2 縮まる距離
第4話 縮まる距離1
外はザーザー冷たい雨。こんな日でも彼女はやって来る。
鈴の音が来客を告げ、冬の外気と共にドアをくぐった彼女の片手には、鮮やかな緑の傘。それを入口脇の傘立てに置いてから、彼女は鞄の中を探りだす。
肩が少し濡れているからハンカチを探しているのだろうと察した俺は、迷わず彼女へ近付いた。
「いらっしゃいませ。良かったらタオル、使ってください」
「こんにちは。ありがとうございます」
朝から降り続けている雨対策だろう、濃紺の長靴姿の彼女へ、俺はタオルを差し出した。
雨の日のサービスで、こんな日でも足を運んでくれるお客さんにお礼を込めてタオルを用意してあるんだ。
「えっと……いつもの、お願いします」
席に着いた彼女は俺を見上げて照れ笑い。
土曜、陣さんには普通に注文していた。俺への注文は「いつもの」。なんだか特別な暗号みたいだ。
「雨、すごいですね」
「そうですね。とっても寒いです」
寒そうに両手をこすり合わせた彼女はカップを両手で包んで一口飲むと、寒さで強張っていた頬をほっと緩めた。
「こういう日は、店員さんは困りますか?」
「そうですね。昼時のピークでも客足が伸びなかったですし」
「店員さんは働き者ですね。偉いです」
「そんなことないですよ」
穏やかな笑顔で褒められ、じんわり胸が温かくなる。
「雪じゃなくて残念ですね」
「本当残念です。あと一歩だと思うんですけどね」
「気温が、ですか?」
「はい。あと一歩寒かったら、この雨は雪だったと思うんです」
「雪が降ったらお客さん、ここに来られなくなりますね」
「近所なので問題ないです。新雪を踏みしめながら来ますよ」
「転んで怪我しそうですね」
「そんなドジじゃ、ないですよ……多分」
自信無さそうに視線をさまよわせている。この人、抜けてるところがありそうだもんな。
肩を震わせて笑っている俺を不満そうな表情の彼女が見上げてきたから、怒られる前に話しを続けた。
「もし困ったらここに来たらいいですよ。俺は毎日いますから、助けます」
目を見開いて固まった彼女を置いて、なんとか平静を装いながらもカウンターへ逃げ込んだ。
――何言ってんだ俺! 頭わいてんじゃねぇよ!
自分が口にした言葉に動揺してうろたえながらも盗み見てみた彼女は、微笑みを浮かべてミックスサンドへ手を伸ばしていた。
あれはいつもの笑顔だ。お得気分でミックスサンドを頬張る、いつもの笑顔。
頬がほんのり赤く見えるのは、俺の願望の、幻影かな。
「お、来てるな」
彼女を盗み見ていた俺の背後へ陣さんが忍び寄り、呟いた。驚いた所為で俺の肩が大きく跳ねる。
「どうして忍び寄るんだよ」
「普通だよ。お前がぼーっとしてるからだろ?」
一理あるから言い返せない。そんな俺に、陣さんはからかいの笑みを向けてくる。
「その顔やめろ」
「生まれつきだって」
「そんな顔で産まれて来たらビビる。怖ぇよ」
「失礼だなぁ。こーんな男前捕まえて」
「男前ねぇ?」
陣さんは中年太りもしてないし引き締まった身体をしてる。顔も悪くないけど……自分で言うのかと思って、俺は苦笑した。
「春樹。彼女、お前を見てるぜ」
突然声を落とした陣さんがそんなことを言いだして、俺は彼女へ視線を向けた。
陣さんの言葉通り彼女は俺を見ていて、目が合うとふんわり笑う。あまりの可愛さに思考が沸騰しかけた。
追加注文かもしれないと思い至り、俺は彼女のもとへ向かう。
「仲良しですね」
「まぁそうですね。仲良し、です」
それが言いたかったのかなって首を傾げる俺を見上げた彼女は、穏やかに笑っている。
「あのですね、今日は甘い物が食べたくて……。フォンダンショコラみたいなお薦め、ありますか?」
やっぱり追加注文かと納得をして、俺は考える。
今日用意しているケーキを思い浮かべ、ぴったりの物を思い出した。
「寒いので、ジンジャーケーキなんてどうですか? 生姜、苦手じゃなければですけど」
「生姜好きです。ならそれと、珈琲のおかわりもください」
「かしこまりました」
すぐに用意しようと思って振り向いたら、笑みを浮かべてこっちを窺っていた陣さんと視線がぶつかった。
見るなという思いを込め、顔を顰めて見せた俺へ肩を竦めてから、陣さんは新聞を開く。
新聞に視線をやりながらも俺の動きを気にしているらしき陣さんに内心でため息を吐いて、俺はジンジャーケーキを皿に盛る。
「これも、店員さん作ですか?」
珈琲と一緒に運んだら、彼女が大きな瞳で俺を見上げてきた。異様に照れ臭くて、俺は視線を逸らして頷く。
「そうです」
「美味しそうです」
