなしっ」


 涙目で罵られた。

 ろくでなしはその通りだ。でも理解が追いつかない。

 陣さんを見るといつもの優しい苦笑を浮かべてる。


「俺には話したくねぇって。唯ちゃん達は?」

「上に、いる。歩がまた泊まるって」

「声掛けて来いよ。そんで、珈琲淹れてやるから二人で話せ」


 俺は頷いて、一葉に少し待つよう告げてから二階に戻る。


 心臓がバクバクしてる。ビビってんのかな。

 何を話せばいいんだ? なんで、あいつは俺に会いたかった? なんで……泣きそうになってたんだ?

 わからない。わからなくて、気付いたら手が、震えてた。


「春樹さん? どうしました?」

「唯さん…………。すみません。ちょっと用事出来て、歩と適当にしててください。台所も適当に」

「顔真っ青。どうしたの?」


 唯さんの両手に頬を包まれて、下から顔を覗き込まれた。

 そんなに顔に出るほど動揺してるのかって、苦笑が漏れる。


「弟が、下にいたんです。話してきます。どれだけ時間が掛かるかわからないから、夕飯、適当にやってもらっていいですか?」

「弟さん? どうして?」

「それを聞きに。何か話があるみたいで」


 唐突に抱き締められた。

 背中を撫でられて、力が抜ける。


「私はここにいるから。夕飯、おいしいの作って待ってます」


 柔らかい声。優しい体温。緊張が溶けて、安心した。


「うん。いってきます」

「いってらっしゃい」


 情けない顔で笑う俺を、唯さんが笑顔で見上げてる。

 手を握って勇気もらって、俺は過去と対峙するために一階へ下りた。

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