第20話 大人で子供の俺たち3

 唯さんのアパートの部屋は玄関すぐが台所。そこから二部屋が縦に繋がってる。

 一人で住むには広いけど、二人で住むには少し狭い。

 ここにずっと、小さな時から母親と二人で住んでたんだって。


「あんまり物、無いんですね」


 殺風景ってわけじゃない。生活感はちゃんとある。でも片付いてて、余分な物がほとんどない。


「母が物に執着しない人だったので、私もそれが移ったんですかね」


 優しくて、寂しそうな笑み。母親を思い出してるのかな。


「母の物は、母が自分で捨ててしまって……。ほとんど何も、残っていないんです」


 だからこの家は余計に広くて寂しく感じる、そう言って、唯さんは笑う。


 俺は、真ん中の部屋に座って唯さんが荷物を纏める姿を眺めてる。


「どうせ治らないのなら家にいたいって、ギリギリまで普通に生活してたんです。多分とっても痛かっただろうに、普通に笑って」


 淡々とした、柔らかな声。

 俺は、唯さんの母親の気持ちも唯さんの気持ちも、想像することしか出来ない。だから何も言わない。言えない。


「智則さんのことがあって……でもそれは、母には言いませんでした。結婚はダメになったとだけ。……言えなかったです。知らずに不倫してただなんて……喜ばせるどころか幻滅させるようなこと、言えなかった」


 声が震えて、彼女の手が止まった。

 俺は唯さんに近寄って、背中から抱き締める。

 最後の最後で、隠し事と嘘。それは唯さんを打ちのめしたんだ。これまでの日常全て、捨てたくなるくらいに。


「自分で全て整えて……お金まで、残してくれてて……なのに私は何してるんだろうって、思って……」


 でも全てが億劫で、どうやって足を踏み出すのかもわからなくて。

 そんな時に見つけたのが「喫茶坂の上」だった。

 家の中もつらい。外も居場所がない。うちの店は静かで居心地が良かったって、俺に体重預けて、唯さんは微笑んだ。


「お店の名前が、意味深でした。周りに坂なんてないし……深い意味があるのではないかと考えたら、気になって」

「単純で、すみません」

「いえ。多分あの時の私が坂を転がり落ちた場所にいたから、そう感じただけだと思います」


 さて、と呟いた唯さんは、彼女の腹に回してる俺の腕をぽんと叩いた。準備を再開するから手を離せって意味だとはわかったけど、俺は反抗して、力を込める。


「……甘えん坊さんですか?」

「はい。もう少し、こうしていたらダメですか?」

「ダメじゃ、ないです」


 俺に預けられる彼女の重みが心地いい。しばらくそのまま、俺は彼女を抱き締めていた。


 荷物を持って唯さんの家を出る頃には、日が暮れかけてた。

 衣類が詰まったスーツケースと冷蔵庫にあった日持ちしない食材を詰めた袋を持って、アパートの階段を降りる。そのまま歩き出そうとしたら、玄関の鍵を閉めて追い付いて来た唯さんに、左手に持っていた袋を奪われた。