味見はしたし、陣さんの指示の下で作った。陣さんにもお墨付きをもらえたから店に出しているんだけどなんだかとても緊張して、カウンターへは戻らず、彼女が食べる姿を見守る。
彼女の細い指がフォークを持ち上げ、皿の上のケーキを一口サイズに切ってから、添えられた生クリームを付けて口に運ぶ。
ゆっくり咀嚼して味わった彼女は俺の目の前で、口の中で溶けだす綿菓子のような笑みを浮かべた。
「とっても美味しいです。生姜のケーキ、初めて食べました」
「良かった、です」
「店員さんは、若いのに偉くてすごいです」
俺のこと、なんにも知らない彼女は手放しで俺を褒めてくれた。
それはこそばゆくて嬉しくて……本当の俺を、彼女には知られたくないなと思った。
※
彼女の望んだ、雪が降った。
昨日の雨が夜には雪に変わり、降り続いた雪は溶けずに積もった。
昼を過ぎた今でも雪は未だ降り続いている。
昼休憩中に見たテレビで、電車の遅延や転んで怪我をした人のことがニュースになっていた。彼女は近所だと言っていたけど大丈夫なのだろうか。
鈴の音と共に開いたドア。
現れた彼女を見て、俺は苦く笑った。
「やっぱり転んでるじゃないですか」
「油断しました。つるんて、滑りました」
鼻も頬も真っ赤で、何故なのか傘を持っていない彼女。
被っているコートのフードはべしゃべしゃで、痛そうに開いた手のひらは擦りむけ血が滲んでいる。ジーンズの脛の部分も濡れていて、膝も擦りむいていそうだ。
「ここ座ってください。傘はどうしたんですか?」
「傘は置いてきました」
「なんでですか」
「だって、雪ですよ? 邪魔じゃないですか」
「びしょ濡れじゃないですか。何してるんですか」
「あぁ……! びしょ濡れ、お店に迷惑ですよね。浮かれすぎて思い至りませんでした。ごめんなさい」
「そんなのどうでもいいですから。濡れたコート脱いで。手のひら消毒しますよ」
涙目で反省をはじめた彼女を促し、脱がせたコートはハンガーへ掛けた。タオルで水気を拭ってみたけどびしょ濡れすぎて、彼女が帰るまでには乾きそうもない。
この人バカ可愛い。マジで可愛い。
「足は? 擦りむいてるんじゃないですか?」
「じんじんします。でも大丈夫です」
カウンター席へ座らせた彼女の手のひらを消毒して絆創膏を貼った。膝も気になったけど、裾が捲れそうにない。
ありがとうとごめんなさいを繰り返し続ける彼女を見下ろして、俺は苦笑するしかない。
「長靴はちゃんと履いてるのに、どうして手袋無しなんですか」
「雪に触りたくて。手袋はびしゃびしゃになるから諦めて置いてきました」
「手、真っ赤ですよ。……ココアは好きですか?」
「…………好きです」
恐縮しまくって落ち込んでいる彼女へ新しいタオルを渡してから、俺は救急箱を片付けた。
カウンターに入って手を洗い、熱々のミルクココアを淹れる。
「どうぞ。温まりますよ」
「ありがとうございます」
マグカップを両手で包もうとしたけど熱かったのか、両袖を伸ばして火傷しないよう袖で手のひらを覆ってからカップを持ち直した彼女は、息を吹き掛け冷ましながら、熱いココアを啜った。
「美味しいです」
幸せそうに笑う彼女を見ていたら、俺の顔も自然と緩む。
頭は打っていないみたいで、良かった。
「こんな寒い日はドリアなんていかがですか? 温まりますし、具沢山なのでお得感もありますよ」
「いいですね。じゃあ、お願いします」
「かしこまりました」
そのままカウンター席に落ち着いた彼女は俺の動きを目で追っている。
ココアを啜りながら機嫌良く笑っている彼女がいつもより近くて、なんだか緊張してしまう。
そんな心の内を彼女に悟られないよう隠しつつ俺は、朝仕込んでおいたドリアにチーズをかけてオーブンへ入れる。
チーズがこんがり焼けたら出来上がりだ。
「熱いので、気を付けてください」
「はい。ありがとうございます。美味しそうです」
いつも通り笑顔で両手を合わせてからうまそうにドリアを食べ始めた彼女を見守っていると、じんわり温かな何かが、俺の心を満たす。
「雪だるまをですね、作ろうと思うんです」
雪のおかげで上機嫌なのか、彼女はドリアを食べる合間に話し始めた。嬉しそうに、無邪気な子供の笑顔。
「昨日はまだべしゃべしゃで、朝は明るくて恥ずかしかったので夜に決行するんです。まだ雪、残ってますよね?」
「大丈夫じゃないですか? まだ降り続いていますし」
「楽しみです」
よっぽど雪が好きらしい。
都心ではあまり降らないけど降れば厄介者扱いされる雪なのに、彼女にとってはまるで、光り輝く宝石みたいだ。
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