第3話 俺と常連の彼女3

 喫茶坂の上はオフィス街のそばにある所為で、土日は客足が遠のく。だから定休日は日曜で、土曜は陣さんが一人で店を開ける。

 喫茶店を開けてるのが陣さんの趣味なんだって。

 俺は朝の開店までは手伝わせてもらえるけど、土曜は休みだ。

 休みをもらったってやることなんてない。

 地元から遠いこの街で知り合いは陣さんと喫茶店の客くらい。暇だから働かせてくれって頼んだけど、休む時にはしっかり休めと怒られた。

 手持ち無沙汰の俺は、自分の部屋の窓を開けて冷たい空気を顔に感じながら煙草に火をつける。メンソールの煙を吸い込んで、外へ向かって吐き出した。


 ここに来てから、親とは連絡を取っていない。

 陣さんが実家と折り合いが悪いってのもあるし、俺自身も何を話せばいいかがわからない。

 俺が輪っか掛けられて泣き崩れた母親。

 家に連れ戻された時、ゴルフクラブで殴りかかってきた父親。

 両親に従順で俺と違って真面目な弟。

 あそこには、随分前から俺の居場所なんてなかった。


 俺のことで親戚が集まって、みんなに罵られた。

 それだけのことをした自覚はあったから、俺は黙って受け止めた。そんな中何も言わないで、陣さんだけが優しい瞳で俺を見てた。

 陣さんも昔、俺みたいだったんだって。今はただの気のいいオヤジって感じなのにな。

 親戚の鼻つまみ者だった陣さんは実家を出てレストランで修行して、貯めた金で喫茶店を開いた。マンションも持ってて、家賃収入もあるらしい。

 しっかりと自分の足で立ってる陣さんみたいに、俺はなれるのかな。

 やりたいことなんてない。

 夢なんてない。

 毎日生きているだけで精いっぱい。

 ただ、喫茶店の仕事は楽しい。


 煙吸い込んで、冷たい空気を肌で感じて考えるのは、土曜も彼女は来るだろうかってこと。

 いつも土曜は適当に街をぶらついたりスロットに行って暇を潰してる。今日は下に客として行ってみようかなって考えたら少しだけ、わくわくした。


 陣さんの本棚を覗いて適当に一冊選ぶ。

 陣さんが読むのはミステリーだとか、時代小説、あと金の運用方法とかの本。

 俺が手に取ったのはミステリー。確か、ちょっと前に映画化していた。


「春樹。珍しいな」

「うまい珈琲淹れてよ。あと腹減った」

「おー。オムライスでも食うか?」

「食う」


 昼時だけど店内に客はゼロ。開けてる意味あるのかなって思うけど、土曜だけの常連もいるらしい。

 カウンター席でオムライスを食ってから、陣さんに淹れてもらった珈琲を持って窓際の席へ移動した。

 彼女がいつも座る席の隣。いつもと同じ場所へ座った彼女と向かい合う形になる席。そこなら入って来る客も見えるし、カウンターで新聞読んでる陣さんも横目で窺えるベストポジション。


