第二章

6 甘い感謝の日

第16話 甘い感謝の日1

 この一週間はバレンタイン週間。

 来店してくれたお客さんにチョコレートを配ってる。


「坊主からじゃなくて、唯ちゃんからもらいてぇな」


 不満そうに口をへの字にしてるのは源三さん。

 まぁそうだよなって、俺も思う。だからこの仕事、男性には唯さん、女性には俺がやるように決めたんだ。


「今日はお休みです。また明日ですね」


 いきなり連勤は疲れるだろうからってことで、二日出勤した唯さんは、今日は休み。

 二日間だけでも大分仕事を覚えてくれた彼女は、ぽやんとしてるように見えて要領がいいみたいだ。


「で? やっぱりそういう関係になったのか?」

「唯さんに聞かなかったんですか?」

「秘密です、だとよ。カーッ、可愛いねぇ!」


 人差し指を立てて口に当てる仕草。源三さんがやっても可愛くないけど、本人もわかってるみたいだから指摘するのはやめておく。


「そうですね。なりました」


 微笑んで答えたら、源三さんが何故か嬉しそうに笑った。


「良かったじゃねぇか! 坊主は真面目だからなぁ。心配してたんだぜ?」


 常連の爺さん婆さん達で、俺が仕事ばかりで女っ気が無いことを心配していたらしい。お節介な人達だけど、胸がじんわり、温かくなる。


「ご心配お掛けしたお詫びに、チョコレートをもう一ついかがですか?」

「お前さんが淹れる珈琲がいいな」

「かしこまりました」


 俺の手元を見る皺に囲まれた目が、優しく細められる。

 源三さんは、珈琲を淹れる時の香りと音が好きなんだ。俺も、店内に流れるジャズと珈琲を淹れるこの音が好き。


「手動のミルの音も好きなんだがなぁ」


 店では手動だと効率が悪いから、豆を挽くのは残念ながら電動だ。


「俺も好きですよ。プライベートで時間がある時は、自分で挽いてから淹れています」

「あの、手を伝わる感触もいいよな?」

「そうですね。心が落ち着きます」


 こんなにハマるとは自分でも思わなかったけど、珈琲の話をするのは楽しい。ごくたまに、常連さんが珍しい珈琲豆を手に入れたからと分けてくれることもある。


「……上手くなったなぁ」


 しみじみ言われて、俺の口元がほころんだ。常連さんのこういう言葉は、本当に嬉しい。


「最後の一杯は気持ちなのでお代はいりません。また、お待ちしてます」

「悪いねぇ。また来るよ!」


 しょっちゅうはやらないけど、源三さんは毎日来てくれる。だからそのお礼だ。

 客商売ではたまにこういうことも大事だって、陣さんの受け売り。でも俺の気持ちでの奢りだから、俺が自分の財布から払う。これは陣さんも黙認してくれる。「店から」じゃなくて、「俺から」だから。


