第14話 シードルとりんごジュース2

 唯さんが起きたのは夕方だった。

 窓開けっぱなしだったけど、二人で抱き合って布団に潜り込んでたから意外と平気。

 俺も少し寝て、起きたら唯さんの髪に指を絡ませたりして遊んでた。


「起きました?」


 腕の中の唯さんが、小さく唸って身動ぎしたから声を掛けた。だけど返事がないし、顔を上げない。

 まだ寝てるのかなとも思ったけど、耳が赤い。


「どうしました?」


 小さな赤い耳。右手で包んで、親指で輪郭を辿った。

 ビクンって唯さんの身体が揺れて、赤い顔が俺を見上げる。

 近い。このままキスしてもいいかな。


「具合はどうです? まだ気持ち悪いですか?」

「いえ、大丈夫です。今は、心臓、口から飛び出そうな感じです」

「それは大変です。受け止めてあげましょうか? 口で」


 ドンッと拳で胸を叩かれた。

 真っ赤な潤んだ瞳で睨まれても逆効果。上目遣いだし、マジでこのまま襲いたい。


「水、飲みます?」


 我慢するために会話を続けた。

 でも俺の右手は唯さんの頬を撫でていて、親指が唇の柔らかさを確認してる。そこに目が吸い寄せられて、心臓、ドクドクしてる。


「飲み、ます」


 俺の親指を吐息が撫でてくすぐったい。なんだか全身、とろとろに蕩けそうな感じがする。


「口移し、します?」


 願望を口にしたら激しく拒絶された。自分で飲みますって、そんなに声を上擦らせて焦らなくてもいいのに。

 くっくっくって喉で笑いながら身体を起こして、俺はベッドボードに置いていた水を取る。


「これさっきのなんで、新しいのを入れてきます」

「いえ、これで平気です」


 俺と一緒に身体を起こした唯さんの顔は耳まで真っ赤。俺の手からグラスを受け取って、彼女は水を飲む。

 こくこく上下する白い喉を眺めて、俺は黙る。


「春樹さん色っぽいです。ドキドキします。その顔、やめて」


 水を飲み干した唯さんに謎の抗議をされた。その顔やめてって言われても、困る。


「生まれつきです」


 空になったグラスを受け取ってベッドボードに戻したら、視界の端で唯さんが首を横に振ってる。


「普段はもっと硬派な感じです。そんな、甘いお色気顔ではありません」

「それは……だって、あなたに欲情してます」


 唯さんが変な声出した。ぴあって叫んで壁まで後退る。

 なんだよその声って思ったら可笑しくて、俺はまた喉の奥で笑った。


「か、からかったんですか? 私多分、春樹さんより経験値下です。本気にします!」

「本気です」


 ベッドの上で追い詰める。

 壁に張り付いた彼女ににじり寄って、壁と俺の身体の間に閉じ込めた。両手を壁について見下ろした唯さんは動揺しまくりで視線さまよわせて、甘酸っぱいリンゴみたいな顔してる。

