第9話 不良な俺と綺麗な彼女4

 源三さんは朝一に来る常連客。七十代らしいけど溌剌はつらつとしていて、騒々しい爺さんだ。

 違う物が欲しい時には先に言われるから、何も言われない時にはいつも同じ物を用意する。トーストとスクランブルエッグのモーニングプレート。それとブレンド。

 モーニングって言っても名ばかりで、時間なんて関係無しで置いているメニューなんだけどやっぱり当然、一番多く出るのは朝の時間なんだよな。

 源三さんが座るのは決まってカウンター席。

 他のお客さんが少ない時間にやって来て、俺や陣さんと世間話をする。


「あんがとよ。で、どういう知り合いなんだよ」


 ブレンドとモーニングプレートを机に置いた俺に、源三さんは興味津々って顔を向けてきた。


「午後の常連さんです」

「常連がなんで店先の氷溶かしてたんだぁ? しかも服、お前さんのだろ」


 目敏い爺さんだなって、苦笑する。


「彼女に聞いたんじゃないんですか?」

「知り合いだとしか言わなかったから坊主に聞いてるんじゃねぇか」

「まだ、そういう関係ではないです。服は事情があって貸しただけですよ」

「まだ、ねぇ?」

「はい。まだ」


 口の片端を上げて笑った源三さんに笑みを向けて、俺は他の客の注文を取りに行く。

 唯さんは、いつもの席でココア飲みながらぼんやり庭の雪だるまを眺めているようだ。

 雪だるま、まだ形は保っているけどこれも氷の塊。小さい奴らは崩れ始めている物もあった。


 ココアを飲み干して、唯さんが一旦帰ると言って会計をしに来た。今度は俺の負け。ココアの代金を押し付けられる。


「借りた服、洗濯してからお返ししますね。また後で来ます」

「お待ちしています。気を付けて帰ってください」

「はい。眼鏡、お借りしていきますね」


 ドアの向こうへ消えた背中を見送った俺は、客に呼ばれて忙しなく、仕事へ戻った。



 昼のピークを過ぎて俺の休憩が終わったいつもの時間。唯さんが店に戻って来た。

 自分の服に着替えて化粧もしている。すっぴん可愛いかったなって思い出して、また見られるかななんて考える。


「眼鏡、ありがとうございました」


 今回はカウンター席。腰を下ろした唯さんが掛けていた眼鏡を外して、俺の方へ身を乗り出してきた。


「やっぱり素敵です。今日はこれでお仕事しますか?」


 まだ温もりが残っている眼鏡。唯さんの手で掛けられて、俺の顔には熱が上った。

 俺が浮かべた表情に気付いた彼女も頬を染め、慌て始める。

 二人赤い顔で動揺して、変な空気だ。


「い、いつも通り飄々としていてくださいよ。そんな反応されたら照れてしまいます」

「俺、飄々としてますか?」

「してます。いつもにっこり微笑んで、平気で私を翻弄するじゃないですか」

「翻弄、されてるんですか?」

「あぁやぶ蛇です! ほらそのにっこり顔です! 眼鏡パワーも加わって大変です!」


 何が大変なのかはわからないけど一人パニックの彼女は面白可愛い。

 唇を尖らせ始めた彼女の機嫌を直すため、俺は珈琲を淹れる。

 立ちのぼる香り。胸いっぱいに吸い込んだ彼女が、穏やかな表情になった。


「いい香りです。カウンター席ってこういう楽しみもあるんですね」

「そうですね。この香りを楽しみたいからって必ずカウンター席に座る人もいますよ」

「私、ラッキーです。春樹さんが声を掛けてくださらなかったら、これは体験出来ませんでした」

「……フォンダンショコラ、ですか?」

「はい。あと、いつものっていう注文も。憧れていたんです」


 唯さんの頬がほんのり赤い。はにかんだ笑みを浮かべる彼女の前に、俺は静かにブレンドを置いた。

 お礼を口にしてからカップを取って、一口飲んだ彼女はほっと息を吐く。


「私、自分からは何も出来ないんです。恥ずかしくて、周りの反応も気になっちゃって。カウンター席だって憧れていましたけど、知らない店員さんとの距離感とか、会話しなくちゃいけないのかなぁとか思うとやっぱり勇気が出なくて」