 昼ピーク過ぎのいつもの時間、唯さんはいつものように客として店に来た。

 いらっしゃいませって声を掛けて目が合うと、彼女はにっこり微笑んでいつもの席へ向かう。

 俺もいつも通り、水とおしぼりを用意して彼女のもとへ運んだ。


「いつもの、お願いします」

「かしこまりました」


 いつもの席でいつもの注文。だけど彼女の俺へと向ける笑みは、親密になった。

 俺の顔も多分、普段の接客時より緩んでると思う。


「これ、俺からのバレンタインのオマケです」


 昨日の内に作っておいたブラウニー。可愛くリボンでラッピングしてみた。

 喜ぶと思ったんだけど、彼女は何故か頬を膨らませている。

 理由がわからなくて、俺は首を傾げた。


「当日は、会う気が無いということですか?」


 不満の原因はそれらしい。

 俺が頬を緩ませて笑うと、彼女の頬はますます膨らんだ。


「土曜は俺も休みです。会ってもらえるんですか?」

「私だけがその気満々だったなんて、ショックです」


 今度は唇を尖らせて、俺がテーブルに置いたブラウニーの包みを人差し指で突ついてる。

 どこまでも唯さんは、幼くて可愛らしい。


「楽しみです。行きたい場所、考えておいてください」

「……はい」


 拗ねながらもミックスサンドに手を伸ばして、一口かじると、唯さんの目元がほころんだ。

 俺はその場を離れて、いつも通りカウンターで彼女の様子を見守る。

 ミックスサンドを完食して珈琲を飲んで、彼女は何かを悩んでる。じっと見つめているのはブラウニー。

 食べてもいいか悩んでるみたいだ。

 ふいにこっちを向いた唯さんと、目が合った。


『食べてもいい?』


 口の動きと動作で聞かれ、俺は頷く。

 嬉しそうに笑った彼女は包みを開き、一欠片取り出してパクりと一口。途端、最高に幸せって顔になる。

 作って、良かったな。

 足を椅子から浮かせてぶらぶら揺らしてる唯さんは、残りは家で食べる用に包み直して鞄に仕舞った。

 珈琲を飲み干してほぅっと一息。

 それがあまりにも幸せそうで、俺は一人、噴き出して笑う。

 また目が合って、彼女はにっこり微笑んだ。

 客足が途絶えるこの時間。

 俺と彼女の二人きりの店内。本を取り出して読み始めた唯さんの横顔を、俺は飽きずに眺めてた。


   ※


 閉店後は、調理師免許の筆記試験対策の勉強をするようになった。

 実技は朝の仕込みやまかない、夕飯作りで教えてもらってる。

 前々から実技は習っていたから、問題は筆記試験だ。勉強なんて久しぶりすぎて心配だったけど、昔勉強漬けだったおかげかなんとか進められてる。

 勉強してると煙草が吸いたくなる。

 けど、禁煙に挑戦しようと思うんだ。キスが煙草臭いとか思われるのはちょっとつらい。だけど禁煙もつらい。吸えないと思うと吸いたくなる。

 自然、舌打ちが増える。

 ペン尻が噛み跡だらけだ。


「春樹さん?」


 ノックに答えたら顔を出したのは唯さんだった。いつの間に来たのか、びっくりだ。


「春樹さんが禁煙で苦しんでいるとマスターから連絡が来たので、いい物を買ってきました」


 陣さんと彼女は、よくメッセージのやり取りをしてるらしい。

 笑顔の唯さんが俺に渡したのは、煙草の形のお菓子。ガリガリ食える甘いやつ。


「少しだけスゥッとするじゃないですか。咥えてたら気が紛れるのではないでしょうか」


 笑顔が無邪気だ。


「ありがとうございます。でも唯さん、一番気が紛れるのが何か、知ってますか?」


 にっこり笑って手招き。

 無防備に近付いて来た彼女の手を引いて、膝の上に横向きで座らせた。赤い顔で動揺してる唯さんの頬に、優しくキスをする。


「は、春樹さん?」

「キスしていい? 唯さん」

「え! いえ、あの、お邪魔になるのですぐに帰ろうかと」

「こんな時間に? 帰しませんよ」

「な、何を仰いますか! お勉強どうぞ!」

「しますよ。煙草吸いたい気分が紛れたら捗ります。だから協力してください」

「いえ、あの……」

「焦らすんですか? その分長くなるんで覚悟してください」

「横暴です」