 本を開く前に、珈琲を味わう。

 一口飲んで、長く息を吐き出した。


 ここに来るまでは缶とかインスタントしか飲んだことがなかったけど、こだわって淹れた珈琲ってこんなにうまいんだなって、初めて飲んだ時には感動した。

 豆の違いだけじゃなくて、焙煎の仕方、豆の挽き方、ドリップの仕方で味が変わる。

 喫茶坂の上のブレンドは、酸味が少なくて少し苦味があるマイルドな味。


 俺は珈琲を飲みながら、彼女がいつも見てる窓の外を眺めてみる。

 窓の向こうは小さな庭みたいになっている。これも陣さんの趣味で、陣さんが手入れしてて俺もたまにだけど手伝う。でも今の季節に咲く花は植えていない。

 何もない庭から空へと視線を移して、雪は降りそうにないなって考える。

 彼女は、どんな表情で新雪に足跡を残しに行くんだろう。無邪気な笑顔かな。それとも穏やかに微笑むのかな。

 珈琲が空になって、俺は本を手に取った。

 耳に届くのは控えめな音量で流れるジャズ。有線だ。一ページ目を開いて、こういう時間の過ごし方も悪くないなって、感じた。


 椅子を引く音で本の世界から現実へ戻された。面白くて、集中して読んでいた。


「こんにちは」


 声を掛けられ、顔上げた先には笑顔の彼女。

 コートを脱ぎながら俺に視線を向けていて、目が合ったら会釈してくれた。土曜も同じ時間なんだなって考えつつ、俺も挨拶を返す。


「店員さんはお休みですか?」

「休みです」

「髪を下ろしてると雰囲気が変わりますね。一瞬わからなかったです」

「あぁ。若返りますよね」

「そうですね。年相応です」


 童顔がコンプレックスらしい彼女。年相応って言葉、やけに強調した気がするのは気のせいじゃないと思う。


「いらっしゃいませ」

「ミックスサンドとブレンド、お願いします」


 おしぼりと水を持ってきた陣さん。注文聞いて引き返す時、口角上げたからかいの笑みを浮かべながら俺に目線を寄越した。

 珍しく俺がここに来た不純な動機が見抜かれたんだって、理解した。


「ミックスサンド、好きなんですね」


 あんまり話し掛けるのは迷惑かなとも思ったけど、もう少し彼女の声を聞いていたい。


「ミックスサンドって、得した気分になりませんか?」

「得、ですか?」

「はい。いろいろ入っててお得な気分です」


 無邪気な彼女の笑顔に反応して、俺の心臓が跳ね回る。この人、どうしてこんなに可愛いんだろう。


「その表情、また失礼なことを考えてますよね」


 緩んだ顔になった俺を見た彼女は不満顔。唇を尖らせてる。


「また、可愛いなと思っただけです」

「…………店員さんは女たらしですか?」


 彼女は、悪い男には騙されないぞと言いたげな顔を俺へ向けてきた。頬杖をついてゆるゆるの笑顔になった俺は、彼女を見返す。


「あなたにだけです」

「ほ、ほら! 女たらしです! 危険です!」


 真っ赤な顔であわあわうろたえてる彼女の可愛いさが半端ない。

 握り拳で緩んだ口元を隠して笑っていたら、拗ねた彼女が頬を膨らませた。


「お待たせしました」

「あ、ありがとうございます」


 見計らってたみたいなタイミングだ。

 陣さんは珈琲とミックスサンドを彼女の前に置いて、素早くカウンターへ戻って行く。でもその口元が、楽しげに歪んでいやがる。これは後でからかわれるなって考えたら少し、憂鬱になった。