「手が、繋げません」


 唇尖らせて赤い顔。

 するり繋がれた手に、俺の心臓が暴れだす。不意打ちは反則だ。


「照れてますね。春樹さん、可愛い」

「そこはスルーしてください。両手塞がってて、顔隠せません」

「見放題です」

「見ないでください」


 見られないように顔を逸らすと、唯さんがくすくす笑う。

 ちょっと悔しい。でも、楽しい。

 手を繋いで黙って歩いて、うちに着いたら陣さんが何か作ってた。


「おかえり。歓迎会だ。ワイン開けるぞ」

「赤?」

「おぅ。春樹が飲みてぇって言うから買ってきた」

「お手伝いします」

「いいよ。唯ちゃんは荷物片付けちまいな」


 食材は台所にいた陣さんに預けて、唯さんのスーツケースを彼女の部屋に運ぶ。こっちは手伝えないから、俺は陣さんを手伝おうと思って台所に行った。


「智則と遭遇は?」

「ない。ここから帰ると手紙があったらしいから、仕事終わりに来てるんじゃねぇかって、唯さんが」

「相手がどこまで意気地のあるやつかわかんねぇから、念のため一人にはしない方がいいな」


 陣さんの言葉に、俺も同意する。夢見がちなただのサラリーマンだとしても、力で来られたら唯さんは敵わない。


「無理矢理何かされるのも怖ぇけど、旦那泳がせてる妻ってのも十分怖い生き物だ」

「なんで?」

「金を狙ってる可能性もあるんだよ。こっちに不利な証拠、相手に与えないようにしねぇとな」

「世の中こえー」

「怖いんだよ、春樹ちゃん」


 ニッと歯を見せて笑う陣さんの言葉で、俺は背筋が寒くなる。

 そういえば智則の手紙、唯さんの母親のことには一言も触れてなかった。見舞いとかも行ってたくせに、それって有りか?


 母親が余命宣告されてた元カノに、このタイミングで「君がいないとダメなんだ」ってメッセージ。弱ってるところに付け入る気満々な感じがしてなんだか……腹の辺りがもやもや、嫌な感じがした。