 やば。程々にしておかないとマジでやばい。


「まぁ、焦りません」


 前髪掻き上げておでこにキスしてから身体を離した。

 にっこり微笑んで見せたら唯さんが布団掴んで潜り込む。布団の中で、何か叫び始めた。

 経験値、例の彼とはどこまで積んだのか気になる。でもそんなことを気にしたって仕方ない。


「腹減りません? 昼、酒しか飲んでないんじゃないですか?」


 俺も昼はシードルをラッパ飲みしただけ。腹減った。

 布団の中から唯さんの顔が出てきた。目だけで俺の顔を見上げて、何故だかほっとしてる。


「どうしました? 食べられそうにないなら無理しなくていいですよ?」

「いえ、大丈夫です。……色気が薄れました」

「昨日から、色気ってなんですか?」

「無自覚ですか? ただでさえ格好いいのに、春樹さんはたまに色気が出るんです。心臓壊れます」


 よくわからん。でも褒められてるのかな。

 まぁいいかと思って俺は立ち上がる。

 両手突き上げて身体を伸ばす俺を、唯さんがベッドに座ってじっと見上げてた。何か用かなと思って首を傾げて見せたら、ふわっと穏やかな笑みが彼女の顔に浮かぶ。


「お腹空きました。お酒はもうこりごりです」

「毎回可愛いですけどね。酒は慣れです。でも、無理する必要もありません」

「はい!」


 まだ少しクラクラするって言ってたけど、水飲んで時間経てば大丈夫だろう。

 二人でリビングに入ると空の酒瓶が転がってて、オヤジ二人は上機嫌になってた。


「陣! 息子と嫁が来たぞ!」

「おー、愛しの息子よ! 孫はもうすぐかい? 楽しみじゃのぅ」

「酔っ払い共、飯は? 乾き物ばっか食ってんじゃねぇよ」


 酔っ払い二人のバカな言葉に反応して、唯さんが真っ赤になってる。


「唯ちゃん大丈夫か? 悪かったなぁ」

「いえ! 自分で飲んだんですからお二人の所為ではありません! むしろご迷惑をお掛けして、本当にすみません」


 陣さんが真面目に心配したら、唯さんが恐縮してる。

 義雄さんも唯さんを心配してから俺に近付いて来て、小声でバカなことを言った。


「潰れた女の子襲ったのか? それはさすがにいけないぞ?」

「アホかっ! 介抱しただけだ、この酔っ払いがッ」


 酔っ払い共のところに一人で残したら餌食になる。だから唯さんの手を引いて台所に連れて行った。

 冷蔵庫の中身を確認して、唯さんと酔っ払いオヤジ達のために雑炊を作ることにする。まだクラクラが抜けないって言う唯さんが手伝おうとしてくれたけど、危ないからそばに置いた椅子に座っててもらう。


「春樹さん手際がいいですね。調理師免許、持ってるんですか?」

「いえ。まだこれから、勉強して取るところです」


 会話しながら、陣さんから頼まれてたことを思い出した。材料入れて煮込んでる鍋の火を弱めて、振り返る。


「唯さん、次の仕事って決めてます?」


 困った顔で笑った唯さんを見て、まだなんだってわかった。だけど黙って彼女の言葉を待つ。


「そろそろ探すべきかなとは思うんですけど……何の仕事をしようか、迷ってるんです」

「前は何してたんですか?」

「経理の仕事です。それも、堅実だと母に言われたからで……母がいないと私、なんにも決められないんだなって」


 俯いた彼女が浮かべたのは自嘲の笑み。唯さんの中で、母親はすげぇ大きな存在だったんだな。


「良かったらうちで働きませんか?」

「え?」

「調理師免許取るために厨房での仕事をメインに切り替えたいんです。それで、バイトを雇うかって話が出てるんですけど、唯さんが次の仕事を探す繋ぎでもいいのでどうかなって」


 唯さんは動揺して、迷ってる。

 急ぐ話でもないからゆっくり考えてみてくださいって言って、話は終わりにした。雇うとしたらバイトとしてだし、ウェイトレスだ。ちゃんとした会社で正社員として働いてた人には抵抗あるかなとも思う。

 他人が与えられるのはきっかけだけ。後は本人次第って陣さんが言ってた。俺もきっかけを与えられてここにいる人間だから、踏み出す怖さは知ってる。

 この申し出が唯さんの重荷にならなければいいなって、俺は願った。


 飯の後で、義雄さんを迎えに子猿が現れた。


「おぅ。悪いな」

「こっちこそ。春樹、今日はスロット行ってなかったんだ?」

「あぁ。まぁな」


 義雄さんの娘のあゆむ。俺の一つ下。口は悪いけど、よくこうして酔い潰れた義雄さんを迎えに来てくれる。


「手間掛けさせんじゃねぇ! クソ親父!」


 俺の後に続いてリビングに入った歩の第一声。俺らは慣れてるけど、初遭遇の唯さんがきょとんとしてる。

 歩も知らない女の人の存在に驚いたみたいで、固まってる。

 そのまま放置も面白そうだけど、ちゃんと紹介することにした。


「唯さん、この子猿はあゆむ。義雄さんの娘です」

「子猿じゃねぇッ」


 俺の冗談に反応して足を踏み鳴らした。こいつはいつも騒々しい。


「あの、はじめまして。有馬唯と申します」

「ども。父がご迷惑お掛けしませんでしたか?」

「いえいえ。私の方がご迷惑をお掛けしてしまって」


 ふわふわほわほわな唯さんと元気いっぱい子猿な歩。二人の挨拶を、俺とオヤジ二人はなんとはなしに眺めてた。だけど会話が途切れて、俺は歩に睨まれた。誰なのかを説明しろって視線で言われた気がして口を開く。