「いただきます」


 彼女がミックスサンドを手に取ったから、会話はおしまい。俺はまた本へ視線を戻した。


 先が気になって小説にのめり込んでいたら、いつの間にか日が暮れていた。彼女が椅子から立ち上がった音で気が付いて、びっくりした。


「また、来ます」

「……お待ちしてます」


 待ってます。その言葉を口にしてみて、俺は彼女と会うのが楽しみになっているんだと自覚した。

 穏やかな笑顔で俺に会釈してから、彼女は会計を済ませて帰って行く。今日はあの寂しそうな顔をしたのかなって、見忘れた自分を残念なやつだなって、思った。


   ※


 定休日の日曜は、陣さんと豆の買い付けに行く。

 大量買いすると質が落ちるから最低限の量だけ買って、足りなくなったら買い足すようにしてるんだ。

 車は国産のミニバン。陣さんは車種にこだわりがなくて、程良く大きくて便利だろってことらしい。

 俺は十八になってすぐ、陣さんの金で車の免許を取らせてもらった。

 喫茶店のバイト代もきちんとくれてて、マジで陣さんには頭が上がらない。働いて返すからバイト代もいらないって言ったけど、陣さんは笑って拒否をした。

 だから俺の恩返しは店の手伝いと家事。

 世話になってばかりでそれしか出来ない俺だけど、陣さんは何もいらないって言って笑うんだ。

 最初からこの人の息子に産まれていたら……なんて、くだらないことを考えたりもした。でもそうなっていたら多分、今のような関係にはなれていなかったのかもしれない。


「窓際の彼女」


 車に乗り込んでエンジンを掛けたところで、助手席でシートベルトを締めた陣さんが呟いた。

 昨日はノータッチだったくせに今来たのかと、俺は身構える。


「いつも同じ注文なのなぁ」

「あぁ」

「ミックスサンド」

「あぁ」

「ブレンド」

「あぁ」

「ミックスサンド、好きなんだなぁ?」

「らしい。だからなんだ」


 車を走らせながら横目で確認してみた陣さんの顔はとてつもなく楽しそうで、からかう気満々な雰囲気が漂いだした笑みを浮かべていた。


「何歳?」

「…………二十六」

「おーおー。歳聞き出したのか! 仕事は?」

「知らねぇ」

「まだそこまでかぁ。年上ねぇ」

「なんだよ」

「名前は?」

「知らねぇ」

「奥手か? まさか春樹が奥手とはなぁ!」

「うるせぇ黙れッ! その顔やめろ!」

「どの顔だ?」

「その生あったけぇニヤニヤ笑いだ!」

「これは、生まれつきだ」

「嘘吐くな!」

「手元狂われて心中したくねぇし、今はこれでやめとくかぁ。今は」

「強調すんなっ!」

「ほれほれ、前見ろー」


 深呼吸して、動揺を押し殺した。

 くそっ、なんだこの気恥ずかしさは。

 ただ常連の女の人と会話しただけ。それだけだ。


 約三十分車を走らせて着いたのは珈琲豆の専門店。陣さんの古い友達だっていう人の店。

 二台分しかない駐車場に車を止めて、陣さんの後について店へ入る。


義雄よしおさん、こんにちは」

「よぉ春樹。今用意するから待ってろ」


 義雄よしおさんはなんだかんだと俺のことを可愛がってくれている。俺の事情も知ってるみたいだけど変な態度を取られたことは一度もない。そこはやっぱり、さすが陣さんの友達だなと思う。


「ヨシよぉ春樹がさー、常連の女の子にアプローチしてんだぜぇ」


 豆の用意をしている義雄さんの背中に、陣さんがバカなことを吹聴し始めた。


「なんだ、春かぁ? 春樹も年頃だもんな。んで? 可愛いのか?」


 振り返った義雄さんは楽しげに歪んだ笑顔を俺に向けた。

 こいつらに餌を与えると延々といじられる。だから俺は黙ったまま反応しないよう努める。


「結構可愛いんだよな? 清楚で可憐系。なぁ春樹?」

「なんだぁ、春樹は清楚で可憐が好みかぁ。俺も見に行こうかな」

「来るな。別に好みとかでもねぇし」

「おーおーツンツンしちゃってぇ。春樹かーわいー」

「おい春樹。顔赤くしてたら説得力皆無だぞ」


 思わず反論した俺に、すかさず陣さんと義雄さんのツッコミが入った。

 やっぱりこの二人に敵う気なんかしなくて、俺は諦めのため息を吐き出してから観念する。


「アプローチとかじゃなくて話しただけだ。あの人、店が暇な時間に来るからただの暇潰し」


 からかいの笑みを優しい笑いに変えた陣さんが、ヘッドロックをキメてくる。おっさんのくせに力が強くて、結構痛い。


「陣さん! いてぇって!」

「お前はほんと、可愛いなぁ」

「んだよそれ」


 しみじみ呟くなよ、恥ずかしいだろうが。


「オヤジと若い男のたわむれは好みじゃねぇな」


 優しい表情で笑って、義雄さんもバカなことを言ってる。

 この人達はいい人だ。大人だけどガキっぽくて、こんな俺にも良くしてくれる。陣さんと陣さんの周りは、ダメな俺にも温かい。


 義雄さんの店で買った豆を持って店へ戻った。

 休みの日でも、陣さんはデートとかには出掛けない。独身だけど、今はそういう相手もいないみたいだ。結婚を考えた人もいたらしいけどお互いの夢を取って別れたんだっていう話を前に聞いた。

 今の陣さんの恋人は喫茶坂の上で息子は俺なんだって。そんなバカみたいなことを言って、笑うんだ。


「お前さ、調理師免許取らねぇか?」


 喫茶坂の上の裏手にある駐車場に車を停めて、トランクから豆の袋を出して担いだ俺に向かって陣さんがそんな言葉を掛けてきた。

 陣さんの役に立つことならなんでもやろうと思う。けど、今更学校は嫌だな。店に出られなくなるのは困る。


「それって、学校通うの?」

「いや。実地を二年してたら受けられる。実技は俺が教えてやるよ」

「……受けようかな。いくら?」

「金は気にするな。必要経費だ」

「んだよそれ。俺、バイト代貯めてるぜ?」

「それはお前の金だ」

「……陣さんってさ、お人好しだよな」


 豆の袋を担いで俺の前を歩いてる陣さんの背中に、呟いた。

 親戚だけど、俺は陣さんの甥だけど、そこまで陣さんが俺にする義理はないと思うんだ。


「春樹だからだよ。昔の自分を見てるみたいだからな」


 俺の両親や親戚達は、世間体とか「ちゃんとしてること」が大事。俺は「ちゃんとすること」がどういうものかよくわからない。

 陣さんは、俺からするとちゃんとしてるって思う。

 誰も彼もが俺を冷たい瞳でゴミみたいに見てくる中で、陣さんだけが、俺を引き上げようとした。


「出世払い、する」

「おぅ。期待してる」


 俺に期待なんてするのはあんただけだよって、無性に泣きたくなった。

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