第2話 桃果と僕

 川上桃果かわかみももかが脳腫瘍を患ったのは三年前の夏で、僕たちが中学三年生の時のことだった。記憶が徐々になくなっていく症状にも悩まされ、余命は三年を宣告されていた。

 症状の初期段階は、ちょっとした物忘れだった。数日前の出来事を話題にした時、桃果は眉間に深いしわを寄せた。この時、桃果の頭の中からは、数日前の出来事がすっぽりと消えていたのである。必死になって思い出そうとする桃果は苦しそうで、僕の胸はズキンと痛んだ。

 どうやら桃果の記憶は、最近のものからなくなっていくらしかった。

 それから三年弱が過ぎ、余命一ヶ月を迎えても僕のことを覚えていてくれたのは、僕らが物心のつく前から知り合っているからだろう。いわゆる、幼なじみっていうやつだ。

 苦しむ桃果を笑顔にしたい。だから僕は、今ここにいる。

 明治神宮野球場。

 東東京大会、決勝戦の舞台である。

 この試合に勝てば、桃果との約束を果たすことができる。甲子園出場という、幼いころに交わした大切な約束を――。

 目の前に立ちはだかるのは、怪童、凛道はじめだ。

 九回裏、ツーアウト。一対〇でリードしていた。

 四番バッターの凛道を抑えれば、ゲームセットで僕たちの勝ち。甲子園出場は、まさに目の前だった。

 ここまで相手チームには、単打を三本しか許していない。すべて凛道一人に打たれてはいたが、それ以外はランナーすらも出していない。

 この場面で一番やってはいけないことは、ホームランを打たれることである。かといって、あからさまに歩かせて、同点のランナーを出すことも避けたいところだ。

 僕たちは、くさいところをついて勝負することを選択した。この選択が間違っているとは、到底思えなかった。

 勝つために、最善を尽くしたつもりだった。


 まだ十分明るかったが、日差しはようやく陰りを見せ始めていた。

 御茶ノ水駅周辺は、とにかく楽器店が多い(入ったことはないけれど)。桃果の入院する病院は、駅から楽器店を何軒か通り過ぎた先に、申し訳なさそうに建っていた。

 僕は桃果のいる個室のドアの前で、深く長い息を吐く。神宮球場から直接来たので、エナメルバッグとバットケースを背負ったままだった。

「あっ、哲人てつとだ」

「うっす」

 ドアを開けるとすぐに、桃果は僕の名前を呼んだ。

 いつも通りの人懐っこい笑顔を浮かべていたが、声がか細いため、とても元気そうには見えなかった。

「試合、残念だったね」

 僕が椅子に座るやいなや、桃果は真っ先にそう話しかけてきた。

「ああ」

 違う。違うだろ。僕が言うべきことは、こんな一言なんかではない。桃果に言うべき大切なことが、最も言わなくてはいけない大事なことが、たったひとつだけあるじゃないか。

 数秒ばかりの気まずい状態の後、意を決して桃果と向き合う。僕が来る前に泣いていたのか、桃果の目の周りは少しだけ赤くなっていた。

「約束、果たせなくてごめん」

 頭を下げる。

 桃果を笑顔にできなかった。なんとしてでも、桃果を笑顔にしたかったのに。大病を患う前に見せてくれたあの笑顔を、僕はもう一度見たかったのに。

 結局、僕は桃果のためになにもできなかった。それがなによりも悔しくて、自分のふがいなさに腹を立てるばかりだった。

 もう二度と、桃果の笑顔は見られないのだろうか。

 桃果のいない世界に、生きる意味なんてあるのだろうか。

「いいんだよ」優しい声音だった。「私のためにがんばってくれて、私のためにグラウンドに戻ってきてくれて、これ以上ないくらいすごくうれしかった。ありがとう、哲人」

 顔を上げることは、どうしてもできなかった。

「中学での堕落っぷりとは大違いだね」先ほどとは一転して、いたずらっぽい口調で桃果は言った。

 うっ。それを言われると、ぐうの音も出なくなってしまう。

 中学の時の僕は、目も当てられないくらいひどかった。凛道との実力差をひがんで野球をやめ、なにもかもがどうでもよくなっていたのだ。

 桃果との約束を投げ出したうえ、人生すらも投げ出しかけていた。野球こそが人生のすべてなのだと、勝手に思い込んでいたからだ。

 けれど……それは違った。

 僕にとって一番大事なのは桃果。川上桃果。

 優しくて、明るくて、面倒見がよくて、笑顔が素敵で、ちょっと怒りっぽくて、たまにおっちょこちょいで、僕のことを誰よりも理解してくれる、たった一人のかけがえのない幼なじみ。