 真っ赤でうろたえまくりの唯さん。あまりにも動揺するから可笑しくて、俺は彼女の肩に額を付けて、くくくっと笑う。そしたらまた拗ねたから、顎を捕まえて唇を寄せた。


「していいですか?」


 寸止めで許可を求めると、潤んだ瞳で彼女は頷いた。

 音立てて軽いキスを数回。

 油断させておいて、するりと滑り込む。しばらく彼女の味を堪能して離れたら、唯さんが腰砕けになっていた。


「この方法ならいけるかもしれないです」

「こ、効率が悪いのではないでしょうか……」


 俺は上機嫌で机に向き直る。

 唯さんは膝に乗せたまま。

 俺がそのまま勉強を始めると、唯さんは動けず声も出せずに困ってる。でもそのまま無視して勉強してたら諦めたのか、彼女は俺の肩に顔を埋めて大人しくなった。

 唯さんはやっぱり悪い男に騙されるタイプだなって、自分を棚に上げて心配になる。


「煙草吸いたい」


 呟くと、唯さんがそろりと顔を上げる。

 俺は彼女の唇に吸い付いて、舌を絡める。満足したら彼女の頭を片手でそっと肩に戻して勉強再開。

 楽しい。楽しすぎる。心無しか勉強も捗る気がする。

 口笛吹きたい気分で勉強して、気付いたら唯さんが舟をこいでた。

 そりゃ眠くなるよなって苦笑して、片手で彼女の身体を支えて勉強続行。

 時々唯さんの額にキスして息抜き。だけどこの作戦の難点は、足が痺れることだ。


「唯さん……。起きてください。足、痺れて立てないです」


 完全に眠ってしまった唯さんを揺すって起こす。でも起きないから、口を塞ぐことにした。

 深く深く彼女の口腔を堪能してたら、目を覚ました唯さんに背中をバンバン叩かれた。

 顔を離して、ぺろりと自分の唇を舐める。

 真っ赤で瞳が潤んだ唯さん、マジで可愛い。


「い、色気だだ漏れです……寝起きに破壊力抜群……」

「おかげで勉強が捗りました。またお願いします」

「無理です。……寝てしまいました。お邪魔してごめんなさい」


 一人反省会が始まりそうなのを、俺は笑顔で止める。


「いえいえ、ごちそうさまでした。泊まりますよね?」

「帰ります」

「ダメです。足が痺れて立てないので送れません」


 きょとんとした彼女が、すっくと立ち上がった。

 表情から彼女の考えてることが手に取るようにわかる。いたずらする気満々だ。


「触ってもいいですけど、触ったら泊まり決定です」

「着替えがないから無理です」

「明日早起きして、~ッ!」


 突つかれた。


「癖になりそうです。ほれほれ~」

「ゆ、いさんっ、やめっ……くっぅ」


 楽しそうに唯さんは俺に拷問を仕掛ける。これは対策を考えないと、次回に使えない作戦だ。


「帰ります。また明日」


 満足したのか、唯さんは微笑んで手を振りながら部屋を出て行ってしまう。

 俺は動けない。

 漏れ聞こえた会話で陣さんが送って行くらしいことがわかったから、俺はじっとして足の痺れがおさまるのを待つ。

 どうやら調子に乗った罰みたいだ。でも俺は諦めない。またやってもらおう。

 だってすっげぇ楽しく勉強出来た。

 効率も悪くない。問題は足が痺れることと、唯さんが暇になることだな。

 バカみたいなことを考えながら、俺は唯さんにメッセージを送る。


【来てくれてありがとうございました。調子に乗ってすみません。

 でも出来ればまたやって欲しいです】


【逆に邪魔になったのではないかと心配です。私、寝てしまいましたし……。

 次回はありません。

 お菓子、試した感想を聞かせてください。それ次第でまた持って行きます】


【とても捗りましたよ。

 咥えて頑張ります。

 また来てください】


【また明日。

 無理しないでくださいね? 

 おやすみなさい】


 一人で笑う変な奴になってるけど、笑いが溢れる。「また明日」が嬉しい。

 彼女のことを考えるだけでやる気が溢れてくる。こんなに幸せなの、俺の人生で初めての体験だ。

 おやすみの返信をしてから唯さんがくれたお菓子の箱を開けて、一本取り出して咥える。

 やる気が出たからもう少し、頑張ることにした。

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