 それはまるで、俺が彼女のパーソナルスペースにいてもいい存在になったっていう、許可の言葉に聞こえた。

 嬉しい。こそばゆい。

 いつもは存在を忘れがちな心臓がここにあるぞと主張する。胸がじわり熱くなって、それはひどく心地がいい。


「次にやりたいこと、なんですか?」


 質問と共に、ミックスサンドを彼女の前へ置いた。唯さんがそれを手に取り一口かじる。咀嚼しながらうんうん唸って、彼女の視線が右上へと動いた。

 彼女と俺しかいなくなるこの時間。静かなジャズが流れる店内で珈琲の香りに包まれて、流れる時間がゆっくりになるような、そんな気がする。


「ギャンブルがしてみたいです」


 ミックスサンドをきれいに食べ終わってから唯さんは、恐々という風に俺を見た。

 幻滅なんてしないのに。恐らく彼女は、それを怖がっている。


「わかりました。店閉めた後だと時間が微妙なので、土曜はどうですか?」

「はい。大丈夫です。……本当に、いいんですか?」

「何がですか?」

「ギャンブルだなんて悪いことです」

「あぁ。よくやってるんで大丈夫です」

「そうなんですか? ギャンブルって、何をやるのでしょう?」


 わかっていないらしいと見てとって、思わず笑いが溢れた。

 笑った所為で唯さんの機嫌を損ねてしまったみたいだけど、唇尖らせた姿が可愛くて可愛くて、俺は滲み出す笑みを隠せない。


「いろいろありますよ。馬にボートに自転車とか。でも、一番身近で行きやすいものに連れて行きます」

「身近、ですか?」

「スロットです。駅前に店、たくさんあるでしょう?」

「…………カジノですか?」


 真剣だ。彼女はマジで言っている。噴き出すのは堪えて拳を口に当てて隠したけど、ダメだ。


「失礼です。笑わないでください」


 ぷくっと膨れた頬。触りたい。可愛い。


「パチンコならわかります?」

「わかります。でも行ったことないです」

「そこ、行きます。勝てるといいですね」

「はい! 頑張ります!」


 あんな所、連れて行ったら彼女はどんな反応をするんだろう。不快そうに顔を歪めるか、びっくりしてきょとんとするのか。

 想像して、俺の方がビビってる。

 幻滅される要素があるのは俺の方。彼女に幻滅されたら俺は、耐えられるのかな。


   ※


 いつもの時間、店に来た彼女は上機嫌だった。

 いらっしゃいませって言葉と共に迎えた俺と目が合うと、頬を染めて笑う。


「お金はいくらぐらい持って行くべきでしょうか」


 いつもの窓際の席へ座った唯さんが、水とおしぼりを机に置いた俺を見上げている。まるで遠足のおやつの金額を聞くみたいな雰囲気。

 俺が右手でピースサインを作って見せたら、彼女はこてんと首を横に傾けた。


「に、千円?」

「まぁ、それでもいいです。足りない分は出します」

「万ですか? そんなに使うものなんですか?」

「運と選ぶ台次第です。最低、やめるギリギリラインの金額ですかね」


 ぽかんと口を開け、俺の言葉にショックを受けている。

 真面目に生きてきた人なんだな。俺とは違うんだって、つくづく思う。


「行くの、やめますか?」


 あまりにもうろたえていたから確認する。だけど彼女は一大決心したみたいに唇引き結んで、首を横に振った。


「行きます」


 彼女にとっては悪いこと。俺にとっては日常の暇潰し。

 こんなにも価値観も生きてきた世界も違う俺と唯さん。

 胸が、嫌な痛みを訴えた。


「今日の夜、暇ですか?」