 礼を言うのは、こっちのほうだ。

「ありがとな、桃果」

 言いながら顔を上げると、目の前にくしゃくしゃになった桃果の顔があった。

 そう。あの川上桃果が泣いているのだ。僕の前では一度だって泣いたことなんてない桃果が、涙を流している。

「忘れちゃうのかな。哲人のことも、なにもかも……。そんなの、嫌だよ。だって、今までの日々が、思い出が、全部が全部、意味のないものになる気がするんだもん。そりゃあさ、人は誰しもが最後に死ぬよ。死ぬけどさ、死んで無になるけどさ、死ぬ前にすべてを忘れるなんて、あんまりだとは思わない? まだ死んでないのに、死んでいるのと変わらないよ、そんなの。ただ苦しいだけだもん……。ううん。なにもかも忘れたら、苦しいってことすらもわからないんだ。なにもかもわからないまま、生きたまま無になっちゃうんだよ!」

「………………」

 どうすればいい。いったい僕に、なにができるっていうのだ。想像すらできない桃果の苦しみを、僕はどう受け止めればいいのだろうか。

「哲人……」

 桃果は静かに、僕の名前を呼んだ。

 しばしの沈黙が、僕たちの間に流れる。

 精一杯生きたいと叫んだ今の桃果は、間違いなく世界で一番きれいだった。

「桃果。目、閉じて」

 片手を伸ばした僕は、桃果の潤んだ瞳に手をかざして、優しく閉じた。

 これで準備は整った。

 音を立てないよう、ゆっくり、そして慎重に、バットケースからバットを取り出す。

 決意が鈍るのを避けるため、バットのグリップを力強く握り締める。これまでに何千回と振ってきたそのバットを、小刻みに震える手で頭の上にまで持ち上げた。

 僕は今から、桃果を殺す。

 体が弱っている今の桃果なら、僕が躊躇ちゅうちょしなければ一振りで死んでしまうだろう。

 桃果が苦しむ姿は、もう見ていられない。なにもかもを忘れる前に、僕がこの手で殺してみせる。僕が桃果にしてあげられることは、もはやこれくらいしかなかった。自分の手を汚してでも、僕は桃果を殺さなければいけないような気がした。きっと桃果は、それを望んでいる。桃果が望んでいるのなら、僕はそれを実行しなくてはならない。

 さよならだ、桃果。

 グリップを握り締める両手にじんわりと力をこめ、バットを後ろに引いた。

「キスでもしてくれるのかな」

 瞬間、僕の手は動きを止めた。

 殺そうとしているんだぞ。そんなのんきなこと、こんな時に言わないでくれよ。

「私ね、この世界に生まれてくることができて、哲人に出会えて、本当によかった。哲人がいつもそばにいてくれて、本当にうれしかった。だからね、これから先も、ずっと一緒にいられるものだとばかり思っていたの。でも、現実はそれを許してくれなかった。将来を想像するのがなによりも好きだった女の子の夢を、現実はなんの躊躇いもなく壊していった……。憎いよ。正直に言って憎い。こんな世界なんて滅んじゃえばいいのに、って何回思ったことか」

 そこで桃果は、目を開けた。

「でもね、哲人。あなたがいた。この世界にはまだ、あなたがいた。私がどうしても生きたかったこの世界で、あなたにはどうしても幸せに生きていってほしい。それを自ら棒に振るなんて、私、絶対に許さないから」

 強い意志のこもったその目は、有無を言わさぬ力を持っていた。

 振り上げたバットを力なく下ろした僕は、桃果の目をもう一度閉じた。

 キスをする。

 その直後、桃果はまぶしいほどの笑顔を見せた。

 僕はそれを、一生忘れることはないだろう。

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