「唯さんは俺の彼女」

「はぁっ? 彼女って……なんでだよッ」


 なんではお前だ。何をそんなに驚いたのか、謎。


「昨日付き合いだしたからほやほや」

「うっそ! こんなダメ男のどこがいいんですか? やめた方がいいですって!」

「え、えと……あの……」


 歩の失礼な発言に唯さんが困っている。

 歩むは俺の過去を知ってる。だからこそのダメ男呼ばわり。だけど、大きなお世話だ。


「おら歩。車のキー。帰るぞ」


 義雄さんに鍵を投げられて、歩は焦りながらもキャッチした。

 邪魔したなって言って、義雄さんは歩の頭を片腕で抱えて玄関に向かう。そのまま慌ただしく、二人は帰って行った。


「仲良し、なんですか?」


 なんだろ。唯さんの笑顔が怖い。


「歩ですか? 義雄さんのところに行くとたまに会うし、こうして義雄さんを迎えに来たりするんで、仲悪くはないですよ」

「そうですか……」


 これは、あれか。女の勘ってやつだ。

 陣さんは酒飲んで眠くなったって言って部屋に引っ込んだし、俺は唯さんをリビングに連れて行ってソファに座らせる。その前の床に両膝ついて、両手は唯さんの身体を挟むようにしてソファの座面に置いた。


「あいつには告られたことがあります。でもすっぱり断りました」


 変に隠してぎくしゃくしたくない。だから白状した。

 真っ直ぐ目を見て言ったら唯さんの目が少し大きく開かれて、続いて不満そうな表情になる。


「彼女はまだ、春樹さんを好きです」

「どうしてそう思うんですか?」


 答えない。

 唯さんは俺から目を逸らしてて、どうしたもんかなって、俺は考える。


「俺が好きなのは唯さんです。それじゃ、ダメですか?」


 膝の上に重ねられていた手を片方取って握ってみた。振り払われないから、触れるのは許可されたみたいだ。


「……ダメじゃ、ないです。ヤキモチです」

「そうですか。どうしたら不安、吹き飛ばせます?」

「いいです。ごめんなさい」

「謝らないでください。何が不安ですか? 教えてください」


 唯さんはまだ俺を見てくれない。だから手を握ったままで、俺はじっと待つ。


「…………彼女、何歳ですか?」


 ぽつりこぼされた質問。俺はすかさず答える。


「二十歳です」

「大学生?」

「そうですね」

「若い、ですね」


 あぁ、なるほどなって思った。唯さんは年上なのを気にしてる。


「俺は歳は気にしません。きっとあなたが同い年でも年下でも、例えもっと年上でも好きになったと思います」

「女たらし……」

「はい。あなた限定ですが」


 潤んだ瞳が俺を映して、拗ねて尖った唇に吸い寄せられるように、近付いた。唯さんが俺の動きに合わせて背凭れに倒れ込んで、俺は背凭れに両手をついて覆い被さる。


「していいですか?」

「な、何を?」


 赤くなってうろたえた彼女が可愛くて、俺は微かに空気を震わせ、笑う。

 赤い耳に唇寄せて、キスですよって囁いた。


「翻弄、されっぱなし」

「いいじゃないですか。溺れてください、俺に」


 ゆっくり唇近付けて、唯さんが逃げないで目を閉じたから、それを許可だと受け取る。

 片足ソファに乗り上げて、触れるだけのキス。すぐに離れてそのまま見下ろしていたら、目を開けた彼女は不満顔。


「その顔、嫌です」

「心臓、食べてあげますよ?」


 反論しようと開いた唇に吸い付いて、舌を滑り込ませる。

 嫌だったら首を振って逃げられるように、頬に触れた左手は添えるだけ。唯さんの不安も悲しみも全部、こうして俺が食べてあげられたらいいのに。

 わざと音を立てていやらしいキスをして、左手で唯さんの耳の形を辿るように指先で撫でると、俺の身体の下にある唯さんの身体がふるりと震える。


 あぁ……マジで食べちゃいたい……。


「……唯さん。俺、犯罪者なんです」


 するりと懺悔が、口からこぼれた。

 まだ彼女の傷が浅い内に、やっぱりちゃんと言うべきなんだ。これ以上俺も彼女も溺れてしまう前に、俺という人間を、俺がしたことを、伝えるべきだと思った。


 酔い潰れて眠る彼女を腕に抱きながら、ずっと考えてたんだ。


 唯さんは真っ直ぐ、俺を見てる。


 こんな姿勢で犯罪者の話なんて怖いよなって考えて身体を離そうとした俺を、唯さんが捕まえた。縋り付くみたいに、俺の首に両腕回して抱きついてくる。


「逃げないで。聞くから。怖がらないで」


 怖がってるのは俺の方なんだって、見抜かれてた。


 ごめん。唯さん。

 俺はまだあなたを、抱き返せない。

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