 いつもの物を用意してから席へ運び、ブレンドに手を伸ばした彼女に聞いてみる。途端硬直して、一瞬後に彼女の視線がさまよった。みるみる耳まで染まっていく。


「デートと呼べる場所ではないですけど、明日の予行練習してみませんか?」

「予行練習、ですか?」

「はい。いきなり本番は訳わからないと思うので、ゲームです」

「そんなものがあるんですか?」

「はい。行きますか?」


 不思議そうに首を傾げながらも唯さんは頷いた。

 予行練習。それで反応見て、最悪明日は、連れて行かない。


 唯さんには閉店まで待ってもらって、店閉めた後で着替えてから一階へ戻った。

 彼女の話し相手は陣さんがしてくれていて、リビングから店へ続く階段を降りた俺の耳に二人の笑い声が届く。


「お待たせしました」


 ドアを開けて声を掛けると、振り返った陣さんが歩み寄ってきた。


「おー春樹、ちゃんとエスコートしろよ?」

「あぁ。わかってる」


 はじめてのデート。緊張を必死で隠している俺の耳へと口を寄せた陣さんが、意地悪な囁きを落とす。


「今日帰ってこなくてもいいんだぜ? 明日休みだろ」

「ば、バカなこと言ってんなッ」


 楽しげに唇歪めた陣さんの言葉に動揺して、顔が熱い。聞こえてなかったらしい唯さんは不思議そうに首を傾げて俺らを見ている。


「なんでもないです。行きましょう」

「はい」


 視線で問われている気がしたけど、答えられるわけない。

 マジで陣さんはバカだ。変態オヤジだ。

 背中で怒りを伝えた俺を、陣さんの笑い声が追ってくる。

 腹立たしくて居た堪れない、そんなどうしようもない気持ちを店内へ捨て置くことにした俺は、唯さんを促して鈴の音と共に外へ出た。

 きっと陣さんは一人、店の中で笑ってる。その姿が想像出来て、でもその幻影は頭を振って振り払う。


「どこへ向かうんですか?」


 歩きだしてから唯さんに聞かれて気が付いた。そういえば、目的地を伝えていない。


「ゲーセンです」

「ゲームセンターですか。そこにも行ったことがありません」


 マジか。

 思わず俺はまじまじと彼女の顔を見た。

 俺の視線を受け止めた彼女は気まずそうに俺から視線を外して、また唇を尖らせている。


「そういう遊び、縁が無かったんです」

「友達と何して遊んでたんですか?」

「お茶したり、映画観たり、本屋へ行ったりです」


 お茶……女子だ。女の人だ。

 本屋なんて、俺は漫画買いにしか行ったことがない。唯さんはそれ以外でも行ってそうだ。

 まっさら。そんな彼女に悪いこと教えて穢している俺。だけどそれに変な快感も覚えてる。

 俺は、やっぱり汚い。


「夕飯、どうします? まだ微妙な時間ですけど」

「春樹さんはお腹空いていますか?」

「俺はまだ。唯さんは?」

「私もまだです」

「なら、先にゲーセン初体験に行きましょう」

「はい!」


 元気良く頷いた彼女を連れ、アスファルトの道を歩く。

 雪はもうだいぶ溶けて、雪掻きで端に寄せられた雪が泥だらけで残っているくらい。

 触れるか触れないかの距離にある唯さんの身体。手を伸ばしたくなって、我慢するために拳作ってコートのポケットへ押し込んだ。

 触れたい。でも、触れたらいけない気がする。

 汚れた俺。綺麗な唯さん。

 近くにいるけど、俺らはとても遠い。

 知れば知るほど彼女は俺には眩しくて、手を伸ばすのが怖くなる。


 あなたが好きです。なんて、今の俺には到底言えない。

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