   ※


 あくびを噛み殺しながら洗面所に行ったら唯さんがいて、ビビった。そうだ、昨日から同居してたんだって思い出して、目が覚める。


「…………おひげ」


 朝の挨拶して近寄って来た唯さんに、顎を撫でられた。

 物珍しそうに見てるのは、なんでだろう。


「そりゃ生えますよ。でも俺、あんまり濃く無くて。格好いい生え方しないんですよね」


 へぇって呟きながら手のひらで感触を楽しんでる。男の寝起きの髭がそんなに珍しいのかと考えると同時に、いたずら心が湧く。

 だから腰を抱き寄せて、頬ずりしてみた。


「ショリショリします。春樹さんは、おひげ無しが素敵です」

「顔赤いのはなんでですか?」

「頬ずりなんてするからです。顔、近い……」

「キスの方が、顔、近くなりますよ」


 触れるだけのキスして微笑んだら、真っ赤になった唯さんが悔しそうな顔をしてる。唇尖らせてるのが可愛くて、俺は喉を震わせて笑った。


「髭、不評なんで剃ってきます」

「珈琲、淹れますね。朝ご飯はどうしますか?」


 聞かれて、どうしようか考える。俺と陣さんはいつも仕込みついでに飯を作って、休憩がてら食ってる。


「もし待てるなら、仕込みの後の休憩で一緒に下で食べますか?」

「一人は寂しいので、そうしてもいいでしょうか」

「どうぞ。ご遠慮なく」


 だいたいの時間を伝えてから俺は洗面所に、唯さんは珈琲を淹れるため台所へ向かった。

 洗面所では洗濯機が回ってる。

 いつもどっさり溜まってから毎週日曜に片付ける洗濯物。これからは溜まることがなくなるのかなって考えたら、不思議と笑みがこぼれた。


 唯さんは、俺たちが仕込みしてる間に洗濯と掃除をしてくれるらしい。


「朝起きて女の子がいる生活、いいな」


 階段を降りながら呟いた陣さんの声がニマニマしてそうだったから、振り向いた。そしたら、まさしくな表情してる。


「変態オヤジ」

「んだよぅ、春樹ちゃんだってご機嫌のくせにぃ」

「うっせ、黙れ。抱きつくなっ」

「照れちゃってぇ、かぁわぁいぃいー」

「声がキモい」

「ひっどぉい! 陣ちゃん泣いちゃう!」

「泣けるもんなら泣いてみろッ」


 本気で泣き真似始めやがったから、肩に回ってた陣さんの腕を振り払って厨房に入る。

 朝からテンション高いの、気持ちはわかる。俺だって、気合い入れておかないと顔がにやける。

 寝起きですっぴんの唯さん、めちゃくちゃ可愛かった。ほっぺかじりたい、とか思う俺こそ変態だ。


   *


「いらっしゃいませ」


 唯さんの声で、手を止めて顔を上げた。

 入って来たのは常連のお婆さん。作り途中のモーニングプレートを手早く仕上げてから唯さんに運ぶのを頼んで、俺がおしぼりと水を用意する。


「キヨさん、お久しぶりですね」


 上品で物静かなキヨさんは、長いことここの常連。週二、三度来てくれてたけど、最近は見なかった。


「お久しぶりねぇ。春樹ちゃんは相変わらず、主人の若い頃にそっくり」


 キヨさんはいつも、俺の手を握って話す。

 外が寒かったからか、皺の寄った手がひんやりしてる。温めるように握り返して、俺は会話を続けた。


「キヨさん、何かありました? 最近寒いし雪も降りましたから。大丈夫でしたか?」

「それがねぇ、転んでしまったの」

「えぇっ? だから最近いらっしゃらなかったんですか?」

「大したことは無かったんだけれどね、腰を痛めてしまって……。息子にじっとしていなさいって怒られてしまったのよ」

「キヨさんは散歩が好きだから、つらかったんじゃないですか?」

「そうなのよ。やっとお許しが出て、春樹ちゃんに会いに来られたわ」

「俺も、キヨさんに会えないの寂しかったです。アメリカンでいいですか? 今日、キヨさんの好きなプリンもありますよ」

「あら。陣ちゃんのプリン、いただこうかしら」

「ご用意しますね」

「えぇ、お願いね」


 ぽんぽんって、握られてた手を軽く叩かれて、俺の顔には自然と笑みが浮かぶ。ニコニコ嬉しそうに笑うキヨさんに見送られながら、注文の用意をするためその場を離れた。


「唯さん。運ぶ時にご紹介しますね」


 カウンターにいた唯さんに、キヨさんの好みを説明する。

 キヨさんはいつもアメリカン。プリンがある時はそれがあることを伝える。食べない時もあるから、確認が必要なんだ。

 手を動かしながら教えて、俺は唯さんを連れてキヨさんのところに戻った。


「キヨさん、新しいバイトの人です」

「はじめまして。有馬と申します」

「あらあら、可愛らしい子ねぇ」


 挨拶だけしてすぐにその場を離れる。話し込んで、珈琲が冷めたら勿体無い。


「キヨさんは、用がある時はこっちを見て手招きするんで、そしたら行ってください。雑談が長くなっても俺がフォロー入れます」

「わかりました。よくいらっしゃるんですか?」

「週に二、三度。だいたいこの時間に、散歩がてら寄ってくれるんです」


 常連さんにもいろんな人がいる。毎回同じ注文の人もいれば、毎回違う物を頼む人も。雑談が好きな人もいれば、珈琲を黙って楽しみたいって人もいる。

 お客さんに気持ち良く過ごしてもらえるよう、ホールが主になる唯さんには覚えてもらうことがたくさんあって、申し訳ない。


「ゆっくり覚えてくれたらいいです」

「はい。春樹さんをお手本に、頑張ります」

「手本になれたらいいですけど……」

「なります。常連の方皆さん、春樹さんを好きみたいです」

「それはきっと、社交辞令です」


 照れた。優しい顔で微笑んでる唯さんに見つめられて、余計に恥ずかしい。

 キヨさんの会計は陣さんが出て来てやった。俺はドアを開けて、外までお見送りする。


「気を付けて。またお待ちしてますね」

「えぇ、えぇ。また来ますよ。春樹ちゃんに会いに」


 ゆっくり去って行く曲がった背中を見送って、俺の胸は温かい。

 ここの常連の爺さん婆さんは、俺をまるで自分の孫みたいに可愛がってくれる。だから俺も、感謝の気持ちで接する。


 この仕事は、かなり楽しい。

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