白球の奇跡

@dottsu

第1話 じいさんと僕

 大屋根で日差しを遮っているとはいえ、甲子園球場の一塁側内野席は十二分に蒸し暑かった。全身黒ずくめの僕は、ずいぶんな速さで溶けていくかち割りをチューチュー吸いながら、目の前の試合をただぼんやりと眺めていた。

 野球を見るのは好きだ。ましてやそれが、全国高等学校野球選手権大会、通称夏の甲子園ならば、少しぐらい興奮気味に見入っていてもなんらおかしくはない。

 けれども今は、とてもじゃないが興奮なんてできやしない。

 理由は明白だった。やけにハイカラな格好(派手な色をした襟の長い野球のユニフォーム)をしたヘンテコなじいさんが、僕の隣に座っているからである。

 気の抜けた顔をしているこの背の低いじいさんは、高校生を相手に大人気ないヤジを飛ばしていた。一体全体、なにがそんなに気に食わないのだろうか。

 目に余る奇行は、これだけではない。

 ファールボールが近くに飛んできただけで大騒ぎするし、未来から来ただの若い女の子と付き合っているだのと、意味不明なことをのたまい始めるのである。これにはさすがの僕も、聞いてあきれるばかりだった。

「君は見たところ高校球児のようじゃが、誰かを応援しに来ているのかのう?」

 第一試合が終わって暇を持て余したのか、じいさんは脈絡もなく僕に話しかけてきた。

「ええっと……」

 思わず言いよどんでしまう。僕はもう高校球児ではなかったし、純粋に誰かを応援しに来たわけでもなかった。

 ニッと歯を出して笑ったじいさんは、親しみやすい口調でこう付け加えた。

「もしくはわしと同じ、ただの野球好きか?」

 今の質問で、すぐにわかった。

 この人は本当に、野球が好きなんだと。

「まぁ、そんなところです」と、僕は控え目に答えることしかできなかった。

 迷っている。僕は今、迷っている。そうはいっても、九割九分はもう決まっているのだけれども。

 野球は高校まで、と。

「なに辛気臭い顔をしておる。せっかく野球観戦に来ているのじゃから、もっと楽しそうな顔をせい」

「……はい」

「いつまでもそんな顔をしておると、甲子園の魔物がやってきてしまうぞ」

「どういう意味ですか? それ」

 甲子園には魔物がすんでいる、とはよく聞く話だ。それは、試合中に思いもよらぬことが起きるという意味だった気がするが……。このじいさんの言う魔物とは、いったいどういう意味なのだろうか。

「知らんのか。まぁ、無理もない。君にとったら、未来の時代の話じゃしなぁ」

 どうやらこの人は、自分が未来から来たのだとまだ主張したいらしい。

 ジトっとした目を向けて抗議するも、じいさんは構わず話を続けた。

「甲子園の魔物。それは言葉の通り、本物の魔物じゃ。遭えば人格を変えられてしまう、正真正銘の魔物なのじゃ」

「人格を、変えられる?」

「そうじゃ。魔物に遭った人たちは皆、野球大好き人間になってしまうのじゃ」

「…………」僕は再び、ジトっとした目を向けた。

 そんな魔物がいてたまるか。

「信じておらんな。けどな、君みたいなやつが、一番魔物に遭いやすいんじゃよ」

「僕みたいなやつ? なに言っているんですか。僕はすでに、野球大好き人間ですよ」

「わしが言いたいのはな、君のように迷いを抱えている人間ってことじゃ」

「………………」僕は押し黙った。

「野球を続けるかどうか、迷っておるんじゃろう?」

「うっ……」

 なんて察しのいいじいさんだ。

「この野球好きの老いぼれに、ちと聞かせてみてはくれぬかのう。君の物語を。君の野球人生を」

 誰にも話すつもりなんてなかった。けれども僕は、このじいさんになら話してもいいかなと、ほんの少しではあるが思い始めていた。このいやに察しのいいじいさんなら、僕の迷いなんか簡単に吹き飛ばしてくれるのではないかと、わずかながらに期待してしまうのである。

 グラウンドのほうを見やると、ちょうど凛道りんどうの姿が目に入る。あいつはいつも通りの無表情で、淡々とキャッチボールをしていた。

「あれは、今から二週間前。東東京大会の決勝戦が行われた日……」

 僕はおもむろに、話し始めることにした。

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